第10話 閑話:護るものと、守るもの
コーデリアは兄の帰投を知らず、日常を過ごしていた。
兄たちが護り、また自らが守ると決めた日常を。
ギルバートは、二カ月ぶりとなる我が家へと駆ける。
急な帰投、仲間がくれた時間。唯一の家族であり、妹が待つ積み木街へ。
無事な姿を一刻も早く、彼女へ届けるために。
「……お兄ちゃん!?!」
全くの唐突。
こちらに「おーい」と手を大きく振りながら小走りに駆けてくる兄、ギルバートの姿にコーデリアは一抱え程ある洗濯物が入ったカゴを抱えたまま、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「よお、今帰ったぜ! ……なんだ洗濯モンか? 重そうだなそれ、持ってやるよ……貸してみな!」
「だ……だめだめだめ! たった今洗濯屋さんで綺麗にしたばっかりなんだから! お兄ちゃんその制服、汚れてるでしょ! ……ていうか、何?! いつ帰ってきたの!?」
笑ながらカゴに手を掛けようとするギルから一歩大きく離れると、コーデリアは首ぶんぶんと横に振る。カゴに詰められていたのはシーツだろうか。彼女の言う通り真っ白に仕上がったそれと比べれば、ギルが纏う制服はお世辞にも綺麗とは言い難い。
「お、おぉ……確かにまあ、さっき帰投したばっかだしな……」
なかなかの剣幕でぷうと頬を膨らませる妹――コーデリアに苦笑しながら、ギルは頬をぽりぽりと申し訳なさそうに掻く。そのどこか抜けた兄の表情にコーデリアは思わず吹き出すと、ようやく兄の無事を実感し、笑顔を浮かべた。
「今回は突然だね。 ……でもお帰り、お兄ちゃん」
「おう」
妹の笑顔に口元を上げ、ギルは手に持った鞄を抱え直しながら大きく頷いてみせる。
「それで……斑鳩さんたちは?」
こちらの背後をきょろきょろと見渡す彼女にもう一度頷くと、ギルは懐かしくも感じる我が家、コンテナハウスへ向けて歩き出す。
「全員無事だ、心配すんな。 ちと俺だけ先にお前の様子見てくるように命令されちまってな。 仕方なくこうして、寂しがってる妹に会いに戻ったってワケだ」
「……まったくもう、嘘ばっかり! どうせ早く帰りたいとか言って、みんなに迷惑掛けたんでしょう」
やれやれと言わんばかりにため息交じりにそう返すコーデリアに、ギルは振り返らずひとしきり笑うと手をひらひらと彼女へ振ってみせる。
「まあ、半分は本当だぜ? イカルガ隊長様からの直々の命令ってやつだからな。 それにあいつだけじゃねえ、全員がお前に会いに行けって言ってくれてよ。 こうして一足先に帰ってこれたっつうか……ま、少し休んだら一旦戻るけどな」
「……そっか」
その言葉にコーデリアは少し照れくさそうに笑うと、うんうん、と首を立てに振り、兄の前へと駆け出す。目と鼻の先だった二人が暮らすコンテナハウスの入り口に立つと、背後のギルに腰に着けた鞄を突き出した。
「お兄ちゃん、鍵開けて。 鞄の中……いつものとこ入ってるから」
「おうよ」
ギルは二つ返事で彼女の腰に巻かれた革製の鞄へ手を伸ばす。
このアンティークな装飾が刻まれた革製のウエストポーチは、幼い二人がまだ内地――厳格だった叔父に世話になっていた頃、何歳かの誕生日にコーデリアが叔父から贈られたものだ。当時はサイズ的に腰に巻く事は叶わなかったため、背負い鞄の様に使っていたが……今は彼女の腰に丁度よく備わっている。
「あったあった。 よし、久々の我が家にご帰還だぜ」
がちゃり、と重い音を立て開かれる鍵と扉。
まだ日は高いが、カーテンが閉じられたコンテナの中はかなり薄暗い。ギルは扉をくぐると、壁に設けられた明かりの電源を入を手さぐりで入れた。ヴヴン、と低い音が響くと同時、頼りなく何度か点滅したのちに煌々とした明かりを放ち始める天井の明かりに、なんとも言えない懐かしさを覚える。
「ほら、入って入ってお兄ちゃん。 そこ邪魔邪魔!」
「お、おう悪ぃ悪ぃ……」
コーデリアに背中を洗濯かごで押され、ギルは家の中へと足を踏み入れる。
目の前に広がる光景は、2か月前、ここを経ってから変わっていない。掃除が行き届いた部屋は外観からは想像もできないほど小奇麗に保たれていた。さすがはリアだぜ、とギルは満足そうに頷くと、この狭い部屋の中、自らの定位置と言ってもいい古びたソファへいつも帰宅した通りに手に持っていた鞄を放り投げる。
「よい……しょっと!」
背後から入ってきたコーデリアも両手で抱えていた洗濯かごをベッドの脇へと下すと、早速シーツを取り出しベッドへと覆い掛け始めた。いつもの商店区画入口にある洗濯屋の仕事だろう。真っ白なそれが掛けられると、古びたベッドもまるで新品の様な様相に飾られる。
「リア、水一杯貰っていいか? 喉乾いちまってよ……俺のマグカップは……っと」
「うんー、いつもの食器棚のとこだよ。 お兄ちゃん居なかったからお水余り気味だったし、好きに飲んでいいよ。 あ、でもだからって飲み過ぎはダメだからね」
しゃがみ込み、ベッドの裾を整えながら振り返らずにそう言うコーデリアに、ギルは苦笑しつつ肩を竦め「へいへい」と返事返す。暫く使う機会のなかったギル専用のマグカップは、ホコリを入れないためだろうか。彼女の言う通り、食器棚に掛けられた清潔そうな布の上に伏せて置かれていた。
ギルはその気遣いに口元を緩めながら使い古されたマグカップを手にすると、シンクとは反対側へ。飲料水専用の小ぶりなタンクの蛇口をゆっくり捻ると、細い蛇口からカップに綺麗な水が静かに注がれてゆく。カップ半分ほどのところで再び丁寧に蛇口を締めると、ギルはコーデリアに向き直りながらそれを一気に飲み干した。
「……やっぱり水も家で飲むのが一番うめーな!」
口元を拭きながら大げさに喜ぶギルに、コーデリアは振り返ると「どこだって一緒でしょ、もう」と笑顔をこぼす。
A.R.K.内で供給される飲料水は、どのA.R.K.においても万能ナッツの栽培工場横に設けられた浄水施設から、必要に応じて各コンテナハウスへとタンクに詰められ運ばれる。
浄水施設では、アガルタが保持する前時代から引き継いだ技術の一つ、鼻をつまむ匂いを放つ汚水ですら飲料に耐えるものへとろ過する特殊なフィルターが用いられている。そうして用意された飲料水は、遠征先の拠点などにも運搬されており、コーデリアが言う通りもちろんその味はどこでも全く同じもの、である。
当然、供給される飲料水に違いはないという事はもちろんギルも知っている。
だがやはり我が家に帰宅と同時、もう何年もの付き合いになるこの古びた自分のマグカップで飲む水の一口目こそが、彼にとっては一番なのだ。
もう一度カップを煽り僅かに残った水を飲み干すと、ギルは改めて家の中を見渡した。
今回の遠征中、アダプター1でもコンテナハウスを仮住まいとして生活してきた。同じ規格のコンテナを利用した住居だけあって、その広さなどは寸分違わず同じではあるが……やはり住み慣れた場所は、居心地が違う。目の前で家事に勤しむ家族が居れば、尚の事だ。
ギルは目の前、いつも通りの光景から得た安堵に苦笑しながら、ようやく帰宅したという実感を感じていた。
周りを見渡すその視線が、ふと食卓にも使う少し広めの机の上で止まる。
そこにはいくつかの画材と共に、大小さまざまな紙に描かれたイラストが広げられていた。ギルは歩み寄ると興味深そうにその中から一枚拾い上げる。言わずもがな、彼女の趣味でもある絵。手に取ったそれには、細く用立てられた木炭で器用に描かれた、一羽の鳥が空を飛ぶ姿があった。
「またお前、絵の腕上げたなぁ。 これ、鳥だろ? かなりいい具合に描けてるんじゃねえのか」
「ホント? 一人の時間多かったから……よく描いてたの。 鳩……っていう鳥なんだって、その子。 最近、たまに見かけるんだ」
へえ、とギルはそのイラストを電灯に掲げてみせる。光に透かされた紙に浮かぶ、黒く描かれた鳥……いや、鳩の絵。
絵に関しての知識も、鳥に関する造詣も持ち合わせていないが、おそらくよく描けているのだろう。躍動感……とでも表現すべきだろうか。確かに感じるそれに、ギルは「へえ」「ほお」と感嘆の息を漏らしながら、幾度か角度を変えながら描かれた鳥を興味深そうに眺める。
「お前が描くの、風景画ばかりだと思ってたけど……いい絵だな、これも。 ……それにしてもハト……鳩か。 見かけるって、積み木街でか?」
「うん。 ……あ、うーん、どうだろう? 積み木街の上を一羽だけ、たまに飛んでいくのを見かけるの。 あんまり動物って、見ないけど……いつも同じ様に飛んでて、目に入っちゃったから……描いてみようと思って」
この世界において、全ての動物は死滅したわけではない。
だが幾数十年前……タタリギが世に現れ、その脅威に抗う為。人が投入した数々の、様々な兵器によってその数は激減してしまった。
繰り広げられたタタリギとの熾烈な戦いに、住処を焼かれ、環境を失い、数えるには多すぎる動物たちがこの世界から姿を消した。タタリギによる地質の汚染。ヒトの兵器による汚染。重なる二つの要因から大地はさらに荒れ果て、草食動物が姿を消し、食物連鎖の底辺を失い、多くの生態系は崩壊してしまったのだ。
今は内地においてごくごく少数の家畜などは存在こそしているものの、その稀少価値は高い。
野生の動物ともなれば、尚更である。少なくとも、13A.R.K.の外……内地から遠く離れたこの荒廃したこの土地では、地を往く動物も、空を飛ぶ鳥を見る事も、ヤドリギとして出向するギルたちですら見掛ける事は稀だ。
「それにしても、鳩ってよくわかったな? まさかとっ捕まえて間近で見た訳じゃねえんだろ?」
「もう、そんな可哀想な事するわけないでしょ! ……たまに積み木街で会う人に教えて貰ったの。 そうだ、お兄ちゃんたちの上司だって言ってたよ。 キース、って人」
「は? キースって……あのキース、司令代行か?」
コーデリアは背を向けたままベッドメイキングをしながら、事も無げに「うん」と頷く。
「3回くらい会った、かなぁ。 早朝の掃除してるときに、たまーに会うの。 積み木街見てまわるのが好きなんだって。 それでね、その時教えて貰ったの、あれは鳩だねって言ってた」
「へえ……そう言えばアレだな、今の司令代行はここに来る前は内地の苦情処理係してたとか言ってたな……民間居住区のよ。 こっちでも同じような事してんのかね? ……意外だぜ」
ギルは驚きながらもどこか納得、と言葉を並べていたが――
伏せた斑鳩を前に話をしたあの場での彼の姿を思い出すと、自然と表情が厳しくなる。あの場で見た彼の迫力は、とても苦情受付係に従事していた男が放つ気配のそれではなく、現役のヤドリギであるギルをして、まさしく本物であると感じずにはいられなかった。
仲間たちの前で伏せ横たわる斑鳩を前にして彼……キースが迷わず言い放った、非情でいて、この上なく冷静な判断。だが、それに関してあの場に居た詩絵莉とは違い、ギルは一切、彼に対して負の感情を抱く事はなかった。
いや、むしろ彼が斑鳩に向けた姿勢には、むしろ信頼と尊敬を感じてすらいたのだ。
ヤドリギとは、そうで無ければ務まらない。
ヤドリギから一線を引いた彼が持つ価値観は、上官として信頼に値する……そう評価していた。
……詩絵莉たちの気持ちも、当然理解出来る。
仲間だった者を手に掛ける――それがどういう感情を産むのか。
それは、誰でも理解出来るものだ。だが、真にアールを、斑鳩を守るためには……誰かが手を汚す覚悟を持たねばならない。そう、それがギルが常に考え心に引く、"最後の一線"。
斑鳩はあの時から――そして、アールもまた、今や、掛け替えの無い仲間だ。
その彼らが、"最後の一線"に躊躇する事なく戦う、戦える。
それを支えてやるのが自分の役目であると、ギルは考えていた。
いや、正しくは自分以外に務めさせる訳にはいかない。送る役目を、その重責を、他の仲間に決して背負わせる訳にはいかない、と。
自分こそ斑鳩の相棒であると、気取るつもりはない。
ましてや汚れ役を引き受けるという、ヒロイックな気持ちに酔っているわけでもない。
――だが、それだけは。
仲間を送るという最後の選択だけは、自分がやらねばならない仕事なのだ。
もし、自らが深過したとしても――斑鳩は、きっと迷う事など無いだろう。
あいつなら、迷わず自分を送ってくれる……だからこそ、互いに"最後"を恐れず戦える。ギルはそう信じ、彼と共に幾重の戦いを越えてきた。それは陳腐な言葉や表現ではとても表せない程の覚悟で以って。だからこそ自分は斑鳩の作戦に、仲間のために、躊躇わずタタリギへ向け地面を蹴ことが出来ると。だからこそ、護りたい者の為により強く戦える、と。
あの場でキースが見せた姿は、そう信じる自らを肯定してくれている存在に……違いなかった。
それは諦めではない。互いに"最後の一線"を迎えようとも、躊躇なく。それがギルを支える覚悟でもあり、誇りなのだ。
「……お兄、ちゃん?」
険しい表情で描かれた鳩に視線を落したまま押し黙るギルの顔を、コーデリアは不安そうに覗き込む。
「あ? ……ああ、悪ぃ、疲れてんのかな。 ちっとぼけーっとしてたぜ! そっか、キース司令代行がなあ」
「……うん」
――嘘、ばっかり。
コーデリアは誤魔化し笑いながら絵を机にそっと置くギルにゆっくり頷く。
ギルバートはあまり語らない。だから、コーデリアは何も知らない。だが、察する事は出来る。何しろ幼いころからこうである兄と付き合ってきたのだ。表情と会話をする――と言えば妙だが、そもそも考えが表情に出やすい兄が考えていることは、コーデリアにもなんとなく知る事は出来た。
アールがやって来た頃から、きっと兄の中で何かがまた……変わったのだろう。
その表情に、すぐにそう思い浮かぶが……間違ってもアールを疎んでの事ではない。
部隊を同じくして彼女と接する兄、それに斑鳩たちを見ても理解出来る。コーデリア自身も彼女の事は好きだし、もっと仲良くなれればと願うばかりだ。
……だがきっと、一言や二言では言い表せない事情が、兄たちの身に起きている事は確かなのだろう。
思えば、アールの素性……あのアガルタから突然やってきたヤドリギという他に、何も知らない。
透き通るような白い肌。照明に照らされ輝く白銀の髪に、絵本で見る宝石のように紅く輝く瞳。
――そのどれもが、彼女が、そう……"普通ではない"事を物語っている。
だが実際に接したアールは……コーデリアにとって、"普通"だった。
彼女を招いての、初の祝勝会の夜。ベッドの上、小さな明かりで互いを照らしながら語ったあの夜から、どれほど時間が経っただろうか。彼女はまるで別世界から来たように、何も知らなかった。絵の事、積み木街の事、13A.R.K.の事、そして斑鳩たちの事……聞かれるまま応えるコーデリアの言葉を、彼女は瞳を丸く輝かせながら、"普通の少女"のように聞き入っていた。
その姿はとても、とても可愛らしく、そしてどこか儚げに笑うあの彼女が……戦場では兄たちと肩を並べ戦えるとは、正直今でも想像がつかない。
そう……その彼女が訪れてから、きっと何かが変わったのだろう。
それは斑鳩が兄の前に現れ、あの殺伐としぶっきらぼうだった兄を変えてくれたように。
良い事なのかどうかは……自分にはわからない。
――だけど。
険しくも厳しい表情を浮かべる兄の横顔は、あの頃とは違う。
私だけじゃない。もっと、もっと大きなものをきっと、守ろうと決意している……そんな表情だと、コーデリアの瞳には写っていた。
「……さてと! お兄ちゃん、せっかく斑鳩さんたちが気を使ってくれたんだから。 時間まで色々と、久々に手伝って貰おうかな!」
ぽん、と胸の前で両手を打ち鳴らすと、コーデリアは机の上に広げられたイラストを手際よく集め、机の脇に置かれた平たい鞄へと手慣れた仕草で納めると、スカートのすそをふわりと浮かべながらギルへと向き直る。
「おお、任せろ任せろ! なんせ2ヶ月も明けちまったからなぁ。 流石にとりあえず手料理が食いてえな、とは言わねーぞ。 何から手伝う? ゴミ捨てか? それとも屋根の補修か? 買い出しでもなんでも付き合うぜ!」
制服の袖を捲り上げながら意気揚々と腕をぶんぶんと回すギルに、コーデリアは「むふん」と鼻息を鳴らすと腰に手を添え、もう片方の手でおもむろに狭いキッチン――その小さなシンクに溜まった食器類をズビシ!と勢いよく指差した。
「じゃあ……まずは、お皿洗いから!」
「……さ、皿……お、おう!」
力仕事を想定していたギルだったが、コーデリアの指差す方向と言葉に意表を突かれたのか、困り顔。
そんな兄に、彼女は悪戯っぽく笑みを浮かべると大きく頷き続けた。
――そうだ。 私には、わからない事はいっぱいある……けれど。
一つだけ、確かに信じていられること。
それは、兄たちは変わろうともこの先も戦って往くんだろう。きっと私が、A.R.K.で暮らすみんなが過ごす"日常"を護るために、戦って往くんだろう。
だから私が、兄たちの為に出来る事は……たとえひと時の間だったとしても。兄たちが、彼女が、笑って過ごす事の出来る……そんな"日常"を守ること、なんだ。
「……あのね、お兄ちゃん。 今朝孤児院の子らが遊びに来て、前から約束してた万能ナッツの新しいクッキーを一緒に作ったの! ふふふ、だからとっても落ちにくい汚れだけど……お願いね!」
コーデリアは笑顔でもう一度頷くと、兄へ向けて優しく微笑んで見せるのだった。