45話.所詮は思い出
田中さんの息子夫婦のもとに到着したのは正午を少し過ぎた程度で、思ったよりも早く着いた。藍暁が車通りの少ない道を選んでくれた事が大きいのだろう。元々午前中に予定していた為もあるが、先方も早く始められる分には何の問題もないそうだ。
「早速だけど、準備を済ませてしまおうか」
綺麗に均された土地を眼前に、黙々と設営作業がこなされていく。宵華も手伝うつもりだったのだが、よほどひどい顔をしていたのだろうか、皆から妙に気遣われてしまった。お陰で、施工まで何もする事がない。
(動いてたら、少しは気が晴れると思ったのに…)
正直なところ、宵華にとって余計なお世話であった。普段なら何とも思わない気遣いが、今は恨めしい。
手持ち無沙汰なので周囲をぶらついていると、土地から数十メートルほど離れた所、大きな車道へ繋がる方向とは反対側にあたる部分から細い小道が伸びていた。あまり整備のされていないその道だが、路傍の一部分だけは綺麗に整えられており、中心には小さな祠がポツリと建っていた。
「………」
小道にひっそりと建っている様子。すぐそばに建設予定の住居。人通りこそ雲泥の差ではあろうが、あまりにも似通ったこの環境は、否応にも今の宵華に過去の事を想起させた。
今やその顔すらも思い出す事のできない、遥か久遠の彼方に眠る初恋の相手。その人と共に暮らした粗末な家の記憶が共に宵華の心を強く揺さぶった。
(…あの人は、もう存在していない。過去に消えた人)
言い聞かせはするものの、その記憶はぬるま湯のように、今の宵華を包んでくれる。誰よりも宵華を温かく迎え入れ、一時の心の平穏をもたらしてくれた気がした。
「宵華、お待たせ。こっちの準備は整ったよ」
祠の前にぼんやりと立っている宵華を、樹希が呼びに来た。その視線が、宵華が見ていた祠に注がれる。
「こんな所に祠が…」
「うん。きっとこの土地を護ってきたのね」
いつまでも感傷に浸っている訳にもいかない。樹希が来たのだから、私も支度をせねばならない。そう言い聞かせ、頭のモヤを振り払って儀式の場へと戻った。
地鎮祭は無事に終えられた。田中夫婦には親子共々感謝をされたが、宵華はそれに応対する余裕がなかった。代わりに樹希が対応する事になり、結局彼と話ができない状況となってしまった。
「へえ、てっきりお姉ちゃんの腰巾着だと思ってたけど。案外いい立場なのね」
藍暁が失礼な事を言いながら隣に立った。宵華には思慮深い彼女の事なので、わざとそのような物言いを選んだ事は分かっている。しかしそれに反応してやる気力もない。
「後悔してる?」
「してない」
「そっか」
「…でも辛い」
「そう」
宵華の身を案じてくれているが、藍暁とて所詮は天狐の者。親しい者の死と直面する機会など無に等しいだろう。
「里には帰らないよ。掟破りが戻る場所なんてないし、あそこに居ても息が詰まるだけ」
「ま、お姉ちゃんの事だからそう言うと思ってたけどね。あたしも半ば放浪の身だから人の事は言えないし。ただ、里の中には、お姉ちゃんや他の追放者の帰りを歓迎したい連中も少なくないからさ。それだけは覚えておいて」
そう言い残してそばを離れる妹に、宵華は返事をできなかった。
神社に帰ると、宵華は残っている撤収作業に目もくれず、倉庫へと向かった。樹希との関わりが濃くなってからはめっきり顔を出す事が無くなった、宵華の過去が敷き詰められた空間である。
あの祠は、宵華の心に一時的な安定をもたらしてくれた。退廃の香りに包まれる予感はしたものの、いつ訪れるとも分からぬ別れと孤独に怯えるよりは、何も考えずにこの身を委ねたかった。
既にいない者に思いを馳せるというのもおかしな話だが、過去の記憶はいつだって宵華を温かく迎え入れてくれる。事実、この陽の射さぬ場所もどれだけ宵華をこの世に繋ぎ止めてくれてきたことか。
「これは、お吉のくれた桐箱だったわね。こっちは辰郎の木彫り…」
手に取り、撫でれば、その頃の情景がありありと思い浮かぶ。優しい記憶に浸るように、宵華は次々と品物を手に取っては眺めていった。
「こんな私に、みんな良くしてくれたっけ」
宵華は安らぎに目を細め、彼らを優しく撫でてやる事を繰り返した。
そうして手に取った漆喰の置物を見た宵華は、首を傾げた。
「これは…これは、誰の贈り物だったかしら……」
見た感じ、そう古い物ではないはずの置物だ。どうしても思い出すことができない。情景も、渡してくれた人物の顔や性別すらも浮かんでこなかった。
「いさむ…いや、まこと…?男の子だったっけ…?」
ハッとして顔を上げ、眼前の棚を見回す。所狭しと並べられた品々は変わらない姿で、綺麗に整理されていた。しかし、それらはどこかよそよそしい表情を見せる。
「なんで…」
ゾワリと毛が逆立つ感覚を覚え、宵華は頭を抱えた。
「私…思い出…なんで……?」
そういえば、私は祠を見た時、何を思った?
『顔すらも思い出せない初恋の人』
あの人の顔はおろか、名前も出てこない事実を、ただ愕然と受け止めるしかできない。いつでも思い出せたはずなのに、いつの間にかあの人は自分の中にも存在しなくなってしまっていた。
「私の思い出が…」
この空間にあるのは、宵華を慰めてくれる思い出ではなく、古ぼけた置物。漂うは埃臭い木の匂いである事に、宵華は気付いてしまった。
「嫌…待って」
脳裏で思い浮かべる記憶は霞のようで、求めるほどに歪み霧散してしまう。
死ねば消えるだけ。その先など存在しない。病院で泰然に言い放った宵華の言葉は、自分自身に深く鋭く突き刺さった。
「みんな、私を置いていかないで…!」
悲痛な願いとともに虚空へと手を伸ばす宵華。その手を掴んでくれる人はおらず、悲鳴は冷たい薄闇に木霊した。




