40話.スタートライン
「はしたない所を見せちゃったわね」
喫茶店を出ると、杏奈は恥ずかしそうに言った。化粧室でメイクを落とした彼女の顔立ちは、なるほど鏡で見る自分の顔とよく似ている。そんな感想を抱きながら、樹希は隣を歩いていた。
たった数時間。生まれて初めて対面してからの短い時間の間に、樹希と杏奈との間に流れていたぎこちない空気は驚くほど薄まっていた。樹希の人生二十数年間において感じる場面などはなかったが、血の繋がりというもののせいなのだろうか。ただ、そんなものは樹希にとってはどうでもよく、今後実母である杏奈とどのような関係を築いていくのかが重要だった。
「これから、樹希はどうする?」
杏奈がそう問いかけた。どうするのか。意図は同じだろう。樹希はわずかな逡巡ののち、答えた。
「俺は、これまでどおり、神社で暮らします。それは天野の家が良いとか、榊原の家が嫌とか、そういうのじゃなくて」
いつの間にか、このような贅沢な悩みを抱えられるようになった。自分は幸せ者だとか、かつての自分が見たらどう思うだろうかとか、およそ頭をよぎる事もないと思っていた様々な考えが、樹希の中に浮かんでは消えていく。
きっと目の前の人にも、継寂の神社で樹希の帰りを待つ人にも、言葉が無くとも伝わるのだろう。しかし、いやだからこそ、樹希は少しでも傷を付けまいと、必死に言葉を選んだ。
「どっちにどれだけ住んでたかなんていうのも関係なくて、どっちも俺の居場所なんだと思う。だから、その、両方の家に帰れたらいいなって思っていて」
訳のわからない事を言っている自覚はあるが、それでも母は穏やかな笑みを湛えて先を待ってくれていた。
「俺、どちらにも差をつけたくないです。今は神社の宿舎で1人暮らし…最近は宵華とも一緒にいるけど、天野の家にはいなくて。だから、両方の家に遊びに行きたいです」
「私には願ってもない申し出よ。もとよりあなたの選択に口を挟むつもりもなかったし、いいと思うわ」
顔を綻ばせてうなずく母を見て、樹希はホッと息をついた。自然と口元に笑みがこぼれる。
宵華に触れてみようと決めてからおよそ半年と少し。まだ一年も経たぬ短い間に、自分の周りには驚くほど人が増えた気がする。そればかりか、親なしの子供がまさか実親と再会できるとは。片方は残念な結末に終わったが…
「母さん」
生涯、真に使う事はなかったであろうその言葉で杏奈を呼んだ。「なにかしら?」と撫でるように低く響く女性の声が返事をする。
「この後、何もなければ神社へ寄っていきませんか?俺がお世話になっている人たちを紹介したい」
「そうね…」
一瞬、少し難しい顔をするが、いたずらを思いついた子供のように笑って杏奈は答えた。
「本当は過度な接触は控えるように推奨されているんだけど…禁止じゃないしね。それに、樹希が会わせたい人には私も会ってみたいもの」
顔に刻まれた数十年の苦労など気にならないような、きらきらとした眼差しだった。心が解放されているのかはさておき、樹希との邂逅が彼女の心を弾ませたことは事実らしい。
「それに、お父さん…あなたのおじいちゃんから、育ててくれた方々に渡したいって手紙も預かっているの。ちょうどいいタイミングだわ」
どちらにしても、神社へと赴く事は決まっていたのかもしれない。
「まさか、またここに来ることがあるなんて」
継寂乃杜に着いた杏奈は、入り口に立つ鳥居を見上げながら感慨深そうに呟いた。表情を見る限り、その感情は決して良いものではない事がうかがえる。
「生きていることを疑っていたわけじゃない。でもこの鳥居のもとにあなたを寝かせた瞬間、私はこの手で我が子を殺した。いつか迎えに行くと思いながら、同時に私はそうやって自分を呪い続けてきたわ」
暗い表情を見せる杏奈に、樹希は何も言えなかった。
「こんな話、当人にするものじゃないわね。ここからの案内もお願いできるかしら」
切り替えるようにポンと手を叩き、杏奈は樹希を促した。彼女を救うために、自分には何かできることがあるのか。時間が解決してくれる事を祈るばかりなのだろうか。答えの出ない自問自答を繰り返しながら、樹希は境内へと母の手を引いていった。