第8話 誰かの痛みが、遠くなる
痛みを奪われても、まだ他人の痛みは分かると思っていた。
観客は、そこに手を伸ばした。
朝、端末はいつもより静かだった。
黒い画面に、投票結果だけが浮かんでいる。
第五イベント投票結果
一位:共感反応低減
得票率:四一%
俺は、しばらくその文字を見ていた。
痛覚遮断より、嫌だった。
恐怖反応低減より、嫌だった。
味を奪われることも。
熱が遠くなることも。
肉の歯ごたえが薄くなることも。
それらは、俺の中の感覚だった。
だが、共感は違う。
それを削られたら、俺は誰かを見ても、何も感じなくなるのか。
小森が泣いても。
篠田が怒っても。
おばちゃんが心配してくれても。
それを、ただの情報として処理するのか。
端末にコメントが流れる。
来た
人間関係を削る回
支援個体に依存してるからね
小森個体への反応、見たい
篠田個体も使える
共感が薄くなったら自分から孤立するかな
これで管理しやすくなる
カレー個体、まだ他人の顔色を気にしてるし
そこ削ろう
左手首のリングが、冷たく脈打った。
皮膚の上にあるはずなのに、もっと奥に触れられている気がする。
血管。
神経。
心拍。
呼吸。
そのさらに奥。
誰かを見て胸が痛む、その細い回路。
そこに、冷たい指を差し込まれるような感覚がした。
深層適応因子、情動連動領域へ接続準備中。
共感反応、観測開始。
感覚代価、選定中。
「やめろ」
声に出した。
当然、止まらなかった。
黒い画面に、一行だけ浮かぶ。
≪他者の苦痛は、深層では判断を鈍らせるノイズです。≫
ノイズ。
味も、恐怖も、痛みも。
今度は、誰かを思うことまでノイズ扱いか。
俺は端末を伏せた。
「お前らに決めさせない」
そう言った直後、画面の向こうで誰かが静かに見ている気がした。
あの個別の視線。
笑わず、騒がず、ただ俺を解剖するように見る何か。
ログが一行だけ、他とは違う文体で浮かんだ。
≪他者を思うことは、食事と同じ種類の執着なのか。≫
俺は答えなかった。
お前に教える味はない。
昨日そう言った。
今も同じだ。
◇
教室に入ると、小森がこちらを見た。
目が合う。
彼女は一度だけ迷って、それから小さく会釈した。
距離はまだある。
けれど、完全に避けられているわけではなかった。
それだけで、少しだけ胸が軽くなる。
はずだった。
だが。
何も起きなかった。
胸は軽くならない。
温かくもならない。
安心もしない。
ただ、情報だけが浮かぶ。
小森は俺を完全には避けていない。
関係修復の可能性がある。
今は不用意な発言を避けるべきだ。
まるで、自分の内側に冷たい記録係がいるみたいだった。
「黒瀬くん」
小森が声をかけてきた。
「昨日のこと、まだ怒ってる?」
「怒ってない」
「本当に?」
「事実関係だけで言えば、君に過失はない。連絡橋の件も、発熱結晶の件も、君が引き起こしたものじゃない。だから俺が君に怒る理由はない」
正しい説明だった。
少なくとも、論理的には。
だが、小森は少しだけ傷ついた顔をした。
「そういうことを聞きたかったんじゃ、ないんだけど」
俺は一瞬、返す言葉が分からなかった。
そういうことではない。
なら、何を聞きたかった。
俺が怒っているかどうか。
その質問への回答として、怒る理由がないと答えた。
情報としては正しい。
なのに、彼女はさらに傷ついた顔をしている。
左手首のリングが冷たく震えた。
共感反応、低下傾向
情緒的文脈の処理遅延
いいね
正しい返答で相手を傷つけた
反応、良好
「……違う」
俺は小さく呟いた。
小森がまた肩を震わせる。
「ごめん、また変なこと言った?」
「いや」
何が違うのか、すぐに説明できなかった。
違う。
俺は、そんなふうに言いたかったわけじゃない。
でも、今の自分の言葉のどこが悪かったのか、うまく掴めない。
篠田が横から机を蹴った。
軽く、だが音は大きかった。
「黒瀬」
「何だ」
「お前、今のは下手すぎる」
「そうか」
「そうか、じゃねえよ」
篠田は苛立ったように俺を見る。
「正しいとか間違ってるとかじゃねえんだよ、今のは」
「じゃあ何だ」
言った瞬間、篠田の顔が歪んだ。
「それを俺に説明させんな」
なぜ怒っているのか。
篠田は何に苛立っているのか。
小森は何を求めていたのか。
分かるはずなのに、輪郭が遠い。
誰かが目の前で手を振っているのに、厚いガラス越しに見ているみたいだった。
◇
その日の午後、訓練は簡易救助実習だった。
瓦礫に見立てたブロックをどかし、負傷者役の生徒を搬送する。
探索中に仲間が動けなくなった場合の基礎訓練らしい。
班は四人。
俺。
篠田。
小森。
もう一人、別の男子生徒。
本来なら、ただの実習だった。
だが、俺の左手首のリングは朝からずっと冷たい。
観客は、こういう場所が好きだ。
人が焦る場所。
誰かを助けなければならない場所。
泣いたり怒ったりする余地がある場所。
「黒瀬くん、これ、先に支えた方がいいよね?」
小森がブロックを指差した。
「そうだな。そこを先に固定しないと、下の人間に荷重がかかる」
「うん」
彼女は頷き、支柱を差し込もうとした。
その瞬間、床の下から低い振動が走った。
訓練用の揺れではない。
いや。
訓練用に見せかけた揺れだ。
俺には分かった。
昨日までなら、まず恐怖か警戒が来たはずだ。
今は違う。
揺れの周期。
床材の反応。
天井の監視球の向き。
小森の位置。
篠田の手の届く範囲。
情報が並ぶ。
瓦礫役のブロックが一つ、想定より早く崩れた。
小森の足元へ落ちる。
「小森!」
篠田が叫ぶ。
視界の端で、篠田の足が半歩前に出た。
だが、止まった。
落ちるブロック。
小森の位置。
自分の腕で受けた場合の怪我。
間に合うかどうか。
その一瞬の迷いが、篠田の身体を止めた。
普通だ。
当たり前だ。
人間なら、危険を見れば止まる。
俺は止まらなかった。
怖くない。
痛みも遠い。
右腕が壊れる可能性も、情報の一つでしかない。
だから、俺の方が速かった。
左手で小森の肩を引き、右腕でブロックを受ける。
包帯の下の皮膚が裂けた気がした。
だが、痛みはない。
熱も遠い。
衝撃も遠い。
ただ、右腕に荷重がかかったという情報だけがある。
小森は尻もちをついた。
顔が青い。
「ごめ、私、また」
呼吸が乱れている。
目に涙が溜まっている。
小森の涙。
頬を伝う透明な液体。
塩分を含む体液。
表面張力で丸まり、重力に従って顎の先へ落ちていく。
そこまで考えて、俺は息を止めた。
違う。
これは水分じゃない。
涙だ。
恐怖で、罪悪感で、傷ついた心から出たものだ。
そう知っている。
なのに、最初に浮かんだのは、涙ではなく水分だった。
俺は、小森を突き放したかったわけじゃない。
むしろ、助けようとしていた。
泣き続ければ呼吸が乱れる。
呼吸が乱れれば、痛みや怪我の申告が遅れる。
申告が遅れれば、処置も遅れる。
だから、泣き止ませる必要がある。
それは、俺の中では誠実な判断だった。
「泣くな」
言ってから、小森の顔が固まった。
俺は続けた。
「泣いても状況は好転しない。呼吸を整えて、どこを打ったか説明してくれ。負傷箇所が分からないと処置が遅れる」
篠田が俺を見た。
「お前」
俺は小森を見ていた。
彼女は、さっきよりさらに傷ついた顔をしていた。
なぜだ。
俺は必要なことを言った。
泣いても、確かに状況は改善しない。
呼吸を整え、負傷箇所を確認するのは正しい。
なのに、小森は泣き止まない。
むしろ、唇が震えている。
「ごめん……」
小森は小さく言った。
「ごめん、黒瀬くん。邪魔して、ごめん」
違う。
そうじゃない。
俺は邪魔だと言っていない。
必要な行動を示しただけだ。
「邪魔とは言ってない」
「でも、そう聞こえた」
「聞こえ方の問題じゃない。俺は事実を」
胸元を掴まれた。
篠田だった。
「黙れ」
低い声。
篠田の手に力が入る。
「今のお前、マジで最悪だぞ」
「俺は間違ったことを言ってない」
「そこが最悪なんだよ!」
篠田の声が訓練室に響いた。
周囲の生徒がこちらを見る。
教官も駆け寄ってくる。
篠田は俺の胸倉を掴んだまま、歯を食いしばっていた。
「お前、探索者としては正しくなってんのかもしれねえよ。泣いてる奴より状況確認。痛みより行動。恐怖より判断。そりゃ強いんだろうな」
篠田の手にさらに力が入る。
「俺だって、そうなれたら楽だと思う時はある。怖くなくて、痛くなくて、迷わねえなら、どれだけ先に進めるかって思う」
その声が、少しだけ歪んだ。
「ずるいんだよ」
俺は何も言えなかった。
「痛くねえんだろ。怖くねえんだろ。俺が一瞬ビビって止まったところを、お前は涼しい顔で越えていく」
篠田の顔が歪む。
「俺だって強くなりてえよ。怖がらずに動けるなら、そりゃ欲しいに決まってる」
そこで、篠田は小森を見た。
涙を流している小森を。
そして、俺を見た。
「でも、それで小森の泣き顔をただの情報みたいに見るなら、それは強さじゃねえだろ」
「じゃあ、何だ」
「欠けてんだよ」
篠田は低く言った。
「お前が、欠けてんだよ」
その言葉は、胸を刺した。
不思議だった。
胸は痛まないはずなのに。
共感は遠いはずなのに。
それでも、その言葉だけは、どこか深い場所に沈んだ。
強くなっているんじゃない。
欠けている。
その名前を、篠田がつけた。
リングが冷たく脈打つ。
共感反応低減、進行
他者苦痛への身体反応、低下
情緒的補助行動、失敗
いい
いいね
正論で孤立してる
篠田個体、嫉妬反応
拒絶反応
言語刺激、対象個体へ到達
関係性摩耗、良好
「お前ら」
俺は小さく言った。
篠田が眉を寄せる。
「またそれか」
「違う」
「違わねえよ! 今はそっちじゃなくて小森を見ろ!」
小森。
俺は彼女を見た。
涙が落ちている。
水分。
そう思った瞬間、背筋が冷たくなった。
今、俺は。
小森の涙を、水分だと思った。
それは涙だ。
恐怖で、罪悪感で、傷ついた心から出たものだ。
そう知っている。
なのに、最初に浮かんだ言葉が、水分だった。
「……違う」
俺は自分に言った。
「違う、違う、そうじゃない」
小森が泣いている。
泣いているのは、水分が出ているからではない。
彼女が怖かったからだ。
俺が傷つけたからだ。
また自分のせいだと思っているからだ。
俺はそれを分かれ。
分かれ。
分かれ。
胸の奥を掴むように意識する。
何かを無理やり引きずり戻そうとする。
だが、そこは冷たかった。
空洞に指を突っ込んでいるようだった。
欠落認識、発生
言語化ノイズ、残存
まだ抵抗する
いい
苦しんでる
共感が薄いことを悲しんでる
反応が濃い
俺は奥歯を噛んだ。
観客は、これすら味わっている。
俺が小森を傷つけたこと。
傷つけたと分かっているのに、胸が痛まないこと。
その異常を怖がっていること。
全部、あいつらの味だ。
「小森」
俺は篠田の手をゆっくり外した。
篠田はまだ睨んでいる。
「近づくなよ」
「近づかない」
俺はその場に膝をついた。
小森とは少し距離を空ける。
怖がらせないように。
それすら、頭で計算している自分が嫌だった。
「さっきの言い方は、悪かった」
小森は涙で濡れた顔を上げた。
「俺は、君を邪魔だと言いたかったわけじゃない」
言葉を選ぶ。
人間向けの顔。
人間向けの声。
人間向けの言葉。
それが作業みたいになっている。
でも、それでも。
「怖かったんだろ」
俺は言った。
「また、自分のせいで誰かが怪我をしたと思ったんだろ」
小森の目が揺れた。
「……うん」
その声を聞いても、胸は痛まない。
でも、俺は続けた。
「俺は今、それをうまく感じられてない」
篠田が息を呑んだ。
小森も、涙を止めたまま俺を見る。
「感じられてない?」
「ああ」
言うのは怖かった。
怖さも薄いのに、怖かった。
「君が泣いてる理由は分かる。傷ついたことも分かる。俺が傷つけたことも分かる」
俺は左手首のリングを見た。
「でも、胸が痛まない。前なら痛んだはずの場所が、遠い」
小森の顔が青くなる。
「それって」
「奪われてる」
俺は言った。
「今度は、そこを削られてる」
篠田が低く呟いた。
「ふざけんなよ……」
その声には、俺ではなく、見えない何かへの怒りが混じっていた。
小森は涙を拭った。
「じゃあ、さっきの言葉は」
「俺が言った」
そこは誤魔化さない。
「奪われているからって、なかったことにはならない。俺が君を傷つけた」
小森の唇が震える。
「黒瀬くんは、それを謝りたいの?」
分からない。
謝りたい。
そのはずだ。
だが、謝りたいという感情が遠い。
それでも。
俺は言った。
「謝るべきだと思ってる」
篠田が顔をしかめた。
「お前、それも最悪だぞ」
「ああ」
「でも」
篠田は舌打ちした。
「今のお前には、それが限界なんだろ」
小森はしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……うん。分かった」
許されたわけではない。
仲直りしたわけでもない。
ただ、少しだけ、今の俺がどこに立っているのかを共有した。
それだけだった。
それだけなのに、左手首のリングがひどく冷えた。
情報共有、発生
孤立誘導、一部失敗
篠田個体、怒り対象を外部へ変更
小森個体、理解傾向
面倒
支援個体、やはり処理候補
「見るな」
俺は低く言った。
「こいつらを見るな」
端末は沈黙した。
個別の視線も、どこかでじっとこちらを見ている気がした。
笑わずに。
理解しようとするように。
◇
訓練後、医務室で簡単な検査を受けた。
小森に大きな怪我はなかった。
俺の右腕は、また少し悪化したらしい。
痛みがないから分からない。
篠田は廊下で待っていた。
「お前、ほんと面倒くせえな」
「返す言葉もない」
「いや、返せよ。黙られると余計に気持ち悪い」
「気持ち悪いって言いすぎだろ」
「事実だ」
少しだけ、いつもの篠田だった。
俺は壁にもたれた。
共感はまだ遠い。
でも、篠田がそこにいることは分かる。
小森が泣いたことも分かる。
俺が傷つけたことも分かる。
篠田が俺に「欠けている」と言ったことも、残っている。
痛まなくても、残っている。
なら、まだやれる。
たとえ胸が痛まなくても、傷つけた事実を覚えていればいい。
観客が奪えるのは、反応だ。
事実をどう呼ぶかまでは、まだ俺のものだ。
「さっき」
篠田が口を開いた。
「何だ」
「小森にちゃんと言ったのは、まあ」
彼は言いにくそうに頭をかいた。
「気持ち悪いなりに、マシだった」
「褒めてるのか」
「褒めてねえ」
即答だった。
それから、篠田は少しだけ声を落とした。
「さっき言ったこと、取り消さねえからな」
「欠けてるってやつか」
「ああ」
篠田は俺を見た。
「お前は強くなってるんじゃない。中身がこぼれ落ちて、軽くなったから速く動けてるだけだ」
その顔には、同情よりも不快感があった。
見ていられないものを見る顔だった。
「スカスカなんだよ、今の黒瀬律は」
胸は痛まない。
だが、その言葉は残った。
残ってしまった。
「……覚えておく」
俺がそう言うと、篠田は顔をしかめた。
「覚えるだけじゃなくて、戻ってこいよ」
「どこに」
「こっち側に決まってんだろ」
篠田は舌打ちした。
「いちいち言わせんな。気持ち悪い」
そのくらいがちょうどいい。
◇
食堂に行くと、おばちゃんが俺たちを見て言った。
「今日は二人?」
いつの間にか篠田が隣にいた。
「俺は付き添いじゃねえからな」
「誰も聞いてない」
「うるせえ」
おばちゃんは笑って、カレーを二皿出した。
「若いんだから食べなさい。腹が減ってると、余計なこと考えるから」
篠田がぼそっと言った。
「腹いっぱいでもこいつは余計なこと考えてますけど」
「じゃあ、なおさら食べなさい」
おばちゃんは太いスプーンを俺の皿に添えた。
今日も。
左手で持ちやすいように。
俺はそれを見た。
嬉しい。
そう思った。
いや。
嬉しい、はずだった。
この温かさは、たぶん喜びと呼ばれるものだ。
おばちゃんが俺の手を見て、持ちやすいスプーンを出してくれた。
その事実は、間違いなく温かい。
なのに、その温度が胸の奥に溜まらない。
薄い器に水を注いだみたいに、どこかから零れていく。
それでも、零れる前に少しだけ残ったものを、俺は必死に掴んだ。
「ありがとうございます」
俺は言った。
おばちゃんは当然のように頷く。
「ちゃんと食べなさい」
カレーを口に運ぶ。
熱は遠い。
肉の歯ごたえも薄い。
辛さの痛みもない。
玉ねぎの甘さもない。
それでも。
これは飯だ。
誰かが作り、誰かが出してくれた飯だ。
視界の端にログが流れる。
共感反応低減中
食堂個体への感謝反応、微弱に残存
支援行動が補助線になっている
食事行為、やはり抵抗核
削るならここ
でも急ぐとまた暴れる
慎重に
別の静かなログが重なる。
≪他者への感謝は、味覚喪失後も残るのか。≫
また、あいつだ。
俺はカレーを飲み込んだ。
答えない。
教えない。
これは俺の味だ。
お前に渡すものじゃない。
◇
夜、部屋で端末が点いた。
第五イベント:共感反応低減テスト
結果:部分成功
他者苦痛への身体反応:低下
情緒的応答:遅延
関係性摩耗:発生
孤立誘導:一部失敗
一部失敗。
その文字だけで、少し息がしやすくなった。
完全には削れなかった。
いや、削られた。
小森を傷つけた。
篠田を怒らせた。
自分がどれだけ遠くなっているか思い知らされた。
それでも、完全には切れなかった。
小森は逃げなかった。
篠田は怒った。
おばちゃんのスプーンは、零れ落ちながらも少しだけ温かかった。
それらは、まだ残っている。
代価取得完了
他者苦痛への即時共感、一部回収
情緒的反射、一部回収
所有権移転済み
返却不可
「返せ」
声は静かだった。
怒りはある。
ただ、前より冷たい。
返却不可
取得済み代価は観客側資産です
俺は画面を睨む。
「なら、覚えておく」
ログが止まる。
「俺は今日、小森を傷つけた」
胸は痛まない。
でも言う。
「泣いても無駄だと言った。最低な言い方をした。あれは俺の失敗だ」
さらに言う。
「篠田に、欠けてると言われた」
その言葉だけは、まだ残っている。
「お前らに共感を削られた。だが、傷つけた事実の名前は俺が決める。欠けたことの名前も、俺が決める」
黒い画面にノイズが走った。
言語化ノイズ、残存
欠損認識、継続
外部個体による命名干渉、残存
不快
不快
不快
「不快で結構」
俺は端末を伏せた。
「俺もお前らが不快だ」
左手首のリングが、冷たく脈打つ。
その奥で、個別の視線がまだこちらを見ている気がした。
やがて、一行だけ浮かんだ。
≪君は、痛まない傷にも名前をつけるのか。≫
その問いは、答えを求めているようには見えなかった。
俺が何を支えにして立っているのか。
どの言葉に爪を立てて、かろうじて自分を保っているのか。
それを見つけた上で、指先でなぞっている。
まるで、ひびの入った骨を見つけて、次はどこを押せば折れるのか確かめているみたいだった。
俺は暗い画面を見下ろした。
答えない。
答えてやらない。
それでも、心の中では言った。
つける。
名前をつける。
奪われたものを、適応なんて呼ばせない。
痛まなくても、これは傷だ。
強くなったように見えても、これは欠損だ。
俺がそう呼ぶ限り。
これは、まだ俺のものだ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は「共感反応低減テスト」。
律は小森の涙を前にしても胸が痛まなくなり、正しいだけの言葉で彼女を傷つけてしまいました。
また、篠田は律の変化を「強さ」ではなく「欠損」として突きつけました。
篠田自身も探索者として強さを欲しているからこそ、律の便利すぎる強さに嫉妬し、同時に吐き気を覚えています。
観客が奪えるのは反応であって、律がそれをどう呼ぶかまでは、まだ奪いきれていません。
次回は、食堂のおばちゃんと「味がなくても飯を食う意味」の回です。




