33話.不穏の影再び?
翌朝の未明の事、先に目を覚ましたのは宵華だった。あれから2人はソファで眠ったまま夜を明かしてしまったようだ。重い頭と気怠い身体。固く強張った全身を大きくほぐし、宵華は窓の外を眺めた。まだ外は暗い。しかしやる事もないし、二度寝をするには目が覚めてしまっている。仕方がないので、早いが朝の支度を始める事にした。
台所に立つ間に樹希も目を覚まし、大きな欠伸と伸びをした。
「…おはよう」
「うん。おはよ」
宵華の視線に気づいた樹希が朝の挨拶をし、宵華もそれに返事をする。ただそれだけのやりとりが、なんだか可笑しくて、2人は照れたように笑った。別に互いの部屋に寝泊まりする事はこれまでいくらでもあったものの、やはり関係が変わると見える景色も違うようだ。長年ぶりの感情と景色に、宵華は少し懐かしさを感じた。
それは時として、孤独と喪失感へと形を変えて宵華を苛む感情だったが、不思議とあの痛みは湧き上がってこない。それは、自分の選択は決して無為なものではなかったことなのだと、ささやかな安心を宵華にもたらしてくれた。
「結局、あのまま寝ちゃったね」
「そうだな。寝間着に着替えておいて正解だったよ」
「ね。でも髪も尻尾もぐちゃぐちゃ。湯あみしたいな」
「じゃあ風呂沸かしてくるよ」
立ち上がり、浴室へ向かう樹希の背にお礼を告げた。自分は朝食の準備を進める。
ここ継寂乃杜に建つ宿舎には、なんと部屋ごとに台所と浴室が付いている。かつての町おこしの名残だろうが、当時の人間たちは随分と張り切ったものだ。今更ながら、特に感慨も抱かなかった数十年も昔の出来事を思い出した。
(まあ、特に何も思わないのは今もか)
今の自分だったならまだしも、あの時はちょうど感情を拾い戻す前の事だ。印象も気持ちもない。思い出そうにも、ないものを思い出す事はできないのだ。
とりとめもない事を考えるうち、朝食の準備ができた。同時に樹希も戻ってくる。
「ご飯、出来てるよ」
「ありがとう。先に食べようか」
2人で食卓につくことにした。今朝はシンプルに卵焼きと味噌汁。普段料理などしないので心配だったが、我ながら良い出来だ。
「今日は何かあったっけ?」
「ご供養も祈祷も予定はなかったかな。私は暇だったはず。適当に巫女たちの手伝いでもしておくわ」
食事を済ませ、2人はそのような会話を交わす。そうか、と一言呟いた樹希は紅茶をすすった。
樹希の退院を経てからちょくちょく遊びに行くようになって分かったのだが、彼は朝によく紅茶を飲む。コーヒー、というかカフェインが得意でないらしく、緑茶よりも黒豆やハーブを使ったお茶を好むのだそうだ。嗅覚や味覚が狂ってしまう為にあまり強い匂いのするものが得意ではない宵華にとっては、それはありがたかった。
それから他愛無い会話をし、宵華は風呂をいただく事にした。いそいそと服を脱いでいき、湯で体を流してから湯船に浸かる。冷えた体に芯まで熱が伝わっていき、同時にふぅ、とため息が出た。
一族とともに生活していた頃は毎日入る事もなく、汚れたら水浴びをする程度だった。それでも汚れが付く事はなかったのだが、この風呂という文化を知った以上、もうあの頃には戻れない。この心地よさは何物にも代えがたいものだ。
温かい湯船を堪能した宵華は体を拭き、髪と尻尾も拭いていく。この尻尾というのが中々のくせ者なのだ。本当なら樹希にも手伝ってもらえるのが早いのだが、
(尻尾が乾かないと服は着れないし、肌を見られるのは恥ずかしいな…)
恥じらいなどという感情が邪魔で、どうしても言い出せなかった。ただ、もし頼んだとしても樹希の方が気を遣って断っていただろうが…ともかくも、ブルブルと尻尾を震わせてしっかりと水を切り、ドライヤーと櫛を駆使して丹念に手入れをしていった。
身だしなみを整え、風呂場から出る頃には、日が昇ってきていた。部屋に差す光が心地よい。樹希もいつでも出られるように支度が済んでいるようだった。
宵華の姿を認めると、樹希は立ち上がり、おもむろに玄関へと身体を向けた。
「いい時間になってきたな。そろそろ出ようか」
「ん?いいけど、少し早いんじゃない?」
「その、さ。折角一緒に出るんだったら、少し早く出て一緒に境内を散歩でもしようかなと思って」
出勤にはまだ早いはずなのだが、と首を傾げる宵華に、顔をほんのりと赤らめながら樹希が答える。寒さはあまり好きではないが、特に断る理由もないし、少しでも長く彼といられる時間が増えるのはうれしい。宵華も二つ返事で了承し、樹希の後を追うように玄関へと歩を進めた。
宿舎を出ると、冷たい空気と風が2人を出迎えた。思わず身震いしてしまう。
「まだまだ冷えるなあ」
樹希の呟きに、宵華も小さく頷いた。日が出ているうちはマシなのだが、この時間ではまだ冷気の方が強く主張してくる。しかし一方で、眠気で靄のかかった頭はスッキリとしてきた。今までなら予定もない限りこんな早くに住まいを出る事はないが、たまにはこういうのも良い。
ゆったりと並び歩き、小酒館に差し掛かると、館の入口に見慣れぬ人影が見えた。女性が1人、宵華たち2人の方を向いて腕を組んでいるようだ。
その瞬間、樹希の背中に得も言われぬ寒気が走った。嫌が応にも数か月前の事をフラッシュバックさせてしまう光景だ。周辺の空気も、いやによそよそしく感じられてきた。気のせいのはずだが、まるで見知らぬ土地へと迷い込んでしまったような気持ちになってしまう。
嫌な既視感に顔をしかめる樹希と、驚きを隠せない宵華。2人に構わず、女性はずかずかと近づいてくる。2人を捉える大きな双眸から目を離せない。
「藍暁!?」
「久しぶり、お姉さま」
洋服の装飾に見えていた、腰に巻かれている金色の帯がゆらりと動いた。再びの侵入者は、他ならぬ宵華の妹だった。