32話.自覚する気持ち
「樹希ー?」
部屋の前に経った宵華は、中にいるであろう樹希に声をかける。が、返事は返ってこない。何をしているのだろうと思いながらも扉を開けた。
「樹希…あ」
樹希は部屋の奥に立っていた。パンツ一枚で、こちらを向いて。手には寝間着用のズボン。不意な闖入者に、彼の表情は固まっている。宵華も何も言えないまま、ゆっくりと扉を閉めた。閉めきったところで、サッと顔に朱が差した。
そりゃあ、私も着替えたばかりだから、向こうも着替えてるに決まってる。恥ずかしさといたたまれなさで、宵華はその場にしゃがみこんでしまった。そして、そんな初心な反応をする自分にも、腹立たしいような情けないような気持ちも湧いてきた。
(なんでこんな生娘みたいな反応をしてるの…)
樹希の部屋の前で1人悶々としていると、中から樹希の声が聞こえてきた。入ってきてくれ、と言っているようだ。脚の間に入り込もうとしてくる尻尾に邪魔くささを感じつつ、ぎこちない動作で扉を開けた。同じ場所で、今度は上下とも服を着ている樹希が迎えてくれた。心なしか、彼の方も顔が赤い気がする。
「ご、ごめんなさい、返事も待たずに入っちゃって」
「大丈夫、こちらこそ声に気づかず…」
気まずい沈黙が流れた。樹希を直視するのも恥ずかしく、せわしなく視線をさまよわせてしまう。どうしようかと考えあぐねていると、樹希が先に口を開いた。
「ところで宵華、何か用事でもあったのか?」
「あ、忘れてた」
そうだった。気が動転していて頭から抜け落ちていた。洗濯物について聞きたいのだった。樹希に尋ねるのも変な話だけど、と前置きしながら、宵華は元々の用事を告げた。
「今日須々木から借りた服なんだけど、私洋物を持ってないから洗い方なんて知らなくて…どうしたらいいのかしら?」
そう言いながら、衣服を樹希に見せた。「俺もあんまり服には詳しくないんだけどな…」と零しながらも、樹希は真剣に考えてくれる。服の内側を覗き、縫い目に沿ってついている小さな紙切れのようなものを見ている。
「なるほど。このニットは洗濯機で回せそうだ。スカートも大丈夫だな。一応ネットは分けて洗っておこうか。帽子は押し洗いじゃないと縮みそうだな」
「へええ、物によって全然違うのね。そこは同じなんだ」
詳しくないと言いながら、淀みなく各衣服の扱いについて教えてくれた。聞くと、今しがた見ていた紙切れに簡潔な扱い方が記されているらしい。宵華も見てはみたものの、よくわからない記号なのでかえって混乱してしまった。
「それにしても、樹希って物知りなのね」
宵華は素直に感心した。樹希は「いや、そんなことは」と否定するが、宵華にとっては事実である。同時に、自分は長く生きている割には知らない事が多いのだと自覚した。参拝者や神職以外の人間の波に、経験した事もない音と光の祭り、そして狸人という種族…。思えば、昨日赴いた街でも新発見の連続だった。
永い時を無為に生きたという落胆もあるが、それ以上に新しきを知るという事に楽しみを見出している自分もいる。例えば樹希の事だ。彼に泣きついたあの夜から、彼の事は気になっていた。その延長で様々な側面を知りたいという気持ちはあったが、彼への好意を自覚してからは特に興味が尽きない。もっと彼の話を聞いてみたいという気になっている。
「ねえ樹希」
これはいいチャンスだと思い、樹希の事を色々と聞いてみることにした。樹希は、宵華が外界の事に興味を持った事を多少驚きはしたものの、快く応じてくれた。
隣り合ってソファに座り、いろんな話を聞いた。樹希の趣味、好き嫌い、特技…天野家の事や大学時代の事、神社の外ではどんな事をしているのか、服装はどんな恰好か。聞けば聞くほど知らない世界が見えてきたし、答えをさらに質問で返したりもした。
そうしている内に夜も更けていき、次第に頭がぼんやりとしてきた。最後に見えたのは、宵華が愛すると決めた人の寝顔。そうだ、私は再び人を愛そうと思ったのか…幾度も逡巡と決意を繰り返してきた事だったが、心に決めるというのは、意識してするものではなかったようだ。ストンと事実を受け入れられたこの瞬間に、宵華はそんな事を自覚しながら、ぬるま湯のようなまどろみに落ちていった。
頼りなくも優しげな照明の下で、力なく放たれた男女の声と相槌。その声は初々しく絡み合った手に落ちた。数瞬後に静寂が訪れた部屋の中には、一組の恋人たちの寝息だけが規則的に響いていた。