38話.初めまして
社務所に着いた宵華はどこかホッとした様子だった。樹希も、もともと元気な子だと思っていたのだが、普段真面目そうな須々木があそこまで興奮を露わにするとは思わなかった。そういえば、鞄にかわいらしい動物のキーホルダーを下げていたが…動物が好きで、宵華にも何らかの感情を抱いていたのかもしれない。一応守り神なのだが、畏れ多いという気持ちはないのだろうか?
しかしクセは強いものの、宵華に自分以外の人間との交流が生まれた事は喜ばしい事かもしれない。彼女なら自分よりも外を知っているだろうし、宵華の世界もより広がるだろう。
それを望んでいるかは分からないし、樹希としても少し寂しい部分はある。ただそれ以上に、彼女の生きる意味が生まれているのであれば、それは本望だった。
その後は社務所で事務対応に追われたり、宵華も飛び込みの祈祷依頼が入ったりと、お互いに息つく暇もなくなってしまった。結局、昼過ぎから終業まで休まず動き続け、宿舎で顔を合わせる頃にはお互い睡魔がピークに達していた。
藍暁の事や母の事。色々な事を宵華と話したくソファに座ったが、意に反して体はもう寝ようとしている。宵華も同じようで、隣でうつらうつらとしている。
そういえば、昨夜もこのソファで寝てしまったのだった。さすがに疲れを取りたいと思い、樹希は体に鞭打って最低限眠れる環境を作った。ゆらゆらと揺れている宵華を布団に横たえ、隣に寝そべる。柔らかな羽毛に包まれると、それは樹希の意識をを心地よい暗闇へと誘ってくれた。
翌朝、樹希は暖かい気持ちで目を覚ました。普段は夢を覚えている事などあまりないのだが、久々に鮮明に夢の記憶を思い返す事ができた。
夢の中で、樹希は宵華と境内を歩いていた。遠くには天野家の面々と、樹希の生みの母親。顔も見えぬその人は樹希に微笑みかけている事が分かり、樹希もまた彼女に手を振っていた。優しい夢だった。
願望か、単に緊張のあまりそのような情景を脳内に書き記してしまったのか。いずれにしても、決して不幸な夢ではなかった事が、明日に控える母との対面に感じていた樹希の気持ちを軽くしてくれた。
夢のおかげか、その日の仕事ははかどった。妙に機嫌が良いと指摘され、それほど顔に出ていたかと若干恥ずかしくなる場面もあったが。それにしたって、暗い気持ちで明日を迎えるよりかは幾分もマシだった。
そうして迎えた明くる日の午前中。昨日とは一転、樹希は緊張した面持ちで待ち合わせの喫茶店に訪れていた。正午まではまだまだあるのだが、店先でうろついていて不審者と思われても具合が悪い。幸か不幸かのども乾いてきていたので、飲み物の一つでも注文しようかと一旦店内へ入る事にした。
案内された席に着き、アイスティーを頼む。駅付近に建つこの喫茶店についてはよく知っていた。場所がわからなかったり、距離が遠かったり、そういう早く出なければならない事情はなく、むしろ大学時代ではよくお世話になっていたほど勝手知ったる店である。では何故こんなにも早く訪れてしまったのかというと、神社で座して待つというのが樹希にはどうにも耐え難かったのだ。挙句には部屋をうろうろと歩き回り、宵華に若干疎ましがられたほど、樹希の心には波が立っていた。それならばと、さっさと所定の場所へ行ってしまって腹を括ってしまおうという心持ちで来たのだが、思いのほか早い時間になってしまったという事である。
席でのどを潤し、待つ事数刻。幾度目かも数えるのを諦めた扉の音に目をやる。どの人が母なのだろうかと、樹希は店の入り口が開くたびにこうして手を止め、視線を入ってきた人物に向けていた。ここまで来てしまえば落ち着きもするだろうという考えとは裏腹に、先ほどから自分でも分かるほど挙動不審な様子になっていた。心なしか、周囲の客の視線が樹希に集まっている気もしてきていて、樹希は上着の袖口をさするようにいじった。
勝手に気まずくなっていると、店員と一言二言のやり取りをして樹希の席へと歩いてくる中年の女性が見えた。気のせいかとも思ったが、視線が合ったまま外れない。間違いなく自分が目的なのだと悟り、樹希は立ち上がった。
女性は樹希の向かいの席横で立ち止まり、軽く会釈をして口を開いた。
「樹希君…をつけるのは変かしらね。初めまして、母の杏奈です」