6話.宵闇の一輪華
2025/08/23 セリフ・描写を一部変更追加しました。
かつて、天狐の一族として遊牧生活をしていた宵華は、とある人族の青年と出会った。彼は穏やかながらも退屈な天狐の暮らしに刺激をもたらし、やがて彼女の生活の中心は一族ではなく、青年との恋仲に移っていった。
他種族との恋愛。それは一族の掟で禁じられる行為であったが、宵華にとっては古臭い慣習よりも、目の前の甘く刺激的な日常の方がよほど魅力的であった。悪いことをしているという罪悪感を抱く一方で、そこに背徳感も覚えた彼女は、一族に隠れて青年と逢瀬する日々を送った。
しかし少数のグループに分かれて遊牧をする天狐一族に、いつまでも関係性を隠し通すことはできない。やがて、青年と二人で過ごす場面を、一族の仲間に見つかってしまった。仲間に抗議と説得を繰り返す宵華の努力もむなしく、彼女は一族を追放される事となった。
宵華と青年、2人を同年代の仲間が一族の巡回ルートから遠く離れた地へと送り届けた。どうやら彼女は宵華の「契約姉妹」という者らしいが、宵華にはどうでもよかった。唐突に生まれた妹とやらの説明も聞き流し、彼女は青年と2人、天狐の地を去った。
やがて2人は小さな祠にたどり着いた。「継寂乃祠」。現代の継寂乃杜神社の前身となる祠である。幸いにも、祠の付近に人の住める小屋を見つけた宵華は、一族を追われた悲しみや怒りも忘れ、青年と慎ましやかながらも幸福な日々を送った。
2人きりの日々は確かに、宵華にとっては幸せであったが、それも永くは続かなかった。青年はいつしか壮年期を過ぎ、老いさらばえ、病床に臥すこととなったのである。
当時の人族としては信じられないほどの長生きであったが、それでも宵華の寿命からすればあまりにも短かった。愛する者と共に老いる事も許されず、途方に暮れる宵華の前で、かつての青年は息を引き取った。
青年の形見を手に、絶望を耐え続けること数年。気づけば祠付近を往来する人は増えており、中にはヒトとは別の種族であるにもかかわらず、かつての青年のように宵華と接してくれる人もいた。
自分はまだ愛されてもいいのだ。愛してもいいのだ。そう宵華は喜びを嚙み締めた。
そんな宵華の脳裏に、一抹の不安が過った。私は今度こそ、彼らと共に天寿を全うできるのか?一縷の望みは、数十年もすれば容易に打ち砕かれた。人々は各々の形見を残して逝ってしまった。宵華への謝罪を遺して、一人残らず。
再び孤独に陥った宵華。繰り返しその身を襲う絶望に、それでもと希望を捨てきれずに苦しむ宵華をよそに、祠はやがて有志により神社の様相を呈するようになった。「継寂乃杜」と銘を変えた祠あらためその神社の守り神として、いつの間にか宵華は崇められていた。
守り神としての役割は、宵華にとっては新鮮なものではあったが、それは必ずしも彼女の傷を癒すことはなかった。
訪れる人は増え、彼らは一様に宵華に感謝を述べた。その一方で、彼女と対等に接してくれる者はいなくなっていた。
感謝してくれるだけならまだ良かった。中には私欲のために宵華に近づく者もいた。宵華が直接的な利益をもたらしてくれると勘違いしたのだろうか、それが叶わない事を知ると彼らは、あろうことか宵華に思い思いの罵詈雑言を吐いて去っていくのであった。
なんという酷い仕打ちをする者がいるのか。宵華は悲しみの中、憤慨をも覚えた。
そうして幾度も訪れる出会いと別れ、自分に歩み寄ろうとしてくれない者たち、利己的な連中。
それらへの失望感が積み重なった結果、追放から百年程度のうちに、宵華の日常はひどく無味乾燥で、つまらないものとなり果てていた。
それに伴って彼女自身の心も徐々に風化していった。感情の起伏は乏しく、口数は減り、どこか浮世離れした彼女は、皮肉にも神社の巫女として、守り神として、さらに重宝された。役割を果たしつつも、その後も気の遠くなるような時間の中、死んだように生きる日々を繰り返していった。
地獄のような日常からさらに数百年。ある日神社の入口に捨て子があったと、当代神主である天野泰然が引き取り育てている事が、風の噂で耳に入ってきた。
どうせ何も変わらない。これまでと同じように生きて、同じように死んでゆくだけだ。宵華は思っていた。その予想にたがわず、彼は宵華の纏う空気を怖がり、やはり遠巻きに眺めるのみであった。
転機が訪れたのは、その数日後の事であった。宵華がこの永い刻を耐えられたのには、彼女にもささやかな楽しみがあったからである。それは、神社を取り囲む山々に自生する山菜や茸、花々といった、数々の山の幸であった。
それらは毎年同じ時期に、同じ表情を見せた。その彩りは、感触は、味覚は、大自然を生きるものの一員として、宵華を静かに受け入れてくれた。
同じ刻を繰り返す仲間として、しかし生きとし生けるもの全てに対等に接するそれらは、唯一宵華の心を癒してくれた。見てくればかり豪華で味気のない神社の供物に比べて、素朴ながらもいつもわずかに異なる味を、宵華に提供してくれた。時折毒に中ることもあったが、彼女はむしろ、それさえも楽しんだ。
そうして山の恵みに夢中になっている宵華を、樹希と名づけられた捨て子がじっと見つめている事に気づいた。その顔には、初めて対面した時に見た恐怖の感情はなく、好奇心に輝いていた。
そんな表情を、宵華はどれだけの期間、見ていなかっただろうか?向けられなかっただろうか?不思議と脳裏に引っかかる彼は明くる日、どういうわけか宵華に震える声で話しかけた。自分も一緒に山へ連れて行ってほしいのだという。
風化した感情が息を吹き返したのか、それとも単なる気まぐれか…自分にも分からないまま、宵華は樹希の手を引いて、山へと繰り出した。
幼い彼のお守りは、想像以上に宵華の手を焼いた。
この小さな生き物は危険というものを知らない!宵華の見よう見まねで手当たり次第に口に放り込もうとする。毒となる危険な物もあるというのに。何度も叱り、注意をし、それでもこの樹希という子供は諦めず、むしろ驚くほどの学習力を見せた。
宵華の視線の先や動きをよくよく観察し、貪欲に彼女の知識を吸収しようとした。その感覚は、400余年を生きる宵華にとって、まったく経験のない刺激であった。
その日から樹希は毎日のように宵華の元を訪れ、彼女に数多の面倒とわずかな希望をもたらした。それは、既に朽ちたと思っていた宵華の感情を、徐々に生き生きとさせていった。
夜の酒が美味くなった。足取りが軽くなった。彼の訪問を待つようになった。いっそ、自分の方から出向いてみようかという気さえ起きた。かつての友が遺した思い出を眺めては、涙を流すようになった。急速に成長する樹希に、かつて愛した男性を重ね、言いようのない不安と恐怖を覚える事もあった。親しくもない昔なじみの名前に心躍らせ、その訃報に心を乱した。
過去に置き去りにしたと思っていた宵華の感情を、樹希という存在がどういうわけか蘇らせてくれた。
そうして宵華は今、この400年間閉ざし続けた自分の弱音を、初めて他人に吐き出そうとしている。
目の前の彼は、今度こそ、自分の孤独を癒してくれるだろうか?この温もりを、信じても良いのだろうか?
「樹希ぃ…」
これ以上求めてはいけない。言葉を発してはいけない。それをしてしまったら、私はまた壊れてしまう。
「私、もう寂しいの、いやだ……」
しかし抑えが利かなかった。未だ来もしない絶望を憂うよりも、今は、今だけは、過去の痛みなど忘れてしまいたかった。
「もう、離さないで…」
胸の奥に閉ざしていた本音が、口をついた。金色の瞳から流れ出る大粒の雫は顎まで伝い、宵華の孤独をそっと溶かした。