契約成立
夕食後、ジョシュアとマイアは婚姻について語り合うことにした。
「話していたように、契約結婚にあたって君に説明しておきたいことがある。基本的に、マイア嬢に求めるのは公の場での振る舞いだけ。人前で妻として行動してくれれば、裏では何をしていようが構わない。俺も君にはあまり干渉しないようにする」
「ということは、事務仕事や掃除をしなくてもいいのですか?」
「ああ。事務仕事はともかく、掃除は使用人の仕事だが。
まさかハベリア家では君が掃除をしていたのか?」
「あっ! い、いえ……そんなわけございませんでしょう?」
慌てて言い繕うマイア。
しかしジョシュアの目は誤魔化せなかった。
公爵として、彼は嘘偽りを見抜く目を持っている。
いち令嬢の嘘など容易く看破できた。
「しかし、契約結婚とはいえ俺たちは夫婦となる。
悩みがあれば打ち明けてほしい」
「もちろんです。でも、こんなに良い環境に置いていただけて……悩みなんてありませんよ」
良い環境。
マイアはそう述べたが、彼女にあてた部屋は公爵家では小さい方だ。
伯爵令嬢であれば、こんなものかと落胆するのが当然の反応。
ジョシュアは本音を語り始める。
ここは一度、今回の婚姻に関してしっかりと話さなければ。
「最初、俺はどんな酷い令嬢が来るのかと憶測していた。
マイア嬢の噂は酷いものだったからな」
「そ、それは……ええ。まあ、仕方ありませんわ。色々と複雑な事情がありますもの」
「だが、蓋を開けてみれば純粋な少女だった。
仕事に集中するために、あえて俺を放っておきそうな女を嫁に招いたのだが……どうにもそうはいかないらしい」
そうはいかない、と聞いてマイアの表情は強張った。
噂通りの悪女でないから、破談されてしまうのだろうか。
「私は……ジョシュア様が望むのならば、噂に沿った悪女にでもなります。ですから、どうか婚約破棄は……実家には戻りたくないのです」
「婚約破棄などするものか。君は意地でもハベリア家に帰してやらん。
だが、一つ見直さなければいけないことがある」
ジョシュアの言葉にはどこか怒りが染みていた。
マイアに対する怒りではなく、ハベリア家に対する憤り。
言葉には出さずとも、彼女の言動から推測できる。
マイアは実家で酷い目に遭ってきたのだと。
ジョシュアの信条が、妻に対して行われてきた仕打ちを許さなかった。
「俺は仕事人間だ。公務に奔走し、ひたすら陛下に尽くすのが役目。
だから、ずっと君の傍にいることは難しい」
「ええ、構いません。ジョシュア様はどうぞお仕事に集中なさって」
「マイア嬢にもしものことがあった時、俺はきっと後悔する。なぜなら、君が悪人ではなく善人であったからだ。犠牲になっても構わない人間を嫁に選んだつもりが、犠牲にしたくない人を選んでしまったんだ」
存外にジョシュアは悩んでいた。
彼は悪人にはめっぽう強く、善人には弱い人間なのだ。
マイアが来てから思い悩んだものの、結論を出した。
「契約上の結婚であることに変わりはない。しかし、俺も夫としての努力をしてみようと思う」
「夫としての努力、ですか……?」
「恥ずかしい話だが、俺は恋愛というものに無縁だった。だから愛なんてものはわからない。しかし、これから先添い遂げる妻であれば……愛を向けねばならない。
マイア嬢が良識のある人物だとわかってきた時点で、俺は君を無下にできん。夫としての責務を果たすことが俺の責任だ」
直球な彼の言葉に、マイアは心臓がはねた。
真正面から「君を愛する」と言われたのだ。
ジョシュアとしてもマイアを「妻」として縛り付けることに責任を持つ。
「あ、あのあの。その……わ、私も恋愛経験とかないので。
契約結婚だとお聞きして、安心してたのですが……」
「ならばお揃いだな。
共に夫婦の責務について学び、よき夫婦となるように努めよう」
「は、はい!」
頷いたマイアを見て、ジョシュアは一枚の紙を取り出す。
「契約書だ。内容をよく見て、君がよければ署名を」
マイアはじっくりと契約書を読み始める。
特に知らない情報は書かれていない。
これは契約結婚であること、公の場で妻として振る舞うこと、互いには極力干渉しないこと、公爵家の品位を落とさぬこと、などなど……事前に聞いていた情報がほとんどだ。
「式の準備が整うまではしばらくかかる。
それまでは婚約者として過ごしてもらうことになるが」
マイアの緊張が高まる。
ずっと鼓動が高鳴っていて顔が熱い。
緊張のせいか、筆が上手く取れない。
ふと。震える彼女の手に温かいものが触れた。
「書いてくれるか?」
震える彼女の手に重なった、ジョシュアの白い手。
美しくも立派な男性的な手だ。
次第にマイアの緊張は収まっていく。
彼女はやがてインクを紙に垂らし、さらさらとペンを走らせた。
「契約結婚、謹んでお受けします」