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狐の巫女と捨て子の神主  作者: なんてん
5章.天狐として、人として

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43話.命の価値

「命に別状はないらしい。とりあえずは一安心だよ」

 床に臥せる泰然たいぜんを見て呆然と立ち尽くす宵華ゆうかの傍らで、樹希いつきが速やかに救急へ連絡をしてくれた。息子である彼も動揺が激しかったのだろう、しどろもどろの説明をしていた樹希だったが、医師の説明を受けて安堵はしたようだ。

 大事には至らない事を確信した樹希は「ちょっと田中さんに連絡を入れてくるよ」と院外へと出てしまい、病室の前には宵華ひとりが取り残された。今朝の浮かれた気持ちなどどこへいったのか、今は鉛が詰まったかのように重い気分が支配している。

 親しい者に訪れる死の予兆。務めて独りで生きてきた為に久しく考える事をしてこなかったそれが今、宵華の内からとめどなく湧き上がってくる。恐怖だった。自分ではないのに、死神が首に鎌をあてがっているようにさえ思えた。

 「命に別状はない」。その言葉を疑うつもりはないのだが、扉の先の光景を見る勇気が出ない。そうして足を踏み入れる事ができずに、宵華は扉の前で立ち尽くしていた。


「…宵華殿」

 数秒か数時間か、どれほどそうしていたのか分からない。病室内から聞こえてきた声で宵華はハッと我に返った。

「そこでおられても、他の方が気にされるでしょう。お入りなさい」

 小さく、しかし通る声で呼ぶ泰然の声に、恐る恐る扉をくぐった。ベッドの上で上体を起こしている彼が、宵華を見ていた。

「…泰然」

「いやはや、面目もございません。まさかご依頼の当日にこんな粗相をしてしまうとは」

「泰然」

「今は樹希が先方に連絡をとっているのでしょうから、宵華殿は彼と一緒に地鎮祭を執り行ってください。あれにも経験はありますし、私がここを抜け出すわけにもいきますまい」

「泰然」

 思わず声が大きくなってしまった。泰然は変わらず穏やかな表情でこちらを見ている。

「申し訳ございません。宵華殿には心配をかけまいと見せてこなかったのですが…やはり歳には勝てませんな。自分の身体だというのに、頃合いを合わせる事をしてくれない。おかげで貴女に要らぬ心配をかけてしまった」

「見せてこなかったって…」

「ええ。生まれつき心臓が良くないのですが、ここ数年はそれが悪さをしているようでして。この病院には何かとお世話になっておるのです」

 事もなげに言う泰然に、宵華はかける言葉が見つからなかった。怒り、心配、安堵、様々な気持ちが交錯して、うまく声を出せない。

「なに、宵華殿が心配するような事は当分起こりませんよ。体をいたわることを心がけて生活しておりますからな。それに今の耀あきらと樹希では、継寂つぐなきの宮司を任せるには心もとない。まだまだ向こうへ逝くわけにはまいりません」

「詭弁だわ。現にこうして倒れて、少し間違えば死ぬかもしれなかったじゃない」

 泰然を責めるのはお門違いだとは理解しているが、それでも宵華は不安を紛らわせる事に必死だった。人死になど大した事柄ではないが、親しい者となれば別だ。幾度もこの身を苛んできた忌まわしき感情の影を前に、そうでもしなければ、頭がおかしくなりそうだった。

「もしそうなれば、運命と受け入れましょう。神に仕える身として、その程度の覚悟はありますゆえ。…と、守り神の貴女に言うのもおかしな話ですがね」

 はっはっはと笑う泰然。彼なりに励まそうと冗談めかして言ってくれているのであろう事は伝わるが、宵華には全く笑えない話だった。

「…死んだら終わりじゃない。その先なんて存在しないわ。せっかくあなたに興味を持てたというのに、これじゃあ何の意味もない」

「宵華殿。それは違います。死というものは恐れるべきものではありません。もちろんこの身体は無くなりますがね。私の生きていたという記憶は神社や、息子たちや、そして神社とともに関わってくださった方々に刻まれるのです。その人の人生に何か変化が訪れていたならば、なおさら私と関わりを持ったという気持ちは強く残るでしょう。人間という括りだけでもそれだけの意味があるのです。それは宵華殿、貴女とて同じ事。初めてお会いした時を思えば、驚くほど感情豊かになったではありませんか」

「分からない…周りに影響があったって、自分がいなくなったらお仕舞いじゃない。こんな感情、取り戻さなければ良かった…」


 諭す泰然と裏腹に、宵華の気持ちは晴れなかった。元々、長命な天狐の一族に生まれた宵華には、死というものが身近ではない。少なくとも、同族の死というものは目の当たりにした事はなかったし、仲間内で話題に上がることもなかった。

 長老をはじめ年配の仲間は死に触れた事もあったようだが、彼らも死は行き止まりのようなものと考えていた。死ねば終わり。肉体は朽ち、土と同化して消滅する。その先には何も無い。初めて目の当たりにした死は愛する人のもので、あの時の衝撃と絶望感は言うに及ばない。

 窓からの陽は話すほどに明るく病室を照らすが、宵華の心は晴れる事はなさそうだった。

 重い空気に音を上げそうになっていると、病室の扉が開いた。依頼主との連絡が終わった樹希が戻ってきたのだった。

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