39話.母親
真面目で芯の強そうな女性、というのが、初めて見た母親の第一印象だった。化粧っ気の少ない顔立ちの中に目立つ、やや吊り気味のつぶらな眼。真一文字にひかれながら、しかし両端にほほ笑みを湛える小さめの口。よくよく見ると分かる程度のしわや目元のクマが、彼女の年齢とこれまでの苦労を物語っているように感じられた。
「ここに来るのもいつぶりかしら。まだやってたなんて驚きだわ。私も何か頼んでいいかしら?」
向かいに腰掛け、傍らのメニューを眺める杏奈に促され、樹希も席に戻った。まじまじと見ていても、ややハスキーな低い声を聞いても、実感というものは沸かない。まったくの初対面の人ともある程度物怖じせずに話せるのが樹希の長所だと自覚していたのだが、どうにも言葉が出てこない。杏奈の視線が店内をさまよい始めたのを見て、「あ、呼びますか?」と呼び鈴ボタンを押すのが精一杯だった。
杏奈は樹希の手元にあるアイスティーをちらりと見やる。店員に「同じものを」を頼むと、視線を樹希へと戻した。
「やっぱり緊張するわよね。いきなり知らない人があなたの母親ですって出てきても、私なら実感湧かないもの」
ね、樹希君、と杏奈は苦笑しながら言った。彼女が困ったように笑うと、目尻のしわが深くなった。これまでもそうして気を遣って生きてきたのだろうかと思うと、樹希は咄嗟に気の利いた言葉の一つも出なかった自分が少し恥ずかしくなった。
「そんな事は…それを言うのなら、お互い様です」
しかし、樹希は母をどう呼ぶかすらうまく決められず、結局無難な返ししかできなかった。まるで努力が空回りしているかのような気分になり、目の前の女性に隠れるようにして袖口を触った。くたびれた袖口の感触に意識を向けると、我ながら幼いとは思うが幾分か気持ちが落ち着いた。
「せっかく会ったんです。お互いどうしてきたかとか、今はどこに住んでて、何をして生活してるのかとか、色々聞いてみたい」
樹希の提案に、杏奈もそれはいいわね、と身を乗り出してくれた。一度口にすると、それからは不思議と平静に話すことができた。
初めに話したのは意外にも樹希自身の方だった。物心ついた時には、泰然とその妻が両親として、耀が弟として傍にいてくれた事。一度は彼ら天野家のもとに居場所を見失って距離を置いたが、最近また歩み寄る事が出来た事。そのきっかけは皮肉にも実父であり杏奈の元夫である榊原悠介の干渉であった事。そして、幼い頃から継寂乃杜の巫女として神社に住んでいる宵華という女性を慕っており、数日前に晴れて恋仲となった事。
訥々《とつとつ》と話す樹希に、杏奈はうんうんと頷きながら耳を傾けていた。一通り話してから、樹希は氷で埋め尽くされたアイスティーのグラスに口をつけた。爽やかなお茶の香りが口腔内に潤いをもたらし、喉を通り抜けていった。自分だけが延々と話すという事が少なかったせいか、思ったよりも喉が渇いていた。
「いろんな事を経験してきたのね。私に言う資格はないけど…あなたが立派に育ってくれていて良かったわ」
樹希の近況を聞き届けた杏奈は、溢すように話した。およそ初対面の人間に向ける事はないであろう慈愛に満ちたその声色は、資格はないと言いながらも樹希の母親である事を心から嬉しく思っているという印象を樹希に抱かせた。
と思いきや、一転して少女のような表情を見せ、「その宵華さん?との事も色々聞かせてほしいな」と食いついてきた。本来色恋沙汰にあまり耐性のない樹希は我が事ながら恥ずかしくなり、今の関係になって間もないから気持ちが落ち着いてなくて、などと苦し紛れの言い訳をしながら、心底残念そうにする杏奈の尋問を受け流した。
思わぬ質問のせいで熱くなった体をアイスティーで冷やし、一息ついたところで、今度は杏奈の話を促した。
「お互いに、とは言ったものの、あの人が事件を起こすまではほとんど軟禁状態だったから…私の方はあまり話すような事はないのよね。それでもいいかしら?」
申し訳なさそうに眉を下げながらも、杏奈はうなずく。未だ実母という実感を持てないまでも、樹希の中で彼女の話を聞いてみたいという思いは強まっていた。実父から受けた衝撃の反動で生まれた、理想の母親像が語られてほしい。そういう願望なのだろうと内省しつつも、杏奈の話に耳を傾けた。
杏奈の話は樹希の生まれる前、家庭内でのDVから始まり、樹希はハッと自分の無神経さに気付いた。自分のわがままで嫌な過去を思い出させたと申し訳なくなったが、話しぶりを見るに当の本人は存外気にしていないのだろうか、淡々と話していった。
「それで、あの人が逮捕されてから保護されて、この間やっと施設から帰っていい事になったのよ。町の郊外にある私の実家に帰って、今はそこで暮らしているわ。もう少ししたら、お父さんの仕事を手伝いながら社会復帰のリハビリかしらね。この歳から新しい職、っていうのも難しいから」
聞くと、杏奈の父…樹希の祖父にあたる人物は、ここ木津根町に本社を構える会社の社長兼代表取締役であり、娘である杏奈は悠介と結婚する前にはその会社で副社長として働いていたらしい。親子経営という事だろうか?
興味本位で尋ねると、「お父さん、仕事は仕事で割り切る人だから。採用面接からしたわよ」と教えてくれた。それでいて副社長まで上り詰めるのだから、仮に多少の贔屓があったとしても彼女自身の能力も相当なものなのだろう。
「本当はそのお父さん達も連れて来たかったんだけど、あなたに合わせる顔がないって言って断られたわ。悪いのは私とあの人だけなのに。異変に気付けなかった自分達も同罪だって聞かなかったの」
そこまで話して、杏奈は「あっ、こんな事は聞かせるものじゃなかったわね。ごめんなさい」と慌てて樹希に謝罪した。ばつの悪そうな顔をして自分の袖口に触れる杏奈。よく見ると袖口はよれている。樹希の視線に気づいたようで、杏奈は恥ずかしそうに腕を上げた。
「これ、昔からの癖みたいで…困ったりするとつい触っちゃうの」
「実は、俺も…」
杏奈の言葉に、樹希も自分の袖口を見せた。顔を見合わせた二人は、思わず小さく笑ってしまった。
「物心ついた時から、これだけは直らなくて。今の父に何度注意されたか」
「あはは、こんな所が似ちゃうなんてね。私も『みっともないから止めなさい』ってずっと言われてきたのに、結局今になっても直らないのよ」
仕事の場では流石に出さなくなったけどね、と苦笑交じりに話す杏奈のエピソードが自分の事を話されているように思え、樹希は照れくさくて視線をテーブルに落とした。
そうして俯いた顔を覗き込むようにして杏奈は樹希を見つめ、続けた。
「というかよく見たら、目鼻も私やお父さん…えっと、あなたのおじいちゃんに似てるわね」
「そうなんですか?」
「そうなのよ。私は今メイクをしてるから、少し印象は違うでしょうけど。うちの人はみんな、垂れ目に丸鼻なの。今気づいてびっくりしちゃった」
そうして笑う杏奈の声に、少しずつ震えが混じってくる。やがてそれは嗚咽に変わっていった。樹希も、その変化に思わず顔を上げる。
「本当に…よく、似て……」
母はボロボロと涙を流していた。そして化粧をぐしゃぐしゃにした顔を手で覆った。カラン、とアイスティーの氷が溶け、止まっていた時間を動かすように軽やかな音を響かせた。
「息子が生きてた…本当に良かった……ごめんなさい、あなたを傍で守ってあげられなくて、ごめんなさい」
弱々しく泣き崩れる肉親の手を、樹希は躊躇いがちに、しかし確かに、自分の両手で包み込んであげた。
あった方が何かと便利かなと思い、樹希達が暮らす町の名前をつける事にしました。木津根町、まんまキツネからとった安易なネーミングですが、思いつきの産物なのでどうかご容赦を…。