第三章『友達×友達』③
教室の前にはあっさり着いた。
別に帰属意識が人一倍あるからという理由ではなく、単純に屋上から一階下りゃすぐ済む話だったからだ。
意外と事もなく拍子抜けだな。そう思いながら俺は教室の引き戸を引いた。
そして誰にも見つかるまいと迅速に教室に入った。そう、ここまではよかった。
「――――え? あ、れ。……穂積くん?」
なんてこったい。
俺の視線の先には、椅子に腰掛け中途半端に硬化したであろう濃野が目を白黒させながら、俺の顔を、俺の格好を、半ば呆然と見つめていた。
『よ、よう濃野。こんな誰もいない教室で会うなんて偶然だな』
――これは俺の思考だ。この状況で一番に投げ掛けるべき言葉は何か必死に模索してるが全く思い浮かばねえ。
『の、濃野じゃないか。どうしてこんなところに。む、一体何をそんなに驚いて……ああ、
この格好か。気にしないでくれ。ただの趣味だ』
――おいぃっ!? 自ら変態路線に走ってどうするっ!?! ……おっと、つい取り乱しちまった。深呼吸深呼吸……。
『濃野。お前こんなところで何して、ああっ! し、しまった。急いでたせいでうっかりズボンをトイレに置き忘れちまった!』
……う、うーん。無理矢理っつうかそんな露骨な感じが否めないが、とりあえず第一候補に――とか余裕かましてる場合じゃないな。こういうのは時間が経てば経つほど互いに冷静な判断が下せるようになり現実的な思考へシフトすると相場が決まってるんだ。言わば濃野が女の子的にも『や、やだ……』とか『先生、呼ばなきゃ……』なんて青ざめながら口にする可能性も十分に考慮する必要がある。……想像するだけで泣けてくるのは果たして俺が涙脆いからか。つうかさっさと言えよ、俺!
「濃野。お前こんなところで何して、ああっ! し、しまった。急いでたせい、」
「あっ駄目! こっち来ないでっ!!」
「で、うっか、り……」
――俺、撃沈。
あらかじめ用意した無難な台詞を口にしながら踏み出したところ、椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった濃野はまるで変質者が目の前に現れた時のような反応を……ああそうか。この格好。そういえば俺が今、変質者そのものだったな。
だけど、流石にそこは否定しないとやってられないわけで、
「ち、違うんだ濃野! これにはそりゃあ深いワケがあって、」
「いやぁぁっ!」
一歩二歩と続けて近付いたせいか、逆に濃野は俺から一歩二歩と後退り、心の底から悲鳴を上げる。恐怖に顔を引き攣らせながら、呼吸も乱して取り乱す。
は、はは。
……終わった。
何が終わったって、そりゃ俺の学園生活が。リア充になる夢が。脆く儚く打ち砕かれた崩落の音が鼓膜を打ちつけるようにして耳の奥でガンガン響きやがる。濃野にここまで否定されて、これから俺は何を生き甲斐に学校に来ればいいんだよ。
……適当に理由を付けて、さっさと体操服を回収してずらかるか。
「あー……悪かったな。まだ知り合って間もない俺が慣れ慣れしく近付いて。ちょっと勘違いしてたみたいだ」
「えっ? 何を言って……あっ! ち、違うの! そういう意味で言ったんじゃなくて!」
すっかり傷心しきった俺に目が回る勢いで手をばたつかせながら濃野は、
「ええと、なんていうかその……そ、そう! 鳥肌が立って物凄く恥ずかしかったから!」
「鳥肌が立つほど気持ちの悪い存在だったのか……」
「わぁ逆効果! いやだから違くってぇ」
否定すればするほど惨めになるだけだからそろそろ止めてほしいんだが……。
遠い目を遥か彼方に浮かぶ夕日に向けたのち、視線の先をフッと床に落とそうとしたところで今しがた濃野が腰掛けていた机が視界に入った。
その机の上には万年筆らしき物やインク、中央には縦長の用紙が何枚も……これはあくまで俺の想像でしかないが、漫画か? これ。
「お、おい。その机の上に乗ってるものって……」
「ひゃあっ!? それだけは見ちゃらめえ!!」
らめえて。
ろれつすらうまく回らなくなった濃野は目にも止まらぬ速さで跳躍。豊満すぎる胸が踊る。がしかし、近くにあった机に足を引っ掛けこれまた派手にずっこけた。行き場をなくした手は自身の机を掴むも思った以上に勢いがあったせいか机ごと引っ張り――そこからは思わず目を背けたくなるくらいの大惨事だった。
机が傾きまず落下したのはインク。黒い液体を床にぶちまけ、その上にはひらひらと宙を舞っていた用紙が着地ならぬ着水。波紋を作る間もなく色が白から黒へと変わり、まるで白を取られる瞬間のオセロを彷彿とさせた。
肝心の濃野はといえば、真正面からずっこけはしたものの胸がクッション代わりになったのか――胸が無ければ即死だった――顔を床にぶつけるということはなかった。しかし飛び散ったインクの被害には遭ったようで、顔やら髪にインクが付着し、ブレザーにも大きな染みを作っていた。
そしてピタゴラスも吃驚なギミックの終着点にあった物はというと――濃野の、まだ傷すら作っていないおニューの通学鞄だった。
♀ × ♂
「うぅ、さっきは酷い目に遭ったよぅ……」
そろそろ夜の帳が降りようとする頃、体操服に着替えた俺と濃野の二人は、揃いも揃って教室の清掃作業に明け暮れていた。
俺の手には雑巾、濃野の手にも濡れ雑巾が握られていて二人して黒く巨大なインク溜まりに挑んでいる最中だった。
「ほんと、さっきのは俺が悪かった。この通り、謝る」
「ううん。顔を上げて。穂積くんのせいじゃないよ。わたしのメンタルがさっきみたいなイレギュラーに対応できるほど強ければ今回の事態は招かなかったわけだし。それに元はと言えば過剰に反応したわたしのせいだから、穂積くんは気にしないで」
「そうは言ってもあんなへんた……露出した奴が教室に飛び込んできたら濃野じゃなくても驚くって」
「うーんそうかなあ。わたしは穂積くんのあの格好、あれはあれでありだと思って……あ、や、何でもないっ、何でもないから!」
床を拭き拭き、机を拭き拭き、次に俺が椅子を拭き拭きしようとしたところで、ぴたり濃野が拭く手を止め、
「……どうしてわたしがこの時間に一人教室に居残っていたのか、訊いたりしないの?」
四つん這いになりながら、片膝立ちする俺を見上げる。
体操服姿も手伝ってなんだか犯罪的なまでに色っぽい。胸も強調されてるしな。って俺はナニ想像してんだか。
「そりゃ気にならないと言えば嘘になるけど、それにはそれ相応の事情があんだろ? だったら訊くだけ野暮な気がするしそれなら訊かないでおこうかなって」
「ふーん、そっか。……そっか」
何か考えるように視線を落としていた濃野は機敏に手を動かしながら、
「実はね、漫画を描いてたの」と言った。
「そうなのか」と俺。
まぁ薄々はそんな気がしていたからな。大して驚かない。
「元々この学校には漫画を描く部活が無くてね、それ自体は事前に調べておいたからいいんだけど、どうにかして漫研……漫画研究部を作りたいって思ったわたしは出来る限り動いてもみたの。だけど、結局は人数不足で立ち上げるまでには至らなかったんだ」
「至らなかったってことは、いいところまでいったのか?」
「いいところというよりかは、とりあえず描ける場所さえ確保出来ればいいやって妥協しちゃったんだよね。だから宍戸先生に頼んで、放課後の教室を使用してもいい許可を取ったの」
「ああ、だから教室にいたのか」
なるほど納得。ポンと手を打つ。
「うん。……それからもう一ついいかな」
再度雑巾を走らせる手を止め、至極真面目な顔をした濃野はずいと顔を近付けた。
「これからわたしが言うことは誰にも言わないでほしいの。絶対に他言無用でお願いっ!」
「わ、分かった」
分かったからもう少し顔を離してくれ。このままじゃ俺のナニさんがナニしちまうよ。
「うん。あのね。実を言うと、わたし……」
話を切り出す前、俺から少し離れた濃野はそっと目を閉じ浅く呼吸を繰り返すと、
「漫画は漫画でも、なんと同人誌を描いていたのでした」
はい、めでたしめでたしと勝手に終幕する濃野。
そんなしたり顔も可愛いけど、ピリオドを打つにはまだ早いんじゃないか?
「同人誌っつうと、既存の漫画のキャラクターとかを使って描くあの?」
「穂積くん同人誌のこと知ってるのっ!?」
「うん、まあ。……俺そこまで驚くようなこと言ったか?」
「えっ、あ。そっか。今は普通に知っててもおかしくないよね。ごめんごめん。穂積くんはどこかで読んだことでもあるの? 同人誌」
「まぁ、昔ちょっとだけな」
……言えねえ。昔といっても中学の頃に、学校に悠間が十八禁同人誌を持ってきてつい釘付けになっていたら女性教師に没収されたなんて黒歴史、言えるわけがない。
「それで、その同人誌がどうしたんだよ」
「あ、うん。描いてるのは確かに同人誌なんだけど、問題はね、その……ジャンルにあったりなかったり? なんてして」
濃野にしては珍しく含みのある言い方でお茶を濁しているようだった。言うのがよほど恥ずかしいのかえへへと笑って誤魔化している。
が、急に笑うのを止めたかと思いきや神妙な面持ちになって押し黙った。
ごくり生唾を飲む音が聞こえるほど教室はしんと静まり返り、濃野の顔は夕暮れだけではこうはならないほどすっかり紅潮しきっていて、突如覚悟を決めたように口を開くと、
「……同人」
口を開いてくれたはいいが、声が小さすぎてうまく聞き取れなかった。
「悪い濃野。よく聞こえなかったからもう一回言ってもらっていいか?」
「ええっ!? それなんて羞恥プ……じゃなかった。もう一回。もう一回ね」
大きく深呼吸。そして、
「……エロ同人」
早口な上にやけにか細い声で発したものの、今度は何とか聞き取れた。
エロ同人。面と向かって濃野はエロ……エロ同人!?
「……あー」
悩みに悩んだ末、結局なんと言えばいいのか分からず、騙し騙しに視線を宙に彷徨わせる。
ここは――そうだ。ドン引かれない程度に濃野をフォローしよう。うむ、それがいい。
「……フ、安心しろ。俺はエロもシモも大好きだ!」
ビシッとサムズアップしてみせると、濃野はポカンと口を開けたまま唖然といった面持ちで俺を見ていた。え、嘘だろ。俺今引かれてる!?
俺はつーっと冷や汗を滴らせ濃野の言葉を待つ。
すると何がおかしかったのか目を糸のように細める濃野は微笑を湛え、
「……プッ。あははっ、穂積くんってオープンスケベなんだねー。むっつりスケベより全然いいよっ」
俺のサムズアップに対抗してか胸元でブイサインを作ってみせる。どうやら引かれていたわけじゃないようだ。俺はほっと安堵の胸を撫で下ろす。
……濃野になら俺の素を曝け出してもいいか。
「――むっつりなんて言語道断っ! いざという時むっつりの烙印を押されてラッキースケベで損したくないしな」
「いいキャラしてるね穂積くん。その調子ならわたしとムフフなイベントが起こる日も近いかもよー?」
「ならその日がくるまで死ねないな。楽しみに待っておくよ」
「……うん。そうだね」
不意に立ち上がる濃野はセンチメンタル気味に窓の外に目を向け、
「変わらないなあ……」
「えっ?」
謎めく言葉に俺が反応すると、濃野はなんでもないよとはにかんだ。
なんでもない、なんてことはないだろうが、今は追及するだけ無駄な気がしてならなかった。
しかしなんとか濃野と目を見て話せるようになったが、未だに緊張するのはどうにかならないのか。そういや月の奴とは普通に話せるよな。ラプソで三年半以上一緒にいたからか?
話しながらもきびきびと手を動かしていたお陰か、目に見えるくらいの汚れは落ち、あらかた教室の掃除は完了した。
「ま、ざっとこんなもんだろ」
「わぁ凄いね穂積くん! 床なんて新品みたいにピッカピカだよ」
「それほどのことでもないだろ。たかか拭き掃除くらいで大げさだな」
などと言いつつ、内心俺はほくそ笑んでいた。
フフン。そうだろう。掃除だけは結構自信があったからな。早く帰ってネトゲをやりたいがために効率よく綺麗に清掃する方法を身に付けたとか胸を誇る理由にすらならねえけど。
「それじゃあ掃除も終わったことだし、俺はこれで」と雑巾を片手に腰を上げたところである疑問が浮上した。
そういや俺はなんで教室に来たんだっけ?
「…………あ」
思い出した。
そういや月の体操服を取りに来たんだった。濃野の事があってすっかり失念していた。
しかしどうするこの状況。思い出したはいいが、すぐ傍には濃野がいるから目に見えて目立つ行動は取れないし、バレないように移動するには相当のスキルが必要だぞ。
今朝方月が座っていた机を見ると、その横にはしっかりと体操袋が掛けられていた。運よく引き戸も近いことだし、これなら取る機会も巡って――
「あっ、こんなところに汚れ発見!」
叫ぶ濃野が指差し確認、そそくさと出入り口付近を陣取った。くっ、なんて間の悪いタイミングなんだ!
……まぁいい。いや百歩譲ってよくないが。
出入り口を支配されたとはいえ別に出られないわけでもないし、俺に背を向け拭き掃除に専念してるみたいだからこれはこれで好都合。敢行する絶好のチャンスだ。
思うが早いか、忍び足で月の机まで辿り着いた俺は体操袋を手に取った。よし、あとはバレないように濃野の背後を抜けて教室を出るだけだ。
俺はそろーり動き出す。気付かれないよう気配を消してっと。フフ、今の俺は正しくラプソで言うところの凛之助的ポジあっ。
ガツン。とほぼ無音の教室にこだまするのは、ついうっかり俺が机にぶつかった接触音。
ドサッ。これはまたもついうっかり手を滑らせたことによって体操袋が床に落ちた音。
シュッ。
「えっ、なに。どうしたの――」
――最後は濃野が振り返るのと同時に、俺が床にしゃがみ込んだ音だっ!
濃野が振り返る。俺が体操服を拾う。果たしてそれはほぼ同時だったが、ここにきて無駄に火事場の糞力を発揮。床に落とした体操袋を手にした直後、俺はそれを力の限り廊下に向かって投擲した。さながらそれはラグビー選手のよう。
「ぅわわっ! なんだろう、今の風切り音」
「ンッ、オト? オトナンテシタカ? 幻聴ジャナイノカ、ソレ」
相変わらず誤魔化すのが下手な俺。当然自覚くらいしているさ。
「ところで濃野はビッグバンについてどう思う?」
「え、別にどうも思わないけど」
あっさり一蹴された。
「……悪い。変なこと訊いた」
「ううん、これっぽっちも気にしてないからだいじょーぶぃだよ」
「そう言ってもらえると助かる。それじゃあ俺は先を急ぐからまた明日な」
「あ、うん。わたしも今回のことで色々と駄目にしちゃったからもう少ししたら帰るよ。あーあ、また一から描き直しかあ」
「うっ……ほんとにごめんな。俺のせいで原稿駄目にしちまって」
「あっ、別にそういう意味で言ったんじゃないから、穂積くんは気にしないで」
「いややっぱりそういうわけにもいかねえよ。だからもし俺に手伝えることがあれば何でも言ってくれていいからな。何なら描くのだって」
「えっ、ほんとにいいの?」
「おうとも、男に二言はない。まぁ俺の場合はあるけど。でも必ず約束は守るから安心してくれ」
「分かった。うん。そういうことなら。また今度、ね」
にっこり天使のように微笑む。
結論、やっぱり濃野は可愛い。冥利この一言に尽きる。
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