第10話 Y028部隊 (2)
少女は一人、風に吹かれていた。
古びた給水塔の上、暖かな日差しと裏腹に凍えそうな心を抱き――それでも、切に願う。
皆と共にあるためなら。少女は空を往く雲に想いを馳せる。
アダプター1の小高い丘の上に立つ古い給水塔――――
15m程ある古びたタンクを掲げたそれに、かつての面影はない。
いたるところに濃い錆を浮かべ、風化によるものなのか、それとも流れ弾の跡か……あちこちに空いた無数の穴が、給水塔としての役目をとうの昔に終えた事を今は静かに告げている。
そして今、朽ちたタンクを支える鉄柱には幾本かのケーブルや小さなパラボラアンテナが、その足元には無数のタープや古びた通信機器が固定され、新たな表情を見せていた。
その鉄柱に、新たに設置されたものだろうか。
雑多に溶接された跡が残るが真新しいくも鈍く光る鉛色のはしごを登り切ったタンクの脇で、アールは静かに風に吹かれていた。
「…………」
眼下に広がる、アダプター1の光景。
初めてここに訪れたのは、13A.R.K.に所属しての初任務……Y028部隊の皆と、乙型壱種を排除するための作戦だった。
――あの戦い、すごく……昔に感じる。
この地域には珍しく晴れた昼下がり。
暖かい日差しに、ふわりと髪を撫でる冷たい風が心地よい。
アールはバックパックから水筒を取り出し注ぎ口を開くと、両手で支えゆっくりとそれを口へ運んだ。
こうなる前も、こうなった後も――舌に触れ、喉を滑り、身体の真ん中へ落ちながら……身体の内側を削るような相変わらずな不快な刺激を、この液体は感じさせる。
それは希薄され調整されたデイケーダー溶液、そのもの。
D.E.E.D.としての力を使ってからというもの、この忌々しい液体に頼らざるを得なくなっていった。身体の表面、薄皮一枚を隔てた内側に感じる確かな"タタリギ"としての"わたし"。
アダプター2で、初めての実戦で使用した深過解放と深過共鳴……あの戦いから目覚めてから、だった。
この身体が――普通の食事を、受け付けなくなったのは。
わたしがヒトであるという証明のひとつ。
仲間と共に囲む食事は、量こそ口に出来なかったものの本来栄養の摂取というただの手段に過ぎなかった食事に対する価値観を、大きく変えてくれた。
しかしあれから、何を口にしても異物としか感じれない。
味だけではない。
レーションの袋を開けた時、ふわりと広がるナッツの香りも……リアが焼く、香ばしいあのパイが焼きあがる香りも。アガルタに居たころにすら感じていたそれらは、恐ろしいことに今、一切感じることが出来ない。まるで食事という行為そのものが、初めからこの身体に備わっていなかったかの様に。
はじめてその症状が現れたあの夜――
積み木街の路地で、斑鳩には気付かせてしまったのだろう。それでも、否定するわたしに対して……彼はそれ以上何も聞こうとはしなかった。
――ごめん。 斑鳩。 ごめん……みんな。
任務完了報告の場――本来ならば同席するのが当たり前。
けれどそこに食事が並ぶと聞いて……思わず適当な理由を付け、席に着くことを断ってしまった。静かに頷く斑鳩と、残念そうにそれでもと誘うギルと詩絵莉。その二人をまあまあ、となだめ気遣ってくれたローレッタ。
少しでもみんなと共にありたいと願いながら……みんなと共にありたいと求める力が、少しずつあの場所からわたしを遠ざけている……。
でも……あの時。
14A.R.K.、マシラとの戦闘で斃れた斑鳩と共鳴した直後――だった。
意識を取り戻した彼が地を蹴りマシラに向かうさまを見送りながら感じたのは――口に広がる、確かな……血の味。
そっと右指で、アールは自らの唇に触れる。
――斑鳩との、共鳴……。
今思えば、マシラの攻撃に倒れ、彼の急速な深化を目にしたとき。
まるでそうするのが当たり前の様に、彼を救うためにとこの身を共鳴させた。
確証があったわけではない。そもそも深過共鳴とは、タタリギを自らの死の意識に同調させ、破滅させる手段でしかなかったはず。アガルタで過ごしたあの時間の中でも、当然それ以外の使い方など教わった事はなかった。
今でも彼の意識の中での出来事は、夢うつつの様にすら感じる。
だが、彼の髪の毛に交じる白髪を見る度にそれが現実であったと強く想える。彼の本当の心に、きっと触れた……その、暖かい証として。
そして同時に、彼をわたしと同じヒトではないものに変えてしまったのかもしれないという、罪悪の証として。
想いに目を伏せたその時。
ふと眼下に広がる基地を行く一人の女性に目が止まった。
なんとはなしに視界に写ったその人影を、力の一端――隼としての目が自然と捉える。
制服から見るに、ヤドリギ……他の部隊の隊員だろう。当然、アール自身は会話を交わした事すらない。
――あれ……なのに、どうしてだろう。 あのヒト、どこかで……。
出会った事のないヒトだと言うのに感じる、確かな既視感。
僅かな間を置いて、アールは紅い瞳をゆっくり、大きく見開いた。
「そう……だ。 あのヒト……14A.R.K.に向かう途中で倒れてた……」
かの地でマシラに襲われ、重傷という言葉すら生ぬるい傷を抱えながらも何とか帰投しようと試みていたのだろう……13アークへと続く道の上、斃れていた男。
思えば斑鳩たちに案内され、初めて13A.R.K.の中を歩き辿り着いた墓所……小さな、だが暖かい灯りがいくつも揺れるあの場所は、わたしにとっては綺麗な場所としか映らなかった。
弔い……という行為には正直、今でも……疎い。
けれど、斑鳩たちと過ごすうちに。皆の覚悟と誇りに触れるうちに、理解出来た事はある。
ふと内側に芽生えた感情……この感情が、弔い――なのだろうか。亡骸となった主にも、きっと守りたい者がきっとあっただろう。
特に何かを考えての行動ではなく、感じるまま無残に横たわる遺体へと無意識に触れた――その時、だった。
血に溺れる亡骸の内側で、かすかに感じたタタリギの残滓。
この遺体に内在していたタタリギ……A.M.R.T.が、ヒトとしての死に連れ逝かれる間際。ほんの僅かな、まばたきよりも短い時間。
あの一瞬に感じた感情と記憶に、めまいを覚えた。
――わたしにとっての斑鳩たちがそうであるように……あのヒトにとって、彼女は大事なヒト、だったのかもしれない……。
「……大事な、ヒト」
ぽつりと呟き、静かに閉じたアールのまぶたの裏にアガルタで過ごした過去の光景が曖昧に浮かぶ。
白い白いあの部屋で過ごした時間は、一体どれほどのものだったのだろうか。
数日とも、数十年とも、おぼろな記憶は確かな答えをくれる事はない。だが次第に空いていく整然と並べられたベッドを、誰かと――一緒に、見ていた。
……その記憶すら、今や確かではない。
斑鳩と深過共鳴してから、この2ヶ月。
式神としての制服に袖を通し、ヒューバルトと名乗るあの黒装束に身を包んだ男に自らの役目を聞かされた装甲車の中。はっきりしているのは、そこからの記憶だけ。今までその事を疑問に思う事も、寂しさを覚える事もなかったというのに。
――なぜだろう。 とても、とてもだいじな事を忘れている、そんな気が、する……。
「ふうっ……」
「!」
突如足元、金網の下から聞こえた男の声と気配に、アールは思わず身構えた。
反射的に半歩構えたその動きに、足場の古びた金網がぎしん、と派手な悲鳴を上げ錆を落とす。給水塔を支える鉄柱の傍に荷物を下ろしたその男は、その音と散る落ちる錆に驚くよう上を見上げた。
「……だ、誰かそこにいるのかい?」
その気配に気付き、日差しを遮るように額に手を添え見上げるのは――
「……フリッツ?」
「! アールじゃないか!」
驚くフリッツの声に、アールは手すりのない足場からひらりとその身を地上へ落とし――彼の数センチ横へと、僅かな音を立てて着地した。その軽業に2ヶ月前の彼なら感嘆の声を上げていただろうが、彼女の戦闘、その身体能力を何度もその目で観察してきた彼にとって、それはもはや日常の一部として映る。
「どうしてこんなところに居るんだい、アール? 任務報告に行ったんじゃなかったのかい?」
「……ん。 そのつもり……だったんだけど。 その。 ちょっと……疲れ、ちゃって。 ……あとちかい」
一切の疑いなくこちらを覗き込む、心配した眼差しを向ける彼の真っ直ぐな視線が今は、少しつらい。アールは僅かに目線を外しながらそう答えると、彼は思わず一歩後ずさる。
「ご、ごめんごめん! いや、そうだよね。 今回の出撃でも、君は本当に戦い詰めだった……一人で休む時間も必要なのは、僕にも理解出来るよ」
彼は照れ隠しのように眼鏡を外し、服のすそでレンズを拭きながらそう答えると、肩に掛けた重そうなショルダーバッグを地面へと静かに下す。
「邪魔したらごめんよ、アール。 ……僕もちょっと、ここに用事があってね」
「……気にしないで。 でも、用事……ここに?」
彼は――なんと表現すればいいのだろうか。
アールはしゃがみ込み、鞄から工具らしきものを出して並べるフリッツの姿を見下ろしながら、自然と表情が緩むのを感じていた。
――きっとフリッツは、いいやつ……って、やつなんだね。
Y028部隊中、唯一ヤドリギではない彼。
だが、だからこそ……そんな彼の存在が部隊を円滑に回している。それは、アールも言葉ではなく、皆の態度で理解していた。兵装のケアだけではない。ある時はローレッタが。ある時は詩絵莉が。そしてある時は斑鳩とギルと。彼は、皆の話を聞き、消化する役目を持っている――そんな風に、アールの目にも映っていた。
そういうヒトの事を、"いいやつ"と呼ぶらしい。 遠征の最中、いつだったかギルに聞いた言葉だ。
「……この古い給水塔は、今は電波中継塔として使われているんだ。 知ってるかいアール? ここに初めて中継局の設備の配置に成功したのは、僕らと出会う前の斑鳩隊長たちなんだって」
「! そうなんだ……知らなかった。 そっか、そうなんだ……」
アールは紅い瞳をまんまると大きくしながら驚くと、ゆっくりと古びた給水塔を見上げる。
斑鳩たちの過去。話こそ節々で聞いてはいたが、自らと出会う前の彼らが手掛けた仕事――そう思うと、この給水塔がとたんに仲間の一人のように感じるから不思議だ。
「それから増設増設を繰り返して使われているんだけど……機器が干渉しあってるみたいで、少し具合が悪いんだ。 その改善をやってみようと思ってね」
「……えらいね、フリッツ。 いつも見てるだけ、だけど……ほんとに、すごいとおもう」
正面にしゃがみ込み、鞄の中を覗き込むアールに彼は笑顔を浮かべながら首を横に振った。
「ふふ、少し前の僕ならこう言っただろうね。 本当に凄いのは君たちのほうだよ、僕は戦えないから、せめてもこうして……ってね」
「……いまはちがう?」
フリッツはアールの言葉に、ゆっくりと頷く。
「ああ。 僕がこうして居られるのは君たちが身体を張ってくれているから……そして、君たちが戦う事を僕はこうやって支える事が出来る……通信塔だって大事なライフラインの一つだ。 ヤドリギ各部隊を繋ぐ長距離無線を支える……。 それも整備士としての、意地だよ」
「…………」
「……む、無言にならないでくれ、アール! そんな真顔でこっちを……は、恥ずかしいよ!」
無表情――に見える表情でこちらをじっと見つめる彼女に、フリッツは自分の言葉に恥ずかしさを覚え、あたふたと工具でその視線を遮る。
「あ……ううん。 えと……すごいな、って思って。 その……上手く言えないけど……」
アールはそんな彼の様子に静かに首を横に振ると、ふと傍に立つ給水塔を見上げた。
「わたしは、何かを壊すことは出来るけど……直したり、作ったり……そういうのは、全然わからない。 フリッツは、たくさん作ってくれる……それって、きっとすごい。 わたしには、出来ないこと……だと、思うから」
どこか寂しそうにも見える表情で給水塔を見上げるアールの横顔に、フリッツは口をつむぐ。
彼女――D.E.E.D.にまつわる話は、斑鳩たちから聞いている。生まれる前からヒトとしての尊厳を奪われ、過去も未来も、歩む道すら、ろくでもない他の誰かによって戦う事を定められた、彼女。
アガルタでの暮らしは、想像する事すら出来ない。
恐らく、想像の次元を超えた生活……人生を、彼女は今まで歩んできたのだろう。
「アール。 これは、僕の大好きな本の言葉、でもあるんだけど……"自分が何者かを決めるのは、自分自身に他ならない"」
フリッツは少しだけ俯くと、地面に置いた鞄の中から一本のレンチを取り出し、彼女に差し出した。
「……でも、きっとそれが全てじゃない。 僕は僕が決めた自分、それが間違っていたことを、皆のお陰で知る事が出来た……本に印刷された文字ではなく、実体験でね。 そう、君が何者であるかを決めるのは、自分の外側の世界でもあるんだ」
差し出されたレンチをじっと見つめると、彼女はそっと細い指でそれを受け取る。
「…………むつかしいけど、言ってることはなんとなく……わかるよ」
見た目よりも倍は重く感じるその工具を、アールはまじまじと観察する。撃牙や、銃……兵装ではない、ものを創るための道具。
「いろいろやってみたらいいんだ、アール。 ほら、そいつでこのボルトを締めてくれるかい? 見てごらん、ここを」
微笑むフリッツが指差した先。
通信を中継するための機器が納められた金属製の箱の一つ、そこには小さく「Y028」と殴り書いてあった。アールは一瞬目を輝かせると、それを固定するためのタープから伸びたワイヤーを止めるボルトをゆっくりとレンチで締める。
「……これでいい?」
「うんうん。 些細な事かもしれないけれど、アールだって、なんだって出来るんだ。 ものを直すことも、きっと作ることだって出来る……気休めかもしれないけれど、そう思う事で違って見えることも……きっと、あるよ」
言いながら笑うと、フリッツは並べた工具を手際よく使い設備の修繕を行っていく。
「……フリッツは、いいやつだね」
「はは、ありがとうアール。 いいやつ……いいやつか。 あの部屋で腐ってたままじゃあ、そんな風に言って貰える事はなかっただろうなあ」
フリッツは兵站管理部の地下室に引き籠っていた頃を思い出し、苦笑する。
あの時もし、斑鳩と詩絵莉が訪ねてきてくれなかったら……そう思うと大げさでなく、ぞっとしてしまう。
彼は戦う姿とは打って変わって、たどたどしくレンチでボルトを締めるアールに視線を落とす。彼女もまた、彼らと出会う事が無かったら……?
「あれ~? また珍しい組み合わせッスね!」
その時だった。ふいに響く明るい声にフリッツとアールは顔を上げる。
そこには鞄を小脇に抱え小走りでこちらに手を振る、五葉の姿があった。
「……ゴヨちゃん、さん」
「たはー、さんは要らないッスよ、アルちゃんさん!」
立ち上がると駆け寄った彼女に対して口にした名に、五葉は大げさに自らの額を押さえる仕草を見せる。その様子にフリッツはプッ、と噴き出すと、工具を置いて二人の元へと歩み寄る。
「折角ご飯作ったのに、フリさん見掛けなかったもんで……別の整備士の人に聞いたら、通信塔の調整に向かったと。 だからお昼持って来たんッスよ、まだッスよね? お昼」
五葉は言いながら、小脇の鞄から布に包まれたパンらしきものを取り出すと、おもむろにフリッツへと差しだした。
「わ、悪いね五葉さん。 戻ってから頂こうと思ってはいたんだけど」
「なんの、このくらいお安い五葉ッスよ。 それにご飯は暖かいうちに食べるのがマナーッス。 それ、今日のおかずパンに挟んであるんで。 あーっと! 食べる前にはこれで手を拭くッスよ」
反対の手で器用に鞄から綺麗なハンカチを取り出すと、パンと一緒に彼へと手渡す五葉。
「アルちゃんさんのぶんは、申し訳ないッスけど用意してないッス……あれなら、ひとっ走り取ってくるッスけど!」
「う、ううん。 わたしのはだいじょうぶ……ありがと、ゴヨちゃんさ……ゴヨちゃん」
遠慮がちに首を振る彼女に五葉は首を傾げ、すぐに心配そうにアールの顔を覗き込んだ。
「食欲、ないッスか? どこか体調悪いとか。 報告もお休みしたって聞いてたッスけど……」
「……うん。 ちょっと、疲れちゃって。 少し、その……」
「あーっ! 大丈夫、大丈夫ッスよみなまで言わなくともっ!」
申し訳なさそうな表情を浮かべるアールを見るや否や、五葉はアールの肩をがっし、と両手で優しく掴むと何度も頷いてみせた。
「乙女にはそういう時もあるもんッス。 わかるッス。 孤児院時代、一人になりたくて夕飯を前に抜け出して……後でマルセル隊長にこっぴどく怒られたッスが。 とにかく、一人になりたい気持ち、分かるッス!」
「う……うん……?」
うんうん、と何度も頷く五葉につられるよう、アールもこくこくと頷く。
所属する部隊こそ違えど、斑鳩が伏せていたあの時――
僅かな時間だが彼女らの部隊に式梟として参加したことも相まって、五葉との関係はこの2ヶ月の間、距離が縮まった様に感じる。むしろ、縮まった……というよりは、五葉のほうがずいずいと前に進んできた、という感じではあるが。
「うん、美味しいよこのサンドイッチ。 パン生地はナッツ粉? なのにクセが全然ないね」
「アダプター1で育てた万能ナッツ、A.R.K.のプラント産と結構味が違うんスよね。 とは言え、水耕栽培には違いないッスから、土地の影響はない……と思うんスけど」
「へえ……不思議だね。 そう言えばあの醸造酒も評判だね。 ギルが出撃のときにも持っていきたい、って言ってたよ。 あれの開発も五葉さんが主軸だったんでしょ?」
「むふふ、まさしく趣味が高じてッスね! ……でもそのお陰で、式狼としてよりも料理人としての成績の方が上を行きそうな雰囲気ッス……これでも防衛任務、頑張ってるんスけど!」
何気ない会話を続ける二人を眺めながら、アールは手にしたレンチで最後のボルトを締める。
思えば、そう……好きなもの、趣味とでも言うべきもの。
そういうものを、今まで持とうと考えた事はなかった。斑鳩はショウギというゲームが趣味だ。ギルは意外な事に、裁縫が得意。フリッツと詩絵莉は本を読むのが好きだし、ローレッタは様々な戦闘ログやデータを見るのが趣味なようなもの……だと言っていた。この五葉も、ヤドリギでありながら料理がとても上手。
――些細な事でも、何だって出来る……。
フリッツの先ほどの言葉が頭を過る。
だが、ヒトであるならば。ヒトであるからこそ、そう、なのかもしれない。
式神――
生まれた時からそうだったわたしは、それ以外の何かに……なれるのだろうか。
いや、何かになろうとすることが……許されるのだろうか。
フリッツが手に持つ五葉が作ったサンドイッチ。
こんなに近くにいるのに、一切の香りすら感じる事が出来ない。以前はうまそうに見えていたであろう挟まれた具材も、今は土や石と一緒の様にしか感じられない。
――こんなわたしに、出来ることは……いったい、なんだろう。
それでも、と、アールは手にしたレンチをぎゅうっと握りしめる。
自分が何者かを決めるのは、自分ではない。自分が何者かを決めてくれるのは……自分が何者か、強く信じれるのは――斑鳩の……斑鳩たちの傍に、居るとき。
――その為なら、たとえ……。
「アルちゃんさん?」
「わっ……」
唐突に視界の脇からニュッと現れた五葉の横顔に思わず驚き、レンチを地面へと落とすアール。
足元に落としたレンチをひょいと拾い上げながら「ごめんッス!」と彼女は謝ると、心配そうな表情を浮かべた。
「顔色、あんまり良くないけど……本当に大丈夫ッスか? 今なら医療コンテナ、一番いいベッド開いてるッス! ふかふかの! ちょっと横になりに行くッスか?」
……五葉は優しい。彼女が誰彼からも好かれる理由が、よく分かる。
アールは静かに目を閉じると、だいじょうぶ、と首を横に振った。
今さら式神の、D.E.E.D.として生まれ持ったこの力を使う事に――ためらいは、ない。
大事なヒトたちと共にありたい。そう思えばこそ、力が湧いてくる。たとえ……この身に何が起ころうとも、それでも、前へと進んでいける。
……信じて、この身を預ける事が出来る。
彼らと、彼らが大事なものを護ること……それが、わたしの全て。
アールはゆっくりと瞳を開くと、給水塔越しに空を見上げる。
……そろそろ、報告会議も終わる頃だろうか。
「ゴヨちゃんさん、フリッツ。 ……わたし、そろそろ戻る。 お話出来て、楽しかった。 ありがとう」
「ああ、僕もここの調整が終わり次第、部隊のコンテナに戻るよ。 斑鳩隊長たちにはそう伝えておいて貰えるかい?」
「お、そう言う事なら善は急げッスね。 手先器用な方なんで、手伝うッスよ。 アルちゃんさん、また後でッス! 用事が入らなかったら、自分も後で顔出しにいくッスよ!」
そう返事をする二人に軽く頷くと、アールは踵を返しなだらかな丘を下る。
突如として気配を消したタタリギたち。
あれほど近くに感じていた無数の気配が今、確かに遠のいている。それが何を意味するのかは分からない。
けれど何か――嫌な予感は……ある。
それに、斑鳩の内側で出会った……彼を語った、あの"何か"――
――「あなたと会えたのは、何よりも嬉しい誤算だった」
あれは、わたしの事を知っているような口ぶりだった。
一体、何なのか……この2ヶ月ひと時も忘れることなく考えてはいるものの、心当たりはない。その気配も今、斑鳩にも、ましてや周囲にも感じる事は出来ない。
……きっと、何かが起きる。とてもよくない事が、きっと。
それでも、とアールは再び心に強く誓うと、足を止め――空を見上げた。
斑鳩が……みんなが、わたしを必要としてくれるなら。
たとえ、ヒトとして……命が刻むあの暖かい鼓動を持たないこの身体だとしても。
みんながわたしをヒトとして居させてくれるなら。
朽ちて散り果てたとしても、ヒトとして送ってくれる、みんなの為なら。
「…………」
見上げた空に浮かぶ、ゆっくりと優しく流れる雲を見つめながら――
アールは静かに、冷たい拳を握りしめるのだった。
……――次話 Y028部隊 (3)へと続く。