53話.夢
家出、というほどでもないが、宵華の独り歩きから1週間ほどが経ち、樹希との気まずい雰囲気も徐々に霧散していった。
樹希は気にかけこそすれ、真相を聞いてくることはしなかった。というよりも、宵華が毎日のように酒盛りに付き合わせるせいで、落ち着いて話す暇もなく酔いつぶれてしまうだけなのだが。
「いい加減にしなさい」
「ごめんなさい…」
何日も続く酒宴による業務への影響を危惧した樹希に、今夜はとうとう途中で酒瓶を取り上げられてしまった。理由が理由なだけに、強く言い返すことのできない宵華はしゅんとなってしまう。
「…まあ、宵華が立ち直れたのは事実だから。それは嬉しいよ」
半ばむりやりに水を飲ませながら、それでも樹希は安堵の顔を見せた。気付かぬうちに相当心配させてしまったらしい。
「樹希」
「ん?」
「ごめんなさい。心配をかけてしまって」
「うん」
「…」
宵華の瞳をじっと見つめる樹希はそれ以上何も言ってこない。大事な場面であるほど、樹希は自分から踏み込んでくる事をしない。時には辟易もするが、これは彼の優しさだと宵華は受け止めている。
「昨夜、倉庫に行ったの」
「倉庫って…ああ、宵華の物が沢山あるあそこか」
「泰然の事が頭から離れなくて。いつもみたいに落ち着こうと思ったのだけど」
合点がいったといった風な樹希を眺める。ひと息ついたあと、ため息混じりに言葉を続けた。
「あの子達は力になってくれなかった。しばらく構ってなかったのに困った時だけ助けてくれだなんて、虫のいい話だったのかもしれないわね」
自嘲気味に笑うと、樹希はわずかに顔を歪めた。
「あの子達の顔や言葉を思い出せないのがものすごく怖くなったの。私の中から消えていく事と、それから私が今いる皆の記憶から消える事も。一度そう思うと、もう気持ちが抑えられなくて」
宵華は昨晩、樹希を襲おうとした事を思い返し、俯いた。樹希は隣に座り、慰めるように肩へ手を回した。
「樹希?」
「心の拠り所が危ういっていうのは確かに怖いよな。なんとなく分かるよ」
口元に笑みをたたえながら、樹希が宵華の頭を撫でてきた。耳に手が当たってくすぐったい。
「俺たちは別れも忘れるのもしょっちゅうだから、感覚がだいぶ違うんだろうな」
「それは…そうだと思う。私達は基本的にそういうものとは無縁だから」
寿命も、それに伴う死生観も大きく異なるのは事実だ。
「でも人間と関わって生きる以上、避けては通れない事も分かってるの。それはここに居着いた時から覚悟してた…つもりだったんだけど」
「気持ちと現実は中々上手く噛み合わないよな」
樹希のせいなどと言うつもりは毛頭ない。再び人を愛した自分への枷だと言えようか。願わくは、この枷がいつの日かあの夢のような優しいものとならん事だ。
そう思ってみると、少し心が軽い。
「悩んでる割には、吹っ切れたような顔だな?」
「え?」
樹希に指摘され、自分の顔に触れる。口が少しにやけていたようだ。
「…夢を見たからかしら」
「夢?」
「そう。皆に囲まれながら床に就く夢。とても温かかった。現実の私にもいつの日かそんな最期が来てくれたらいいなって」
それは、天狐として生きていては決して思い至る事のなかった希望だと思う。随分と時間がかかったものだが、ようやく自分も短命の種族に馴染んできたのだろうか。寂しく優しい気持ちを思い出し、宵華は顔を綻ばせた。
「いい夢を見たんだな」
「…うん」
「でもごめんなさい。昨夜は本当に驚かせてしまって」
「え?ああ、全然大丈夫。少し驚いたけど」
話が一段落ついたと思うと同時に、急に夜這いをかけた事を思い出してしまった。顔を赤らめながら謝ると、樹希の方も同じように赤い顔で許してくれた。
焦燥と妙な使命感に駆られたなどと、恥ずかしい事情をどう説明しようかと迷っていると、樹希が先に口を開いた。
「今はまだ早いかもしれないけどさ、俺は宵華との子供は欲しいと思ってる」
若干上ずった声で話す樹希が大変に可愛らしく思え、宵華は思わず笑ってしまった。きょとんとした数瞬後、樹希もつられて笑う。
肝心な所でアガってしまうのは性格なのだろう。ささくれていた頃、小さな樹希が同じように緊張した声で宵華に話しかけてきた事を思い出した。それは風化など一切していない、鮮明な記憶だ。
「ええ。私も」
短く言葉を切り、宵華は樹希に口づけをしようと樹希に顔を近付ける。彼も目を閉じ、顔を近付けてきた。銀鈴の音と共に、コツンと歯のぶつかる音と衝撃がした。
どちらが放った声からだったか、その音から間を置いて、小酒館には小さな笑い声が響いた。




