34話.藍暁
榊原の記憶を掘り起こさせるような嫌な景色を見たと思ったら、女性は宵華の事を「お姉さま」と呼んだ。彼女自身も女性と面識があるようで、「藍暁」と呼んでいる。
よく見ると、腰に巻かれている金色のベルトの先がゆらゆらと動いている。やけに細く、また毛皮のベルトにしても毛が多いと思っていたが、あれは尻尾だろうか。ということは、つまりこの藍暁という女性は天狐?
「藍暁、なんでここにいるの?いつも遠くから見てるだけなのに…」
宵華の言葉に、樹希は首を傾げた。「遠くから見ている」?一体どういう意味なのか。宵華に尋ねてみると、答えてくれた。
「この子、ものすごく目が良くてね。望遠ができるの。いつもは遠くから私を見てるだけなんだけど…」
「ちょっと、何をコソコソ内緒話してるのよ。それにあんた、お姉さまに近付きすぎじゃない?」
こそこそと話していると、藍暁と呼ばれた女性から鋭い視線が飛んできた。背筋がピンと伸びるようなこの感覚に、樹希はすぐに思い当たった。不審者を警戒して、宵華と一夜を共にしたあの夜、窓から襲った視線だ。
「あの夜の視線はもしかして…」
はあ、と溜息を吐いて、藍暁が口を開いた。
「そういう事。榊原だったっけ?あんたがあの男にビビッてお姉さまに近づいた時。あの時あんたを睨んでやったのは私」
あの身体を貫かれるような感覚は彼女によるものだったのか。樹希は合点がいった。
「お姉さまを部屋に連れ込んでくれちゃって…守ってもらう割にはすぐに離れるし、離れたと思ったら刺されて怪我してるし…こないだなんて街まで連れ出して、あまつさえあんな面倒事まで起こしちゃうんだから」
「なんでそれを知って…」
藍暁が樹希に詰め寄りながら、次々と自分たちの巻き込まれた問題について話していく。樹希を睨むその気の強そうな瞳は、他の整ったパーツと比べるとアンバランスに大きく、彼女の顔の中で非常に目立っている。すらっとしたスタイルの良さや、元々の造形の良さで、辛うじて相貌の均衡が保たれている。環境が環境ならば、簡単に恐ろし気な様相へと印象を翻すだろう。
その異様な眼や、樹希に対していやに刺々しい言い方をしてくるのは気にかかったが、それよりも何故、その場にいなかった彼女が知っているのか。疑問をこぼす樹希を遮るように、藍暁は返した。
「今お姉さまに言われたでしょ?聞いてなかった?お姉さまに何かあったらいけないから見守ってたんじゃない。それをあんたが次から次へと問題を持ってきてさあ。ホント、なんであんたみたいなガキんちょにお姉さまが誑かされちゃったのか…」
「藍暁」
キッと樹希を睨みつけながら話す藍暁を、宵華が窘めた。しかし藍暁は構わずに続ける。
「お姉さまもお姉さまよ、ちっちゃい頃から一緒だったにしても、情に絆され過ぎじゃない?酒の席でちょっと優しくしてもらったくらいでこんな男に」
「藍暁、いい加減にして」
止まらない藍暁の言葉は、あろう事か姉の筈の宵華にまで矛先を向けた。さすがにと思い樹希が止めようとするが、その前に宵華がさらに語気を強めて遮った。その気迫に怯みながらも藍暁は続けようとするが、直前までの強い態度は窺えない。
「だ、だってお姉さま、ホントのことじゃない。コイツについて行ったりしなきゃ面倒事なんかに巻き込まれることだって…」
「藍暁、言葉が過ぎるわよ。大体、さっきから初対面の相手に失礼極まりないわ」
姉の正論に、藍暁は言葉を詰まらせてしまった。ぐうの音も出ない様子で、樹希に向けていた勢いはどこへやら、しどろもどろで目が泳いでいる。まるで親に叱られた子供のようだ。
「何か彼、樹希に言うことがあるんじゃなくて?」
「う…」
「ま、まあまあ宵華…」
すっかり毒気を抜かれてしまった樹希が制止しようとすると、樹希はちゃんと怒らなきゃ、と逆に叱られてしまった。その表情や口調に、もし姉がいたらこんな風なのだろうかと、場にそぐわない考えがふと頭をよぎった。
その間にもう~、と嫌そうに唸っている藍暁だったが、その内諦めたようにため息をついた。そして、渋々といった様子で樹希に向き直り、口を開いた。
「…悪かったわ、初めて顔を合わせていきなりする話じゃなかった」
バツが悪そうにして言う藍暁だが、それでも宵華は納得していないようで、言葉を続ける。
「それもだけどね、藍暁。そんな事を言うんじゃないでしょう。何故、樹希に辛く当たるの?私は望んでないわ」
容赦のない宵華の詰問。姉が味方をしてくれない事か、それともこうして叱られる事を予想していなかったのか。藍暁は下を向き、唸りながら涙目になってしまっている。
「ごめんなさい、お姉ちゃんと仲良くしてるのが嫌だったの!嫉妬よしっと!もうこれでいいでしょ、許してよお姉ちゃん!」
今度はまるで駄々っ子のような態度だが、しっかりと謝ってくれた。宵華も満足げに頷いているあたり、お許しが出たようだ。もはや最初の威圧的な態度は見る影もない。長命種族の威厳など、型なしである。
ようやく樹希への敵意が無くなったと判断した宵華は、樹希と藍暁の手を引いて社務所への道を踏み出した。
「お互いの紹介をしたいんだけど、ここじゃ寒いわね。始業に遅れても困るから、社務所の方へ行きましょ」