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シェルは数え切れないほどの条例と暗黙のルールを、まるでお経を読み上げるかのようにツラツラと話している。
抑揚のない声が、室内に反響しては消える。その内容が理解できるかどうかは、最初から問題ではないようだった。
「さて、これから本当に史官について語らせてもらちます」
「何回目ですか、それ…」
ラッキーは椅子に深く腰掛け、腕を組んだ。長時間同じ姿勢でいたせいか、肩が少し痛む。外では風が吹き、どこかで金属が擦れるような音がした。
「最上史官という人々がいます。灯台の影のアンビシオン、協会の元帥、そしてオピタルの国王セレス。この三人です」
「聞いたことある人もちらほら…オピタルは確か西側の独立国家でしたよね」
シェルは頷き、机に置かれた資料を一枚だけ指で叩いた。その仕草に、無駄がない。
「よくご存知で。最上史官とは提携を結んでいる三人の史官。言いたいことが分かりますか?」
「追加された情報を、三人で消しにくる…」
ランプの火が一瞬揺れ、影が歪む。
ラッキーの背筋に、ぞくりとした感覚が走った。
「ええ、史官同士が手を組むのは危険ですが、組織の長であるからこそ、背負っているものが大きい分迂闊に裏切りや暗殺を企てようとも思わないのですよ」
「なるほど」
理解した、というよりは納得せざるを得なかった。
ここで語られているのは理想論ではない。長い年月で削り出された、生存の理屈だ。
「まぁ、史官になるということはこの最上史官の誰か一人に好かれる。これが一番大切なことです」
「何故です?」
「答えは単純で、後ろ盾がないと呆気なく殺されます」
「こわっ」
冗談めいた言葉とは裏腹に、空気は重く沈んだままだった。
史官という肩書きは、知識の象徴ではない。
生き残るための立場であり、同時に、いつ切り捨てられてもおかしくない危険物でもある。
ラッキーは、ようやくその事実を実感し始めていた。
その夜、頭の中を整理しきれないまま、ラッキーは布団に潜り込んだ。
古い布団は少し埃っぽい匂いがしたが、不思議と落ち着く。天井を見つめながら、シェルの言葉を反芻する。
「後ろ盾がないと、呆気なく殺される」
考えるほどに、意識が遠のいていく。
やがて呼吸は規則正しくなり、ランプの灯も消され、部屋は完全な闇に包まれた。
しばらくして、静かに扉が軋む。
忍び足で部屋に入ってきたのは、シロエだった。
眠っているラッキーを一瞥し、音を立てないよう注意深く本棚へ向かう。
彼女は一冊の本を取り出した。
表紙には、結界魔法に関する古い紋様が刻まれている。
ページをめくる音すら、夜に溶けるほど小さい。
シロエの表情は真剣そのもので、子供の好奇心とは明らかに違っていた。
しばらく読んだ後、彼女は名残惜しそうに本を閉じる。
元あった位置に、寸分違わず戻すと、そっと背表紙を撫でた。
何事もなかったかのように、足音を殺して部屋を出ていく。
その頃ラッキーは、何も知らず、深い眠りの底に沈んでいた。
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「あ、やべ」
いつもならシロエが起こしてくれるが、何故だか今日はいつもの時間に来なかった。おかげで寝坊した。
本人は「忘れていました」と言っていた。
シロエにも人間臭いところがあって、正直嬉しかった。こっぴどくシェルに叱られていたが。
「悪いのは…起きれないラッキーでしょ…」
布団から顔を出しながら、コンロは寝ぼけ顔で言う。
どの口が言ってんだよ、と思い「だまらっしゃい」と反論する。いや、これは反論にはなっていない。
「今日は簡単に味噌汁とご飯、目玉焼きだけでいいですか?」
「いいですよ、いつもありがとうございますラッキーさん」
朝食の準備、という名目だが、頭の中は訓練のことばかりだ。
白身はまだ完全には固まっていない。縁だけがぱちぱちと油を弾き、中央はわずかに揺れている。
黄身は真ん中で、妙に主張が強い。
(今だと、崩れるな)
フライパンを振る。
いつもより、ほんの少しだけ力を抜いた。
その瞬間だった。
卵が宙に浮いたその一瞬。
落ちるまでの短い時間、世界が細く伸びたように感じた。
これは線だ。
点で捉えようとするから、ブレる。
始点と終点を決めるから、途中が歪む。線がブレる。
ラッキーの意識は、フライパンから天井へ、まっすぐ一本の線を引く。
空間を押さえつけるのではなく、滑らせる。
卵の重さも、回転も、その線の上に乗せる。
目玉焼きは、裏返った。
黄身は割れず、白身は崩れず、音も立てずに調理が終わる。
ラッキーはしばらく動かなかった。
フライパンを握ったまま、油の弾く音だけが耳に残る。
「なるほど」
空間指定は、力の制御じゃない。
視線の置き方でも、集中力でもない。
迷わないことだ。
線を引いたら、途中で疑わない。
ラッキーは、静かに息を吐いた。
フライパンの上で、完璧に裏返った目玉焼きが、じゅっと音を立てていた。
その日、ラッキーは空間指定をマスターした。




