30話.告白
2人が神社へ帰ったのは、あと一本逃せば終電という時間だった。既に境内は暗闇に覆われているが、ぽつぽつと灯る灯篭の仄かな明かりが2人を迎えてくれた。少し前まではどこまでも深く飲み込まれそうな闇と、まるでそこに誘うかのような白々しい薄明かりに感じられていたそれらだが、今は全くその気配を感じない。この継寂の境内から榊原の脅威が去った事で、土地が本来の優しさを取り戻したようだった。それともあの恐怖感は、樹希が勝手に感じていた幻覚だったのだろうか。
社務所に目を向けると、1階は真っ暗で、2階の天野宅は泰然の部屋に明かりが点いているのが見えた。父は何をしているだろうかと思いを巡らせながら、樹希は宵華と2人で小酒館へと足を運んだ。
「珍しいね、ワインを買うなんて」
「まあな。なんとなく気になるのがあったんだ」
館のテラス席に照明を点けながら、2人は晩酌の用意をしていく。日を追うごとに夜は冷え込んでいくが、今日は夜風に当たりたい気分だった。
テラスから境内の明かりを眺める宵華は、外の闇と小酒館の明かりの狭間にあり、その白い肌と金色の毛が闇夜の中で浮かんで見えた。妲己や玉藻御前といった伝説上の妖狐たちはこのような容姿なのだろうか?それほどには、樹希の目には妖しくも神秘的な姿に映っていた。同時に、同じ空間を共にする自分がやけに卑しく感じられ、少し気後れするような気にもさせた。
「樹希、どうしたの?早く座ろ?」
その言葉と銀鈴の音に樹希はハッと我に返り、慌てて宵華の隣に腰かけた。彼女は、まさか樹希が隣に座ると思わなかったのか少々驚いた様子だったが、すぐに微笑みを湛える。
「じゃあ、乾杯」
宵華の音頭でグラスを打ち鳴らし、淡い緑に透き通る酒を一口含んだ。さっぱりとした酸味と優しい甘み、花のような香りが口腔内に満ちる。我ながら良いチョイスだ。
「たまには洋酒もいいものね」
宵華の口にもあったようで、彼女もそう話しながらささやかな酒宴を楽しんでいた。
「今日は色々あったな。初めての街は楽しかったか?」
今日あった事を反芻しながら樹希は尋ねた。一日しか出ていないはずなのに、数日間か神社を離れていた気分だった。樹希にとってもそれだけ濃い経験をしたのだろう。宵華も同様のようで、樹希の問いに小さく頷いた。
「天狐の他に、人間じゃない種族がいたなんて。驚いたわ」
「そういえば宵華は知らなかったんだな、狸人の事」
「まあね。私、一族が疎ましくて、あんまり天狐やその関係の事に興味を持ってこなかったから。もしかしたら、当時の知り合いの中には関わりのあった子もいたのかも」
宵華が懐かしげに目を細めた。金色の尻尾も、ゆらゆらと穏やかに揺れている。あまり良い思い出でもないだろう一族の話なのだが、彼女の表情は暗くなかった。
「いい人たちだったよな」
「うん」
ワインのボトルが空いた。グラスに残る一杯分が最後のワインだ。
「でも、私は初対面の人に対してあんな風に親切な事はできないな。ご縁っていうのも、よく分からない。今まで出会ってきた人たちは、一人残らず私を残して離れて行っちゃったし。それが目に見えないところで繋がってるって言われてもね」
宵華には酒が足りていない気もするのだが、彼女は席を立とうとせず、話を続ける。
「でもね。そのご縁っていうものの中に樹希がいるのなら、大切にしてみてもいいのかな、っていう風にも思うの」
「…うん」
お互い最後の一杯が一向に減らない。ふと、手に柔らかな感触が伝わった。宵華の尻尾だ。顔を上げると、彼女の横顔が見えた。心なしか頬に赤みが差しているように見える。
「私ね」
彼女はゆっくりと、自分の手を樹希のそれに重ねた。冷たい感触の下に、優しい暖かさを感じる。
「あの男に刺された樹希を見た時、ものすごく動揺した。自分が自分じゃなくなると思うくらい、頭が真っ白になって。あなたが無事だって分かったら、今度はわんわん泣いたの。周りに人もいるのに、今思い出しても恥ずかしいくらい」
少女は照れくさそうに笑った。耳についた銀鈴もチリチリと鳴っている。
「こんな感情、数百年前に置いてきたと思ったんだけどな。おんなじ事を繰り返しちゃうって分かってるんだよ?また長い間、1人で苦しむ時が来るんだって。嫌だな、あんな地獄に戻るなんて」
そう語る彼女は、しかし言葉とは裏腹に吹っ切れたような笑顔だ。
「でもね。病院で樹希の顔を見てて、あなたが目を覚ました時。あの時、どうしようもなく胸が高鳴った。嬉しくて、安心して…もう、あなたを失いたくないと思ったの」
私の歳と比べたらほんの子供なのにね、とおどけた口調で言う宵華の顔は赤い。きっと自分の顔も同じくらい赤いのだろう。その証拠に、こんなにも寒い風の中で、身体中が暑くて仕方がないのだ。
「ついこの間までこの気持ちは封印しておこうって思ってたんだ。でも六右衛門の言葉で、逆に覚悟が決まっちゃった」
「宵華…」
自分は、この先の言葉を聞くべきなのだろうか。それを受け入れた先に、彼女は再び絶望を味わう事はないか。情けない事に、樹希は宵華の言葉で、その懸念をよそにして背中を押されてしまった。
「うん、聞かせてほしい」
この言葉は、宵華にとって過去からの解放となるのか、それとも死にも等しい絶望の宣告なのか。樹希にはもう分からない。しかし、宵華は樹希の言葉に強く頷いた。
不意に、決意の表情を浮かべた宵華の顔が、樹希に近づいてくる。刹那、唇に柔らかな感触が触れた。
「私、樹希の事が好き。ご縁とか命の繋がりとか、そんなものは分からないけど、あなたと隣り合って、この先を歩んでいたい」
一瞬の口づけの後、そう話す宵華の手は、かすかに震えていた。その手を、樹希は両の手で包み込む。
「……俺もさ、本当は躊躇ってたんだ。宵華を抱きしめたあの夜からずっと、この気持ちを持っていていいのかと悩んでた。俺の好意が、宵華にとって呪いになるんじゃないかって」
宵華は気持ちを伝えてくれた。ここで自分も打ち明けなければ、ずるい。後悔だけはしたくない。
「宵華と比べりゃ軽いもんだけど、孤独の辛さは分かる。俺が逝った後、宵華の心は昔に逆戻りするんじゃないかと思って怖かった。いや、今も不安で仕方ない。俺には、それを防ぐ事も、癒す事もできないんだ」
声が震えてしまう。こんなにも暑いのに、身体の芯は反対に冷えていくようだ。思いを伝えるというのは、こうまで力のいるものなのかと実感する。緊張に負けないよう、樹希は自分を奮い立たせようと必死になった。宵華もきっと、必死の思いで伝えてくれたのだから。
「それでも、宵華が覚悟を持ってくれたんだから、俺もそれに応えたい。これから共に歩いていって、宵華の人生が少しでも幸せだったと、2人で胸張って言えるようにしたい。こちらこそ、よろしくお願いします」
覚悟の言葉が、お互いの胸の内に届いた。この先、2人を待つのは甘い未来だけではないだろう。それでも、宵華と歩んでいけるのならそれもいい。自分のエゴを受け入れてくれるかのように、樹希の体を包む暖かな感触と涼やかな鈴の音。笑い合う2人を、その未来を、夜の静寂は祝福してくれているかのようだった。