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欲のない俺に、最強の資産システムが降ってきた ~望んでないのに、金も家も車も会社も美女も増えていく~  作者: Ren Hazumi


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第21話「大学生と社長、その二重生活」

第21話「大学生と社長、その二重生活」


赤坂の朝は、湯が沸く音から始まった。


蓮は赤坂レジデンス――1203号室のキッチンに立ち、ケトルが沸き上がるのを待っていた。


テーブルの上には、ノートパソコン、スマートフォン、大学の講義用の本、そして昨夜、高橋から送られてきた一つの書類が置かれている。


その書類は投資関連の報告書ではない。


契約書でもない。


まして、黒瀬ホールディングスに関係するものですらなかった。


タイトルは簡潔だった。


経済学部・後期講義課題


蓮はその書類を見る。


それからノートパソコンを見る。


そして、また書類へ視線を戻した。


スマートフォンが震えた。


高橋健司からのメッセージだった。


高橋 健司:

「黒瀬様、FY2027の修正版予測を財務チームから受け取りました。完全版のファイルを今朝お送りします」


蓮はメッセージを開く。


添付ファイルが一つ。


KUROSE HOLDINGS — FY2027 CONSOLIDATED FORECAST v3.2


蓮はファイル名を見つめた。


「……起きたばかりでこれか」


ケトルが鳴る。


蓮はカップに湯を注ぐ。


高級なコーヒーはない。


本格的なコーヒーマシンもない。


ただのインスタントコーヒーだ。


蓮はカップを持ってテーブルへ戻る。


ノートパソコンを開く。


目の前に、二つの世界が同時に現れた。


左側――


経済学Ⅱ――マクロ経済政策


右側――


KUROSE HOLDINGS — CONSOLIDATED FORECAST


蓮は二つの画面を見つめる。


「……大学生と会社のオーナーか」


コーヒーを一口飲む。


「……どっちも面倒だな」


蓮は黒瀬ホールディングスのファイルを開いた。


FY2027 CONSOLIDATED FORECAST — VERSION 3.2


指標| Defensive| Base| Stress

顧客維持率| 90%| 85%| 80%

売上成長率| 5.2%| 8.1%| 1.4%

予測売上高| ¥13.08B| ¥13.44B| ¥12.60B

営業利益率| 8.4%| 9.2%| 6.7%

営業利益| ¥1.10B| ¥1.24B| ¥844M

設備投資| ¥520M| ¥610M| ¥430M

期末現金残高| ¥8.92B| ¥8.46B| ¥8.11B


蓮は最後の列に目を留めた。


前回の報告から、大きくは変わっていない。


前提条件を開く。


STRESS SCENARIO — KEY ASSUMPTIONS


Customer Retention: 80%

Fuel Cost Increase: 8.0%

Labor Cost Increase: 6.0%

New Contract Contribution: ¥180M

Warehouse Utilization: 76%

Operating Expense Increase: 7.2%

Capex Reduction: 29.5%


蓮は画面を横へ送る。


財務チームからの注記があった。


「ストレスシナリオは、厳しいものの管理可能な事業環境を想定している。なお、負債による資金調達は想定していない」


蓮は最後の一文で止まった。


借入による資金調達はない。


「……いいな」


蓮はメッセージを送る。


蓮:

「このバージョンで使える」


すぐに高橋から返信が来た。


高橋 健司:

「Base Scenarioを正式な経営目標として使用されますか?」


蓮は読む。


少し考える。


蓮:

「しない」


三点リーダーが表示される。


高橋 健司:

「では?」


蓮:

「Baseは社内計画用に使う。達成必須の目標にはしない」


高橋 健司:

「目標を低く設定しすぎると、経営陣の積極性が失われる可能性があります」


蓮は画面を見る。


蓮:

「積極的に見える会社より、生き残る会社のほうがいい」


高橋からの返信は、すぐには来なかった。


数秒後――


高橋 健司:

「チームに伝えておきます」


蓮はメッセージアプリを閉じる。


そして左側の画面へ戻る。


大学の課題。


蓮は最初の問題を読む。


「金利、民間投資、総需要の関係について説明しなさい」


ペンを手に取る。


書く。


五分後、答えを書き終えた。


読み返す。


特に変わったところはない。


本を閉じる。


一つの課題が終わった。


そして再び会社の報告書を開く。


二つの世界。


一つのテーブル。


蓮は息を吐く。


「……少なくとも、会社は水曜提出じゃない」


しばらくして、蓮は部屋を出た。


スーツではない。


シンプルなシャツ。


黒いパンツ。


スニーカー。


そしてリュック。


エレベーターで降りる。


一階に着き、扉が開くとコンシェルジュが声をかけた。


「おはようございます、黒瀬様」


蓮は頷く。


「おはよう」


外へ出る。


地下駐車場へ向かう。


B2。


47番スロット。


P9LMが停まっている。


隣の48番スロットには、Ghost Series II by MANSORY。


蓮は少し立ち止まる。


そしてP9LMを選んだ。


その車のほうが高価だからではない。


大学へ行くには、そのほうが使いやすいからだ。


乗り込む。


エンジンがかかる。


蓮は赤坂レジデンスを出た。


赤坂。


→ 外苑東通り。


→ 六本木。


→ 青山。


→ 大学へ続く道。


朝の交通量は、それなりに多い。


蓮は車を飛ばさない。


赤信号。


止まる。


青信号。


進む。


単純だ。


その途中、ダッシュボードのホルダーに置いていたスマートフォンが震えた。


新しいメッセージ。


高橋からだった。


高橋 健司:

「黒瀬様、もう一つございます。ミウラ・キャピタルから、金曜夜のプライベート投資ラウンドテーブルへのご出席が可能か確認を求められています」


蓮は一瞬だけ目を向ける。


赤信号。


もう一度読む。


金曜の夜。


六本木。


50億円。


10%の株式。


複数の投資家。


蓮は息を吐く。


そして音声入力で返信した。


「まだ返事してない。待ってもらって」


送信。


信号が青に変わる。


蓮は再び車を走らせる。


「……全部が朝から返事を求めてきたら、いつ大学生をやるんだ」


蓮が学部棟に入った時、壁の時計は講義開始の数分前を示していた。


302号室へ向かう。


扉はまだ開いている。


入った瞬間――


「蓮!」


高橋ではない。


田中浩平が席から手を振っていた。


蓮が振り向く。


田中はすぐ隣の席を指差す。


「ここ」


蓮は座る。


田中は蓮のリュックを見る。


それから顔を見る。


「お前、眠そうだな」


「そう?」


「寝不足?」


「違う」


「じゃあ?」


「朝早く起きた」


田中が黙る。


「なんだよ、その答え」


「正しい答え」


田中が笑う。


そして蓮のノートパソコンを見る。


「お前、パソコン持ってきたの?」


「ああ」


「いつも本だけじゃん」


「たまには変わる」


田中が身を寄せる。


「まさか、バイト始めた?」


蓮はノートパソコンを開く。


「違う」


「じゃあ何?」


「私用」


「私用って何だよ?」


蓮は田中を見る。


「私用」


田中はゆっくり頷いた。


「……まあ、筋は通ってる」


少し間を置いてから、田中が言った。


「そういや、昨日またお前の車見た」


蓮が見る。


「車?」


「黒いやつ」


「大学で?」


「そう」


「それが?」


「友達が言ってた。あの車、高いらしい」


蓮は黙る。


田中が続ける。


「売ったら家が買えるんじゃないかって」


「……小さい家なら」


「マジ?」


「さあ」


田中は疑わしそうに蓮を見る。


「お前、知ってるみたいな言い方するよな」


蓮は教科書を開く。


「ネット」


「何でもネットだな、お前」


「お前の質問もネットで調べられるからな」


田中が笑う。


「お前、本当に車に興味ないんだな」


蓮は教科書のページを見る。


「車は便利だ」


「それで?」


「走れば十分」


田中はしばらく蓮を見る。


「お前、変な経済学部生だな」


蓮はページをめくる。


「昨日も言ってたな」


「今日はもっと確信した」


講師が入ってくる。


会話が止まる。


講義が始まった。


その日の午前のテーマは金融政策だった。


講師が黒板に簡単な式を書く。


金利↑ → 投資↓ → 総需要↓


そして、金利の変化が企業や消費者の行動にどのような影響を与えるのかを説明していく。


蓮は集中して聞く。


時々、ノートを取る。


システムはない。


資産もない。


投資家もいない。


会社もない。


ただ教室がある。


黒板。


教科書。


講師。


そして、何人かは講義よりスマートフォンのほうに興味がありそうな学生たち。


蓮は、こういう状況が好きだった。


誰も彼を「黒瀬様」と呼ばない。


キャッシュフローについて聞かれることもない。


判断を求められることもない。


ここでは、ただの蓮だ。


21歳の大学生。


講師が質問する。


「金利が上昇すれば、投資は必ず減少するでしょうか?」


何人かの学生が黙る。


蓮は手を挙げない。


講師が一人を指名する。


「田中」


田中の体が固まる。


「え?」


「答えてみろ」


田中が蓮を見る。


蓮は小さく首を振る。


やめておけ。


だが、田中は無視した。


「投資……減ります?」


講師が笑う。


「必ず?」


田中が黙る。


蓮は目を閉じる。


そして、仕方なく手を挙げた。


講師が指差す。


「黒瀬」


蓮は少しだけ立ち上がる。


「必ずではありません。利益への期待、信用状況、投資収益率によって影響は変わります。十分な収益が見込めるプロジェクトなら、金利が上昇しても企業は投資する可能性があります」


講師が頷く。


「いい答えだ」


蓮は座る。


田中が蓮のほうへ身を寄せる。


「助かった」


「頼るな」


「友達に対して冷たくない?」


「今、助けたばかりだ」


田中が笑う。


「じゃあ昼飯おごって」


「なんでそうなる?」


「助けてもらったから」


「論理が壊れてる」


「結果が出ればいいんだよ」


蓮は田中を見る。


そして息を吐く。


「安いのでいいなら」


田中がすぐ笑顔になる。


「決まり!」


昼前、講義が終わる。


学生たちが一斉に教室を出ていく。


田中はまだ課題について話している。


「蓮、乗数効果のところ分かる?」


「少し」


「説明できる?」


蓮は本をバッグへ入れる。


「図書館で」


「なんで図書館?」


「食堂だと、食べながら質問するだろ」


田中が笑う。


「お前、俺のことよく分かってるな」


「それは別にすごくない」


二人は一緒に食堂へ向かう。


蓮は簡単な昼食を買う。


高級レストランではない。


個室でもない。


店員が頭を下げる場所でもない。


ただの大学食堂だ。


田中は向かいに座る。


「なあ……」


蓮は食べる。


「何?」


「もし、いつかお前がめちゃくちゃ金持ちになったらさ。ここで飯食い続ける?」


蓮は噛む動きを止める。


「めちゃくちゃ金持ちって、いくら?」


「例えば……100億円」


蓮は田中を見る。


ほんの一瞬だけ。


「……まあ、そのくらい」


「そのくらい?」


田中は眉をひそめる。


「お前、100億がどれくらいか分かってる?」


「分かってる」


「じゃあ?」


蓮は再び食べ始める。


「飯がうまいなら、ここでいいだろ」


田中は、まるで違う生き物を理解しようとしているような目で蓮を見る。


「お前、変だな」


「今日で三回目だ」


「つまり一貫性がある」


蓮は、ほんの少しだけ笑いそうになった。


食事を終えた後、蓮は講義へ戻らなかった。


高橋からメッセージが届いている。


高橋 健司:

「黒瀬様、高峰さんがオフィスへ連絡してくださいました。予定通り、サクラ・フレイト関連の書類を提出するために来られるとのことです」


蓮は時間を見る。


「……まだ間に合う」


立ち上がる。


「田中」


「ん?」


「俺、先に行く」


「どこへ?」


「会社」


田中が笑う。


「仕事?」


蓮はスマートフォンをポケットへ入れる。


「用事」


「最近のお前、謎すぎるんだけど」


「普通だろ」


田中は去っていく蓮を見る。


「それが一番おかしいんだよな」


大学から黒瀬ホールディングスまでの移動には、特に問題はなかった。


蓮はP9LMを使った。


東京の大通りを抜け、やがて静かなオフィス街へ入る。


黒瀬ホールディングスのビルの駐車場に車を停めると、エレベーターから出てきた数人の社員が、すぐに頭を下げた。


「黒瀬様」


蓮は頷く。


「こんにちは」


管理部門の社員、斎藤正則が近づいてくる。


「お疲れ様です、黒瀬様。高橋さんが会議室でお待ちです」


「静香はもう来てる?」


「まだです。あと十五分ほどかと」


蓮は時計を見る。


「じゃあ先に上がる」


斎藤は少し困惑したような顔をする。


「運営報告書をご覧にならないのですか?」


蓮が止まる。


「どの報告?」


「ヤマトと三井のものです」


「昨日の?」


「はい」


「もう読んだ」


「……そうですか」


斎藤は頷く。


蓮はエレベーターへ向かう。


オフィスフロアは大学とは違う。


電話。


キーボード。


社員たちの会話。


プリンター。


足音。


それぞれの目的に向かって動く人たち。


会議室の扉が開く。


高橋が立ち上がる。


「黒瀬様」


蓮が入る。


テーブルの上には三つの書類が用意されていた。


高橋が指差す。


「一つ目がヤマト物流の運営報告。二つ目が三井マリンフーズの報告。そして三つ目が連結予測の修正版です」


蓮は座る。


「予測はもう読んだ」


「そんなに早く?」


「数字が多いわけじゃない」


高橋が笑う。


「それなら、もっと重要なところを見ましょう」


ヤマト物流の報告書を開く。


YAMATO LOGISTIK — OPERATING PERFORMANCE


指標| Q1| Q2| Q3

売上高| ¥1.61B| ¥1.67B| ¥1.72B

営業コスト| ¥1.49B| ¥1.51B| ¥1.55B

営業利益| ¥120M| ¥160M| ¥170M

定時配送率| 96.1%| 96.8%| 97.2%

顧客からの苦情| 41| 37| 29

ドライバー離職率| 4.8%| 4.2%| 3.7%


蓮は最後の項目を指す。


「離職率が下がってる」


「はい」


「理由は?」


「勤務スケジュールを再編したことで、労働環境が改善しました」


蓮は苦情の数字を見る。


「苦情も減ってる」


「その通りです」


「利益率を上げられるからって、仕組みを変えるな」


高橋は頷く。


「おそらく黒瀬様なら、そうおっしゃると思っていました」


蓮は高橋を見る。


「なぜ?」


「経営陣が車両稼働率を上げるため、ドライバーの休憩時間を20分短縮する案を出した際、黒瀬様は却下されました」


「20分を大勢に掛ければ、良い施策になるわけじゃない」


「ですが、財務面では年間約3,800万円の営業利益増加が見込まれます」


蓮は背もたれに体を預ける。


「離職率が上がった場合のコストは?」


高橋がメモを開く。


「まだ計算していません」


「計算して」


「承知しました」


「採用費、研修費、残業代、それと遅延が発生する可能性まで含めて」


高橋が記録する。


「承知しました」


蓮は三井マリンフーズの報告書を取る。


MITSUI MARINE FOODS — Q3 OPERATING REVIEW


Revenue: ¥1.16B

Gross Profit: ¥290M

Operating Profit: ¥108M


Cold Storage Utilization: 81%

Spoilage Rate: 1.8%

Average Inventory Days: 23

Major Customer Concentration: 31%

Supplier Concentration Top 5: 47%


蓮は一つの数字で止まった。


「顧客集中度31%」


「はい」


「一社?」


「一つの顧客グループです」


「そこがいなくなったら?」


高橋はすぐには答えなかった。


蓮は待つ。


「年間売上が、契約条件によって約3億6,000万円から4億円程度減少する可能性があります」


蓮は頷く。


「これは利益率を1%上げるより重要だ」


高橋が小さく笑う。


「営業部門に顧客基盤を広げるよう指示します」


「適当に顧客を増やすな」


「どういう意味でしょう?」


「一社の大口顧客を、利益率の低い三社の小口顧客に置き換えるだけなら意味がない」


高橋が黙る。


そして小さく笑った。


「おっしゃる通りです」


ドアがノックされた。


二人が止まる。


斎藤がドアを開ける。


「失礼します。高峰さんがお見えになりました」


蓮が振り向く。


「入ってもらって」


静香が一つの書類バッグを持って入ってきた。


きちんと整えられた、プロフェッショナルな服装。


蓮を見ると、静香の足が一瞬だけ止まった。


「黒瀬さん」


「高峰さん」


静香は頭を下げる。


「お待たせして申し訳ありません」


「今来たところ」


静香は座る。


そしていくつかの書類をテーブルの上へ置いた。


「先日お伝えした通り、サクラ・フレイトに関する追加資料をお持ちしました」


蓮は書類の山を見る。


「何枚?」


静香が瞬きをする。


「……え?」


「書類」


「あ……」


静香はバッグを見る。


「全体で……23点です」


蓮は静香を見る。


「23?」


「はい」


少し気まずそうにしながら続ける。


「確認しやすいよう、優先順位をつけて整理してあります」


蓮は最初の書類を取る。


「いいな」


静香の表情が少し緩む。


「特に重要なのは、この三つです」


三つのファイルを横へ並べる。


契約コンプライアンス・レビュー


取引先リスク評価


サクラ・フレイト――未解消契約エクスポージャー


蓮は最初のファイルを開く。


静香が説明する。


「前回の件を受けて、サクラ・フレイトの主要契約を再確認しました。現時点で、新たな直接的な違反は確認されていません」


蓮は読む。


「でも?」


静香が特定のページを指す。


「一つ、注意すべき条項があります」


蓮は読む。


CONTRACT CLAUSE — SECTION 12


12.4 — Change of Control


「サクラ・フレイト株式会社に支配権の変更が発生した場合、主要契約先は、その変更が有効となった日から30日以内に、運賃および輸送量について再検討を求める権利を有する」


蓮が顔を上げる。


「サクラ・フレイトを売ったら?」


「契約条件を再交渉される可能性があります」


「運賃を下げられたら?」


「利益率が下がる可能性があります」


「どのくらい?」


静香は別の資料を開く。


「社内試算では、サクラ・フレイトの営業利益率に対して約4.8%から7.2%の影響が出る可能性があります」


蓮はその数字を見る。


それからサクラ・フレイトの報告書を見る。


「つまり、会社の買収は売買価格だけの話じゃない」


「はい」


静香が頷く。


「契約の価値も変わります」


蓮は背もたれに体を預ける。


「だったら、高い金額でサクラ・フレイトを買った人間は、買収後に価値を失う可能性がある」


静香は蓮を見る。


「それを懸念しています」


蓮は書類を閉じる。


「これは重要だ」


静香が少し驚いたようにする。


「こういう分析をお伝えしても、問題ありませんか?」


「なんで?」


「私は御社の経営側ではありません」


「そうだな」


蓮は静香を見る。


「だから、あなたの分析のほうが役に立つ」


静香が黙る。


表情が少し変わった。


「……はい」


蓮は再び書類へ目を戻す。


「俺が必要なのは、いつも賛成する人じゃない」


静香はゆっくり頷いた。


「分かりました」


そこに恋愛めいた空気はない。


過剰な視線もない。


ただ、二人の専門家が、互いの仕事の進め方を少しずつ理解し始めていた。


蓮は二つ目のファイルを開く。


「Counterparty risk」


「はい」


「誰が評価した?」


「コンプライアンスチームです」


「方法は?」


静香が詳しく説明する。


売上集中度、契約依存度、支払履歴、相手方の財務能力、契約期間などを基準にスコアリングしている。


蓮は表を見る。


SAKURA FREIGHT — COUNTERPARTY RISK SCORE


取引先| 売上比率| 契約期間| 支払履歴| リスク

Partner A| 31%| 3年| 安定| 中

Partner B| 24%| 2年| 安定| 低

Partner C| 18%| 1年| 不安定| 高

Partner D| 11%| 2年| 安定| 低

その他| 16%| 様々| 混在| 中


蓮はPartner Cを指す。


「これ」


静香は頷く。


「何度か支払いが遅れています」


「どのくらい?」


「平均11日です」


「なんでまだ信用取引を続けてる?」


静香は添付資料を開く。


「二四半期で取引量が22%増加しているからです」


蓮は読む。


そして首を振る。


「売上の成長が、支払いリスクを自動的に消してくれるわけじゃない」


静香が蓮を見る。


「では、条件を厳しくしますか?」


「違う」


蓮は書類を戻す。


「エクスポージャーを減らす」


「どうやって?」


「取引は止めない。信用限度額を変える」


静香はすぐに理解した。


「つまり取引自体は継続しつつ、未収金の残高を制限する」


「ああ」


「上限を超えた場合は?」


「前払い」


静香はメモする。


「合理的です」


蓮は三つ目の書類を取る。


黙って読む。


数ページ。


そして閉じる。


「持ってきてくれて、ありがとう」


静香が蓮を見る。


「黒瀬さん」


「ん?」


「一つ、お伝えしたいことがあります」


蓮は待つ。


「初めて御社の書類を担当した時、問題は単なる事務処理だと思っていました」


蓮は黙る。


静香が続ける。


「でも、実際の事業構造は私が考えていたより、ずっと大きかったです」


「……少し広がったな」


静香は笑いそうになる。


「少し?」


蓮は机の上の書類の山を見る。


「そう思う?」


静香は23点の書類を見る。


「……『少し』という言葉は、適切ではないと思います」


蓮は頷く。


「少なくとも、そこは意見が一致したな」


静香が小さく笑う。


ほんの一瞬だけ。


そして再び仕事の表情に戻る。


「デジタル版もお送りします」


「全部メールで送らないで」


静香が止まる。


「どうして?」


「全部受信トレイに入ったら、開くのが面倒になる」


静香は蓮を見る。


そして、思わず笑ってしまう。


「本気ですか?」


「本気」


「……すごく正直な理由ですね」


「真面目なふりをするよりいい」


静香は少し俯き、笑みを隠す。


打ち合わせが終わる。


蓮が立ち上がる。


静香は書類をまとめる。


「次のレビューが終わったら、また来ます」


「明日?」


静香は予定を確認する。


「まだ分かりません」


「それでいい」


静香が止まる。


「……それでいい?」


「俺が言ったからって、来る必要はないだろ」


静香は蓮を見る。


そして頷く。


「分かりました」


静香は斎藤とともに部屋を出ていく。


蓮は再び座る。


高橋はまだそこにいた。


「黒瀬様」


「何?」


「大学へ戻られるのですか?」


蓮は時計を見る。


それからノートパソコンを見る。


そして書類を見る。


「そう」


高橋が息を吐く。


「本当に戻るんですか?」


「なんで?」


「ついさっきまで、二時間近く三社の話をされていたじゃないですか」


蓮は高橋を見る。


「それで?」


「まだ講義があるんですよね?」


「だから帰る」


高橋が小さく笑う。


「大企業のオーナーというのは、もっと違う優先順位を持っているものだと思っていました」


蓮はリュックを手に取る。


「俺は普通じゃないから」


ドアへ向かう。


高橋が笑う。


「その言葉こそ、黒瀬様には一番よく似合います」


午後になり、蓮は大学へ戻った。


今回は車を使わない。


帰宅前に一つ用事を済ませるつもりだったため、車はオフィスビルに残してきた。


大学の構内を歩く。


学生たちが行き交っている。


数時間前、数億円規模の企業の契約リスクについて会議室で話していたことを知る者はいない。


自分の口座に200億円を超える資産があることを知る者もいない。


SNSで自分の名前がビジネス関連の話題に出始めていることを知る者もいない。


ここでは――


蓮は蓮だ。


遠くから田中が声をかける。


「蓮!」


蓮が止まる。


「どこ行ってた?」


「会社」


「どこの会社?」


「自分の会社」


田中が笑う。


「やっぱり謎だな」


蓮はポケットに手を入れる。


「説明する必要ある?」


田中は首を振る。


「別に」


蓮の隣を歩く。


「そういや、マクロの課題終わった?」


「終わった」


「マジ?」


「終わった」


「いつやった?」


蓮は本をバッグへ入れながら答える。


「朝」


田中が蓮を見る。


「朝?」


「ああ」


「何時に起きた?」


蓮は少し考える。


「忘れた」


田中が笑う。


「お前、本当に変な生活してるな」


蓮は前を見た。


「……たぶん」


夜がゆっくり近づいてくる。


赤坂へ戻った蓮は、着替える。


もう打ち合わせはない。


書類もない。


講義もない。


お茶を淹れる。


そしてソファに座る。


スマートフォンはテーブルの上。


ノートパソコンは開いているが、会社の報告書は表示していない。


今回は、日本の鉄道旅行を扱ったドキュメンタリーを流していた。


蓮は頭をソファに預ける。


十分。


二十分。


三十分。


何も起こらない。


邪魔するものもない。


その時、スマートフォンが震えた。


蓮が目を開く。


高橋からのメッセージ。


高橋 健司:

「黒瀬様、ミウラ・キャピタルから最終修正版が届きました。50億円で10%の株式を提示しており、金曜15時までの回答を求めています」


蓮はメッセージを見つめる。


50億円。


10%。


多くの人間にとって、その数字は絶対に逃してはいけない機会に聞こえるだろう。


蓮にとっては――


ただの経営判断だ。


返信する。


蓮:

「まだ返事するな」


高橋:


「先方に興味がないと思われる可能性があります」


蓮は入力する。


蓮:

「まだ興味がない」


数秒後。


高橋 健司:

「金曜夜には出席されますか?」


蓮はカレンダーを見る。


金曜日。


六本木。


プライベート投資ラウンドテーブル。


それからノートパソコンを見る。


来週の大学の課題。


二つの世界。


蓮は息を吐く。


蓮:

「講義がなければ」


高橋から返信。


高橋 健司:

「予定を調整いたします」


蓮はスマートフォンを置く。


「問題は……」


天井を見る。


「……俺の予定には、ちゃんと講義があるんだけどな」


スマートフォンが再び光る。


今度はメッセージではない。


黒い画面。


白い文字。


《絶対資産支配システム》


《現在の生活状況を確認。》


《大学生としての生活:維持》


《経営者としての責任:増加》


《無欲状態:稼働中》


《無欲度:98%》


蓮は画面を見る。


そして、一行が現れた。


《二重生活状態を確認しました。》


《二重生活状態を確認しました。》


蓮は眉を上げる。


「……それが人生だろ」


画面が再び切り替わる。


《STAGE 2 — CORPORATE ASSET INTEGRATION》


進捗:


1 / 4


現在の条件:


個人としての平常を維持しながら、企業経営上の責任を果たすこと。


蓮はその一文を読む。


「……大学生活も条件に入るのか?」


答えはない。


蓮は数秒、画面を見つめる。


そして息を吐く。


「……面倒だな」


画面が消える。


蓮はカップを手に取る。


再びドキュメンタリーを流す。


テレビの画面では、一台の列車が田園地帯を走っていた。


明日の朝――


また起きる。


大学へ行く。


会社を管理する。


報告書を読む。


投資家と向き合う。


そのどれもが、本当に蓮自身が望んだことではない。


それでも今では、すべてが彼の人生の一部になっている。


そして初めて――


蓮は、普通の生活を維持することが、金を手に入れることよりも難しいのかもしれないと気づき始めていた。


スマートフォンが、もう一度震えた。


新しいメッセージが一件。


高橋からだった。


高橋 健司:

「黒瀬様。もう一つ問題がございます」


蓮は画面を見る。


続けて、次のメッセージが届く。


高橋 健司:

「サクラ・フレイトが主要取引先の一社から正式な通知を受け取りました」


蓮は体を起こす。


高橋 健司:

「契約条件の再交渉を求められています」


蓮は最後の一行を読む。


そして、その期限は――


72時間しかなかった。


スマートフォンの画面は消えない。


ドキュメンタリーは流れ続ける。


画面の中で、列車が遠ざかっていく。


蓮はカップを手に取る。


一口飲む。


そして、静かに呟いた。


「……帰ってきたばっかりなんだけどな」


明日、大学生としての生活と、会社オーナーとしての生活が再び衝突する。


そして今回は――


調整しなければならないのは、大学の予定だけではない。


数億円規模の契約が、わずか三日で変わる可能性がある。


---


第22話「七十二時間しかない」


サクラ・フレイトは、主要取引先から契約条件の再交渉を求められる。


一方、ミウラ・キャピタルは蓮の返答を待っている。


限られた時間の中で、蓮はその契約を維持する価値があるのかを判断しなければならない。


時間だけが、確実に進んでいく。


【次回、第22話へ続く】

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