第二章『ネカマ×ネナベ』①
言うほど寒いわけでもなくどちらかというと温かい空間内で、まるで生まれたての小鹿のように身体を震わせながら一歩また一歩とやおら歩調を刻んでいた。
「ついにこの時がきてしまったか……」
ボソリ呟く俺の横を胡乱な目をしたおっさんが横切り、俺はさらに項垂れた。
俺の周囲には漫画しか置かれていない棚が横並び、震える手には力を入れれば簡単に割れてしまいそうなガラスのコップが握られている。
今俺のいる場所は、自宅から遠く離れた南條駅周辺にそびえる雑居ビルの一階。その中に経営を構えるネットカフェ『マテリアル』の店内だ。あの日ラプソの世界で、メルトが待ち合わせに指定した場所である。
自宅付近にあまりネカフェがないという理由、ネカフェ限定特典のある店がここしかないという理由から、俺も何度かこの店に来たことはあった。
ラプソによるネカフェ限定のイベントが催された日には足枷もなく散財していたし、ラプソやっててこの近くに住んでる人間はおそらくこのネットカフェを利用してるんだろうな。そう思うと勝手に親近感が沸いてくる。
薄暗くもオレンジ色に染まる店内を歩く俺は、空のコップにオレンジジュースを補充するとのったり個室へと戻った。
この行動を俺は一時間も前から機械的に繰り返している。その間トイレを二度挟み、ジュースを注ぎに行くのもかれこれ五回目だ。個室に料理を運ぶ店員にはとっくに顔を覚えられているかもしれない。
個室に入ると、まず真っ先にモニター画面に目を向けた。その画面中央に表示された友達リストを俺は穴があくほど凝視した。
メルトは……まだ来てないか。
待ち合わせ時間はとっくに過ぎてんのにメルトの奴、どこほっつき歩いてんだ。
そう思いガラスコップに口をつけた時だった。右下に上がる小さな吹き出し。
そこに書かれていた【”メルト”様がログインしました】の文字。
――……はぁ~~~。ついに来たか、来ちゃったかぁ~~~。
来たら来たでやっべすげぇ緊張する。昔から緊張しいんだよなあ、俺。
俺は手にしていたコップを邪魔にならない場所に置き、ディスプレイと対峙。メルトをチャット相手に指定しやおら文字を打ち進めた。とりあえずはチャットだ。
『こんにちは。メルト。今ってネットカフェ?』
『こんにちは。カノン。少し到着が遅れてしまったな、すまない。ああ、その通りだ。個室を一つ間借りしている。……既に心の準備は整った。いつ来てくれても俺は構わない』
いつ来てくれても、か。この来てくれてもはラプソ内の話じゃなくて現実での話なんだよな。今更ながらに、あまり実感が沸いてこないな。
『うん。それじゃ、個室番号を教えてくれる?』
『相わかった。個室番号はK‐5だ。……ハハ、この俺としたことが。どうやら柄にもなく緊張しているようだ』
『教えてくれてありがと。実を言うと私もすっごい緊張してるの。もう心臓バクバクだよ。……それじゃあ、今からそっちに向かうね』
俺はカチリエンターキーを押し、そっと席を立つ。
ブースを離れメルトから聞いた個室番号を探して店内を歩く。が、そこまで広くない店内。目的の場所へ到達するのにものの十秒と掛からなかった。
K‐5。番号プレートに書かれた数字を見て俺はその前に立ち止まる。
今俺とメルトを隔てているのは木材からなる厚みの少ない引き戸だけだ。
この引き戸の向こうにメルトがいるのか……。俺はごくり生唾を飲み込み、形式だけの深呼吸を行う。
それからついに意を決し、礼儀正しくノックを三回。返事を待たずに扉を一気に開け放つ。
そこで待ち構えていた男は――男は……男は?
「???」俺の頭上で当然のように旋回する疑問符。いやだって、えっ?
「……神宮寺、月……」
我知らず声が漏れる。
そうだ。そこにいた人物、それは神宮寺月だった。
なんでメルトじゃなくてお前が、神宮寺がそこに座ってやがんだ……?
「…………ハ?」
驚きのあまり二の句が継げない俺と同様に、硝子玉のような瞳を見開き呆気にとられた様子の神宮寺。
俺と神宮寺を取り巻く空気が、大気が、ぐにゃりと歪む。そう感じるほどに、衝撃的すぎる出来事だった。
数瞬の後、血の気のない二枚の唇をひくつかせながら、乱れた呼吸音に混じり神宮寺が言葉を紡ぎ出す。
「ほっ、ほほほ、穂積華都っ……! なななんであんたが、こんなとこにいんのよ」
「それはこっちの台詞だ。なんでお前がここに――」
と、そこまで言ってふとした疑惑が頭を擡げる。
もし、もしもだ。もし神宮寺が俺と同じように性別を偽っていたらどうだ? ネカマとは逆の、えっとなんつったっけ……そう、ネナベだ。こいつがネナベなんだとしたら、今の状況にも色々と説明が付く。
「メルト……」
俺がボソリ漏らした言葉に、神宮寺がハッとした表情を浮かべる。その反応を見て俺は息を呑んだ。まるで今まで埋まらなかったピースがカチリと嵌まったように。
もうこれ以上鎌をかける必要もないよな。
「……神宮寺。俺の目を見ろ」
「なによ」
「単刀直入に訊くぞ。お前が、お前があのメルトなのか?」
「――――えっ……えっ? てことはなに、あんたがあのカノンだって言うの……? うそでしょ??」
「こんなとこで嘘なんか付いてどうする。お前の言う通り、俺があのカノンだよ」
「はっ? え?? ハァ~~~~~~~~~~~???」
俺から告げられた真実によもや動揺を隠し切れないのか、大仰な手振りを交え神宮寺が女特有の金切り声を上げる。
叫ぶ気持ちは分かるし俺だって心の底から叫びたいが、他の客もいるんだからここはグッと堪えろよ。
そんな俺の思いが神宮寺に届いたのかは分からないが、一時停止ボタンを押されたように神宮寺の動きが止まる。
沈黙。
店内に流れる眠気を誘うようなBGMが俺の耳によく通り、マウスのクリック音やキーボードを打つ音が気にしてみればよく響く。が、それとは別に声が聞こえる。うまく聞き取ろうと耳をそばだてていると、口に出しているのはどうやら神宮寺らしかった。
「……嘘……嘘よ……こんなのって……あんまりじゃない……やっぱり……あの時にでも……あたしは……」
ところどころ聞き取れない部分はあれど、その言葉の内容は現状に対する恨み辛みに相違ない。
俺のことは眼中にもなく独りごち、血が出るほどに下唇を噛み締めた神宮寺は涙ぐんだ目で俺を睨め付けた。その鋭い眼光に思わずチビりそうになる。
「穂積華都っ! あんたは詐欺師よ。人を騙す最低最悪の詐欺師……っ!」
それは火山が大噴火するよう、肘掛に手をついた神宮寺は勢いよく立ち上がると、
「三年前からっ! 今の今までっ! あたしを騙してきたんでしょ!? 女と偽って近付いてっ、人の心をただの物としか見ない詐欺師みたいにっ、あんたは、あんたはっ!!」
不満と鬱憤を一息に捲くし立て、神宮寺はただ狼のように吼えていた。
だが俺だって黙って聞いてるわけじゃない。言い返す力を俺は持ってる。
「んだよそれ……?! お前だって人のことが言える立場じゃねえだろ? 確かにお前からしてみりゃそう見えるわけだし、実際騙してたのは悪かったと思うぜ。むしろ今日俺はそのことを謝りにきたんだ。いやそもそもの話、性別を偽って騙してたのはお互い様だろ!? ならお前だって詐欺師じゃねえか!!」
「うるさいうるさいうるさぁい!! 信じてたのよ……あたしは。カノンのことを。本当の友達のように接して、やっと本当のあたしを曝け出せるって。もう一人のあたしから解放されるんだって、本気で思ってたのに。……それを、それをあんたが台無しにしたのよ! 全部っ!」
「お前の勝手な言い分を俺に押し付けんな! 俺だってメルトを心の底から信頼して家族みたいなもんだと思ってたんだ。現実であったらこのことを謝っていんた……っ、ま、また一から友達になろうって、本気で考えてたんだぞ?!」
「知らないわよそんなこと! あーもう嫌いよ。あんたなんてだいっきらい!」
「嫌いって、それはこっちの台詞だバカ!」
互いに盛大に捲くし立て、仲良く肩で息をする。
まさかメルトがここまで人の話を聞かない奴だなんて思ってもみなかった!
ふざけろっ、メルト……っ!
「――あ、あのー。お客様。他のお客様のご迷惑になりますので……」
俺達の背後、気付かないうちに女性店員が立っていた。
言葉を詰まらせながらも必死になって対応している。
そんなおどおどすんなよと思ったが、そりゃ店ん中で騒いでる連中に出くわしたらこうもなるか。
「……すんません、騒がしくしてしまって。ご迷惑お掛けしました」
申し訳なさそうなフリをして、おとなしく俺は頭を下げる。その場しのぎの上っ面。
すると無事に理解が及んだと店員はあからさまにほっとした表情を作り「い、いえ! それではどうぞごゆっくり」
ごゆっくりもなにも、ここまで店内を騒がしくして長居が許される寛容な店はないだろ。
「……一旦店を出て、それからまた落ち合おう」
神宮寺に呼び掛けるも返事はない。
せめて頷くなり意思表示をしろってんだ。
顔を伏せる神宮寺を一瞥して足早に個室ブースまで戻った俺は、残っていたオレンジジュースを一口で飲み干すと伝票を手にレジへと急いだ。
レジの前には腕を組んでいちゃつくカップル(爆ぜろリア充!)とそれを妬むような目で見つめる店員がいるだけで、神宮寺の姿はそこには認められず、リア充が去った後はぱぱっと会計を済ませて店から退出。しかしここはビルの中だ。あまり考えたくはねえけど、遅れて出てきた神宮寺と再度ヒートアップした口論を交え、ましてや肉体言語にまで発展しようものなら今度という今度は店側も怒髪天を衝くこと必至。ブラックリストに登録されるのもできることなら避けたいが、通報するのはもっとやめてほしい。
結論は出た。俺は逢魔が時に暮れるビルの外へと出て、駐輪場から愛用の自転車を回収してビルの入り口が視界に入る位置にて待機。神宮寺が出てくるのを待つことにした。
「……はぁ」
俺は電柱にもたれ掛かりながら我知らず溜め息を吐いた。
まさかメルトの正体が神宮寺だったなんて、予想の斜め上をいくどころかもはやグラフから突き抜けるレベルだぞ。冷静になった今でも信じらんねえよ。
先の見えない浪人生のような目付きで葛藤する俺の横を何も考えてないように騒ぐ小学生のグループが横切り、さらに二段階ほど気持ちがクールダウンした。
寒さで手がかじかみ、小刻みに震えながらビルの外で待つこと五分。
素直にビルの中で待っておけばよかったと寒さのあまり俺が歯をガチガチと鳴らし始めた頃になってようやく神宮寺はビルから姿を現した。
出てきた直後、寒いのか身体をブルッと震わせつつも顔を左右に動かして俺を視界にとらえたのだろう。どこか険しい表情を貼り付けながら警戒した足取りで近付いてくる。
「えらく遅かったじゃないか」
「……別に」
背丈の関係上、俺よりも頭一つ分小さい神宮寺の顔を見下ろすと、つぶらな瞳はまるで兎のように赤くなって泣き腫らしたであろう痕がうかがえる。
……もしかして、遅くなった理由ってこれのことか?
「神宮寺、お前ひょっとして泣いて、」
「うっさい」
言い終わろうとする前に、神宮寺がそれを遮った。
「誰のせいであたしがこんなにも怒ってると思う。あれからある程度考えてもみたけど、やっぱり悪いのはあんたじゃない。穂積華都!」
それなりに凄みのある睨みに加え、鼻先に人差し指を突き立てられる。
怒りの矛先を向ける神宮寺に、俺は努めて冷静に、
「それは違うぞ神宮寺」
「なにがどう違うっていうのよ」
「ほら、俺がさっき言ってやっただろ? 長年騙し続けてきた俺が悪いって。ああ、確かにその通りだ。その通りだけどさ、ちょっとばかし待ってほしい。それはお前にも同じことが言えるんだ。分かるだろ?」
「知らないわよ」
「……お前も現実では女なのにも関わらず今の今まで男と偽り俺を欺いてきた。まぁそれもお互い様だ。だから、えーと、つまりは」俺は一呼吸するくらいの間を挟んでから「ようは誰も悪くないってことだ」
「…………」
気まずい沈黙。
これがまとまってないながらに俺が導き出した、正しく綺麗事だ。
とりあえずこの事態を収めようと発言を試み平和的解決を望んだ結果だが、いささか安直すぎる気がしなくもない。これで納得してくれればいいけど。
しかしそんな俺の想いが実るはずもなく、目論見に至ってもものの数秒で崩れ去ることとなる。砂上の楼閣。
「――人が真剣に話してる時に、茶化してんじゃないわよっ!」
身を翻し見事に蹴りが炸裂したのは俺の身体――ではなく、悲しいかな。何の罪もない自転車。それも俺が長いこと愛用してる乗り物に。
「あいぼおおおおおおおおおおおおおおおおお」
俺の悲痛な叫びと同時に、勢いよくアスファルトに叩き付けられる相棒。砕け散ったであろう反射板が無情にも宙を舞う。
非情すぎる現実に、俺は頭を抱えながら膝から地面にくずおれる。
「て、めぇ……っ! 俺だけならまだしも、あろうことかフェイバリット号にまで手を……いや足か。足を出しやがったなあ!!」
「手でも足でもどっちでもいいわ! もういい。こんな話をすることに意味なんてない。……友リス切ってやる。あんたの友リス、帰ったら絶対に切ってやるんだからあ!」
友リスを切る――それは今後一切の関わりを断つと言っているようなもの。
その発言をするってことは、神宮寺のやつそれだけ本気ってことか。
だがな、俺にだってその覚悟は十分にある。
相棒を傷付けられて黙っていられるほど、俺は人間ができてないわけじゃねえからな!
「ああそうかい。俺だってお前と話を続けるのはごめんだね。こっちから願い下げだぜ!」
「なっ、なによ! あんただって、あんなにもあたしの胸を卑しく執拗に揉みしだいたくせに! 忘れたとは言わせないんだからねっ?!」
「なぁぁっ!? お、おま、そのことは今関係ねえだろ……? つうか揉んでねえし! 自分の都合の言いように解釈すんな!!」
「でも触ったことは事実でしょうが!!」
「うん。まぁ、そうね」
それに関しては正論だから反論し辛い。
ひ、卑怯だぞ! この卑怯者!! なんて口にしようものなら法律振りかざされそうだから胸中に留めておくけども。
「あんたのことだからどうせ帰ったあとにオナネタとして使ったんでしょ。うへえ最悪。あたしの半径五メートル以内に入らないでくれる? キモいから」
「半径五メートル以内って結構広くね!? じゃなくて。使ったこと前提で勝手に話を進めてんじゃねえよ!」
確かにその日の夜にふと思い出して柔らかかったなぁと感慨に浸りはしたが、オナネタに使うほどじゃないな。俺に右手を使わせたかったらパンツに顔を突っ込まれるか本当に揉みしだくかしねえと……
「……」
「え、なにその沈黙。まさか本当にヤったんじゃないでしょうね……?」
「あ? いやいやしてねえって! だから本気でドン引くのは止めろ!」
考えがつい顔に出ていたのだろうか、神宮寺がおっさんの吐いたゲロを見るような目付きのまま、俺から一歩二歩と後退った。その表情に陰りが感じられるのは今の一連の流れだけじゃなさそうだ。
「――とにかく! あんたとはもう二度と会わないんだから。ご、き、げ、ん、よう!」
そのように叫ぶと、神宮寺はこの場から全速力で去って行った。
同じ学校の、ましてや同じ教室で、一体どうやって会わないつもりなんだよ……バカ。
数瞬の間が空いたのち、俺がハッと気が付く頃にはここは歩道のど真ん中。さらには衆人環視の中で、こんな不毛な罵り合いをやって退けたという事実に、俺は今更ながら顔が赤くなるのを感じて傷付いた自転車を起こして脇道へと出た。
「くそ、何なんだよ一体……」
今回の事態をうまく言語化することができず、物事が思い通りにならなかった時のような苛立ちを孕んで、俺は足元に転がっていた小石を力いっぱい蹴飛ばした。
俺自身が騙されていたことよりも、正直自転車を傷付けられたことの方が現状においては勝り、さっさと帰って友リスから消してやるという意思に駆り立てられるがままに自転車に跨り漕ぎ進めるも、何やら前輪から擦れたような音がする。段差もないのに一回転するたびガコンと跳ねるなど思いも寄らぬ奇行を垣間見せ、とっさに違和感を覚えた俺はもしやと思い自転車から下りて直接タイヤに触れてみると、全く空気が入ってなかった。
果たして何年振りにこの状態になるせいかド忘れしてしまったが、ほらあれ、なんつったっけ? パンツじゃなくて……ああ、そうだ。思い出した。
今まで丁寧に乗りこなしていた俺の自転車だが、どうやらパンクしてしまったらしい。
犯人は目に見えて明らかだ。
当然、あの神宮寺月に決まってる。
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