私だけのドリアン・グレイ
金色の日が部屋に差し込む午後。キャンバスと画材が所狭しと並べられた小さな部屋の中央で、二人の女性が向かい合っていた。
一人は成人女性。もう一人は、まだ十にもならない少女。
その成人女性、箒子は一心不乱にキャンバスに向かい、目の前の少女の形をキャンバスに模倣していた。
少女はモデルとして箒子に雇われていた。といっても報酬は少女にはまだ馴染みの薄い金銭ではなく、山ほどのお菓子ではあったが。
「お姉ちゃん、まだ?」
「そうだね。あと三分したら休憩入れようか」
ただ座っているだけ、というのも退屈である。もう幾度か箒子に雇われてモデルをしているが、それでもこの強烈な退屈は幼い少女にとっては耐えがたい。
初めは、退屈さを感じさせないよう箒子も小話などを話し、そして少女との会話で何とか場を持たせていた。しかし、デッサンから油彩の長い行程である。細かい作業や修正はモデルなしでも行ってはきているが、それでも少女なしでは難しいとしている総計数時間にも及ぶ作業で、もうネタは尽きてしまった。
それにもう仕上げの段階だ。
あとは少しの色を入れて、細かい部分を修正すれば少女はお役御免となる。
それもあと少し、そう感じている箒子はその筆を速め、口数が更に少なくなっていた。
筆を置く。まだ少しだけ作業は残っているが、ひとまず区切りはいいだろう。
箒子はそう判断し、少女に炭酸ドリンクと自作のクッキーを勧めた。虫歯を怖がる厳格な家庭で生まれ育った少女にとっては、これすらも至福の時だった。数十分の間動かぬよう、姿勢良く保つなどという重労働さえも引き受けてしまうほどに。
シャクシャクと、ココナッツ入りのクッキーをかじり、炭酸飲料で喉を潤す。甘さが控えめなクッキーは、合成甘味料の強い甘みとよくあっていた。
退屈が尾を引いている少女は、椅子に座り足をぶらぶらと動かす。行儀が悪いと、彼女はこの癖でよく母親に怒られていた。
キャンバスを遠くから見たり近くから見たり、角度を変えて何度も油絵の調子を確認する箒子に、少女は声をかけた。無邪気な声音で。
「……綺麗に描けてる?」
「もちろん、本物と同じくらいかわいいよ」
箒子はキャンバスから目を離さず、それでも笑って答える。まるで、キャンバスに語りかけているかのように。
その言葉は本音だ。そして、箒子の誇りでもあった。
箒子は画家だ。未だ画壇で認められはしていないものの、写実的な表現では同世代の誰にも負けていないと自負している。まるで本物をそのまま画布に写し取ったかのような緻密な表現。血管や産毛までを表現し、それでも実物を間近で見たときのある種の不気味さを感じさせない。
その本物を忠実に再現する画風に、写真では駄目かと友人とよく議論になっていた。
しかし、駄目なのだ。そう、箒子は胸を張っていつも主張していた。
もちろん、美しさを保存するのであれば写真も素晴らしい表現技法だ。
人の目では捉えきれない一瞬の、光と影と、被写体の動きと背景と、その濃淡を捉えて鮮明に映し出す表現は、写真でしかありえないものかもしれない。
だが、とそこに箒子は異論を挟む。
写真では、そのまますぎる。自分が描くのは絵画だ、と。
機材の準備では、写真のほうが複雑かもしれない。その理想的な一瞬を捉えるために、何ヶ月、ときには何年もかかるのは知っている。
けれど、箒子は自分の腕に誇りを持っていた。
写真では、いくら理想的な一瞬を捉えようと、人の手の及ばないものがある。光の角度があと一度ずれれば理想的かもしれない。被写体があと少し関節を曲げていれば、理想的かもしれない。そんなジレンマが続く。続いてしまう。
絵画にそのジレンマはない。
もちろん絵画も、何日も何ヶ月も、何年もかけて一つの対象を描く。
しかしキャンパスの中では、その画家は神だ。光の角度も被写体の向きも、仕草も、全てが思いのままだ。それにより、いくらでも理想を追求できる。
モデルを写真に収めるとき、理想的な瞬間を待つことは出来る。しかし、待った結果どうなるだろう。偶然、その時に撮影できれば申し分ない。箒子もきっと負けを認めるだろう。
けれどそのモデルが生きているならば、それは成長してしまう。変化してしまう。その輝かしい一瞬を保存したいのに。
故に、彼女は美を描く。
得意としているのは、人物の入った絵。それも人物の美しいときを、美しい場所に美しい姿で保存する肖像画だ。
その精密な、一種偏執ともいえる表現により、彼女の絵は本物を本物以上に瑞々しく保存していた。
「うん。あと、もう本当に仕上げだけかな」
箒子は頷く。自分の絵の仕上がりに。少女の人生のうち、一番美しいこのときを、一番美しく描いている。そう確信できた。
あとは仕上げだけ。この絵の仕上げは彼女にとって初めての試みを導入してみようと考えていた。
箒子の胸中など知らず、無邪気に少女は一枚の絵を指さす。カラン、と手の中で氷が音を立てた。
「それも、お姉ちゃんの絵?」
「……ああ、うん。懐かしくて持ってきちゃったんだ。ここで一人で作業してるとき、隣にあると落ち着くからね」
指さされたのは一枚の肖像画。そこには少女よりも若く、幼い少女が澄ました顔で座っていた。ちょこんと膝の上で組まれた手はまだ白く、染み一つない。
まだ何も汚いものを見たことがないとでも言いたげな澄んだ瞳。その唇は、まだ涙でしか濡れたことがないだろう。
「あれお姉ちゃんだよね」
「そうだよ。私のお父さんが描いたんだ。お父さんも画家でさ……知らなかった?」
「うん、ちっとも」
クッキーを二枚まとめて頬張り、少女は笑う。その笑みに、箒子は一抹のさみしさを感じた。
箒子の父親も画家だった。それも箒子と同じく写実主義印象派の大家で、画壇では一角の人物だった。
このアトリエの本棚に差されている美術学の本にも、いくつも絵が載っているほどだ。
本当ならば、ある程度以上の年齢の者なら子供でも名前くらいは聞いたことがあったのだろう。
父親は、箒子の誇りだった。
しかし、目の前の少女が『知らない』というのもわかる。
少女が自分の父親を知らないのは、きっと理由があるのだろう。その理由も、箒子はわかっていた。
父親は画家だった。才能溢れる芸術家で、娘としての贔屓目もあろうが、リーフェンスにもレンブラントにも負けていないと箒子は感じていた。
しかし、その才能は、世渡りの才能ではなかったのだ。
箒子の父親が描く肖像画には、共通点があった。
見る者を引き込む深い黒。瞳や影に使われた黒の表現が特に秀逸だった。
それを、画壇の者達は羨んだ。
箒子も後から聞いたことだが、当時父親の元にはその黒い染料の正体を聞き出そうと、画家たちが殺到していた。しかし、父親は頑としてそれを喋らなかった。『工夫して作り出した黒は、自分だけのものだ』と。
手を変え品を変え、画家たちはそれを求めた。父親の絵を買い取り、絵の具を削り取り科学鑑定までしようという輩もいたという噂まであった。
そして、やがて羨望は嫉妬へ、嫉妬は悪意へと姿を変える。
いつの頃からか、とある噂が流れた。
『あの黒は、モデルの血だ。モデルは肖像画を描かれた後、人知れず殺されているのだ』と。
ふと、箒子はその噂を思い出して小さく笑う。
そんな馬鹿なことがあるものか。現に、肖像画に描かれている自分はまだ生きている。その特徴的な漆黒もその絵には使われているのに。
「お姉ちゃん?」
少女は、突然笑った箒子を訝しむ。変な人だとは思っていたが、それでも突然で驚いた。
箒子も箒子で、自分が笑うとも思っていなかったが。
「ああ、ごめんごめん。さ、それ食べたらもうちょっとだけ付き合ってよ」
「今日は疲れたから、ちょっとだけだよ?」
「うん。もう、五分もかからないから」
わがままなモデルだ。そう、内心箒子は笑う。
しかし、この年代のわがままさはむしろ美徳だろうとも思っていた。少女は、今が一番可愛いときだ。美しく、まだ男に媚びることもなく、退廃的な遊びに耽溺することもない。
まだ折れることないその心は、凜として美しい。
だから、だからこそ今、彼女の美しさを絵画に保存しておかなければ。
そう、信じていた。
少女を前にして筆を取る。後は残りの光沢と、細かいディティールの修正、それともう一つの重要な行程だった。
鉛白の油絵具を絵画に盛り、パレットナイフで削り取る。頬や手の甲を彩れば、それだけで立体感が形作られる。もちろん、その上から赤や黄で質感を表現することも忘れない。
少女の美が、画布の上に写し取られる。
その人生のうち、最も美しく、最も光に満ちているこのときを、忠実に。
一心不乱に修正を続ける。もはや、少女を視界に納めないほどに。
だが、足りない。まだ足りない。箒子はまだ求める。彼女の美はこの程度ではない。
光と影。それは相反して交わることはないが、それでも必ず組となる。
光り輝くその美しさも素晴らしい。しかし、それはその絵に影があってのこと。
その影は、暗く、引きずり込まれるような黒がいい。
瞳に、唇に、輪郭に、深みがある黒がほしい。
コトリとパレットを置く。油壺の中に筆先を沈めて洗う。
その様子を見て、顔を上げた少女の頬に光が当たった。
「終わったの?」
「ううん、まだだよ」
箒子は答えながら、使い込んだパレットナイフを手に席を立つ。そのよく研がれたナイフのきらめきは、絵の具に塗れてもなお輝いていた。
箒子は考える。
箒子の父は彼女の肖像画を描き上げた後、首をくくって命を絶った。それはそんな噂話によるものではなく、その自らの才能に苦しんだ芸術家の宿痾だろう。
父は無実だ。箒子はそう信じているし、それは事実だった。
父親がモデルを殺していたなどという与太話は、明らかに嘘だ。
もしもモデルが姿を消したなら、この法治国家の優秀な警察が、父を逃すはずがない。それは、ただの嫉妬と憎しみが作り出した噂話だ。
しかしその結果、広まった風評により父親の名前は失墜した。教科書からも姿を消した。
箒子は父のアトリエで、一冊のノートを発見していた。そのノートには、ランプブラックや植物炭を複雑に調合し練り上げる、父秘伝の油絵具のレシピが載っていた。
彼女の父親は無実だったのだ。
人など殺していなかった。しかし、ただノートの端書きに、一つだけ気になる文があった。
『本当に、血を使ってみたらどんな絵が描けるだろう』と。
実際には使っていないだろう。そして使わなかったからこそ、箒子の美しい時を写し取り、それでも納得がいかずに命を絶ったのだ。『もしかしたら、そうすればもっと美しい絵が描けるのではないか』と悩み。
「最後に、黒がほしいんだ。黒い染料が」
「お姉ちゃん?」
少女の問いかけには答えず、箒子は少女に歩み寄る。
箒子は誇りに思う。無実だった父親を。
箒子の肖像画に、箒子の血を使うなどと、考えなかった父親を。
箒子は目の前の少女の美しさを、確かに画布に写し取ったと信じている。
だが、その自信も揺らいでしまう。『本当に? まだ出来ることがあるのではないか?』と。
父はよく我慢したと思う。
私はもうこの衝動を、抑えられそうにない。