36話.後悔のない選択を
「おや、お話は終わったのですかな?」
泰然がゆったりと歩いてきて、3人に問うた。手には菓子を載せたお盆を持っている。まさか宮司である父がそのような事をするとは思いもよらず、樹希は驚いて立ち上がった。
「え、なんで父さんが…」
「狐巫女殿の妹君とあっては、神社の宮司がご挨拶を怠るわけにもいくまい」
「だからって、わざわざこんな事してまでこっちに来なくても…後でいくらでも俺たちの方から行ったのに」
始業時間を過ぎた社務所から、従業員達が何事かとこちらを見ている。新人の子がオロオロしていた。かわいそうに、自分の仕事を宮司に押し付けてしまったと思っているのだろう。
「そうよ泰然。あなた、いつも私に『周りにも目を向けてみてはいかがですかな』とか言うくせに」
宵華に指摘されても、当の本人ははっはっはと笑うだけだった。頑固神主もここに極まれり、である。
「ところで、そろそろその『狐巫女殿』っていうの、やめてほしいわ。ここの守り神としての立場には当分いてあげるけど、堅苦しくて好かないの」
「そうですな。樹希と懇ろのようですし…将来の家族の呼び方は改めねばと、私も考えておりましたところです」
「か…っ!?」
ついでにと苦情を告げた宵華は、思わぬ返しに言葉を詰まらせてしまった。分かりやすく毛が逆立ち、顔もみるみる赤く染まっていく。「なんで分かるの…」と小さく呟きながらうずくまってしまった。
「あちゃあ、幾世紀ぶりにオーバーヒートしちゃったわね。お姉ちゃんもこんなになっちゃったし、私はそろそろお暇しようかしら」
通路の邪魔になると姉を立たせた藍暁が、そう言って出口へ歩を進めようとする。が、途中で立ち止まり、泰然を見て言った。
「あそこ、本殿よね?屋根の瓦が剥がれかかってるよ。それから、柱の整備もそろそろしといた方がいいんじゃない?」
余計なお世話かもしれないけどね、と付け加える藍暁を、樹希は唖然と見つめた。社務所から本殿へは確かに一本道だが、到底肉眼で見える距離ではない。まして建物の状態など…
よくよく見ると、彼女の瞳に走っていた円状の模様が、太くなっていた。白目の外周に、さらに黒目があるように見える。
「不思議な眼に見えるでしょ」
彼女の大きな双眸が、樹希を捉える。先ほどのような驚き方はもうしないが、自分よりも小柄なはずの彼女がいやに大きく感じられた。
「私の千里眼のからくりよ。今の技術で言ったら…ああ、カメラの絞りが近いのかな?望遠を続けるうちにこの膜が出来てきてね。視野は狭まる代わりに数十キロは見通せるのよ」
聞いてもいないのに自分の眼について説明をし始めた。胸を張っており、褒めてほしそうな空気を醸し出している。
「へえ、すごいんだな。人間には到底できない芸当だと思ってたけど、なるほどそんな風になってるのか」
素直に賞賛すると、藍暁はへへへ、と顔をにやけさせた。今朝はあれだけ敵愾心むき出しだったのに、信じられない変わりようだ。しかし、なるほど宵華が妹だと可愛がる理由が少しわかる気がする。
微笑ましく思っていると、不意に藍暁は真面目な表情になった。
「そうだ。あんた、母親のところにはいつになったら行くつもり?向こうはいつ来てもいいように準備してるみたいよ?」
唐突な突込みに、樹希は言葉をなくした。同時に脳裏を掠める、面会の通知書。そうだ。いい加減決めなくてはならない。
「会える時に会わないと、いつか後悔しても遅いよ」
そう言い残して、今度こそ藍暁はさっさと社務所から出て行ってしまった。立ち尽くす樹希のそばに、宵華が寄ってくる。
「樹希」
「分かってる。どのみちそろそろ考えないといけなかった」
袖口をいじりながら、樹希は答えた。その返答とは裏腹に、樹希の心は鉛のように重い。
「会いたくない訳じゃあないんだ。ただ、どんな顔で会えばいいのかとか、会って何を話すのかとか考えると、分からなくなって」
無理もない、と自分では思う。
「樹希。お前の思うようにするといい。自分が納得できると思う方を選びなさい」
「父さん」
そう言いながら泰然が歩み寄り、樹希の肩に手を置いた。同時に、宵華も頷きながら樹希の手を握る。言葉は少なくとも、背中を押してもらえた気分だ。
「ありがとう、2人とも。決めたよ」
もとより、真面目な樹希に会わないという選択肢はなかった。ただ、誰かにそうやって言ってほしかっただけなのだろう。情けない感情を抱く自分を内心で恥じながら、実母を訪ねる準備を始めることにした。