第4章(後編)
ある夜、私は目を覚ました。そこに女が立っていた。
「Bonsoir」
「誰だ、お前は?」
彼女は血のように赤いトレンチコートと口紅をまとっていた。
「Je m’appelle Désirée——デジレと申します」
私はマットレスの上に身を起こした。拘束衣を着たままだったので一苦労だった。
デジレと名乗る女は独房を見回し、鼻を鳴らした。
「……魅力的ね」
「まだ自分の糞で壁を塗ってないだけマシだろ」
片眉を上げた。
「その予定でもあるの?」
彼女の声には暗い戯けが混じっていた。私は嫌悪を覚えた。
「一体何が目的だ」
デジレは微笑み、人差し指をくいっと曲げた。
「さあ、モンシェリ。そろそろ話をしましょう」
なぜこの女に心を開いたのか分からない。だが私は、ここに至るまでの全てを語った。
彼女は真剣に耳を傾け、ときおり質問を挟みながら、ウィーラー医師の机の椅子に腰掛けた。
月明かりを浴びて炎のような長い髪が乱れ、白い肌が妖しく光っていた。唇には冷酷な笑みのカール。美しくも醜悪な存在になるであろう予感が背筋を走った。
語り終えると、デジレは首を振り、大きな溜め息をついた。
「哀れなモンシェリ。悲劇の物語ね」
「物語じゃない!」反論しかけた瞬間、肩に激痛が走った。
「くそっ!」
デジレが床に投げ出された拘束衣を指し示した。
「その方が楽じゃない?」
私は睨み返した。
彼女は肩をすくめた。
「そんなに睨まなくても。人はね、拘束を好むものよ。安心を覚えるの。赤ん坊がおくるみに包まれるように」
「ふざけるな。お前は何者だ?ウィーラーの代わりか?」
「さあ、それはあなた次第。きっと私の助言は気に入ると思うけれど」
彼女のトレンチコートは膝で終わり、机の下からすらりとした脚が赤いハイヒールに伸びていた。
「継母のことを話しましょう」
デジレが言った。
「本当に、彼女がそこまで陰謀を企んでいると思うの?」
「思うさ。あの女はクソ女だ」
「でも、魅力的なクソ女じゃない?N’est-ce pas?」
「……何だと?」
「魅力的。つまり性的に、という意味よ」
「どういう質問だよ!」(下着泥棒や風呂覗きの濡れ衣の件は伏せていたが。)
デジレは舌打ちした。
「正直になさい、モンシェリ。自然なことよ。私に対しても同じように」
「は?」
「ええ、私の裸を見たいんでしょう?」
「何だって!」
「だってずっと脚を見つめているじゃない」
「そ、そんなつもりじゃ……いや、まあ確かに見てたけど……」
彼女は笑った。遊ばれていると悟り、私は歯を食いしばった。
「Eh bien、さて。もしあなたが外に出られるとしたら?自由になったら、どうする?」
「外に出してくれるのか?」
デジレは肩をすくめた。
「それは約束次第」
「まずはあの継母に会いに行く」
衝動的に答えてしまったが、デジレは皮肉な笑みを浮かべた。子供が初めて酒を欲しがった時に大人が向けるような笑みだった。
「ウィーラー医師の机の隅にあるクローゼット。中には何があると思う?」
デジレが指を差した。
「は?」
「クローゼットよ。何が入っていると思う?」
「関係ないだろ、そんなこと!」
苛立ちながら取っ手を引いた瞬間、私は二つのことに気付いた。
——ひとつ。中にはニュートンのゆりかごがあった。
——ふたつ。誰かがそれでウィーラー医師の頭を血だらけになるまで殴打していた。
「うわっ!」
私は尻もちをつき、床を這うように後ずさった。机に背をぶつけ、体が痙攣した。まるで発作のように瞼がひくつき、呼吸が荒く乱れる。
「神よ!」
「Non、モンシェリ」
デジレは首を傾げて微笑んだ。
「ただの“お医者様”よ」
全身の力を振り絞り、私は彼女を睨み上げた。
「お前が……やったのか……」
その瞬間、再び肩に激痛が走り、断片的な記憶の閃光が脳裏を駆け抜けた。私はごみ箱を掴み、胃の中身をぶちまけた。
「そう、それでいいわ、モンシェリ。全部出しなさい」
嘔吐し、嗚咽し、ようやく息を切らしながら再びデジレを見上げた。
彼女は微笑み、私の頬を両手で包み込んだ。その瞳は黄色く光っていた。——最初から黄色だったのか?それとも今だけか?
考える間もなく、彼女の唇が私に押し付けられた。赤い口紅が粘つき、やがて小さな舌が口内に侵入してきた。湿った蜥蜴の尾のように蠢いた。
ようやく解放された時、私は死体と並んで床に崩れ落ち、まともな思考を失っていた。
デジレは唇を舐め、満足げに嚥下した。空のクリーム皿を前にした猫のような顔だった。
その時、机の電話が鳴り響いた。彼女はすぐに受話器を取り上げ、陽気に歌うように答えた。
「Allô? Bureau de fou(ビューロ・ド・フー、精神病院よ)」
受話器の向こうで誰かが怒鳴っていたが、デジレは笑いながら私に意味ありげな視線を投げた。
「ええ、今すぐ来るですって?まあ、急なお話ね」
通話が切れると、彼女は赤いハイヒールをコツンと鳴らし、私を跨いでドアへ向かった。
「さあ、モンシェリ。独房に戻りましょう」
「お前とは行かない!」
私は嘔吐物の入ったゴミ箱を抱え込み、叫んだ。
「なら、医者と一緒にここにいなさい。ボン・シャンス!」
赤い笑みを残してドアが閉まった。ヒールの音が廊下に遠ざかっていく。彼女の笑い声がいつしかけたたましい警報音に変わった。
——五秒も経たないうちに、扉が弾け飛び、四人の武装看守が警棒を構えて突入してきた。




