21話.街に行こう
秋の気配が薄れ、継寂の境内にも冬が顔を覗かせるようになってきた頃。樹希は宿舎の自室で手紙を眺めていた。封も開けられていないそれは、警察からの連絡書類だ。
退院し、薬膳酒で酒盛りをさせられたその翌日、警察からの連絡があった。樹希の母親の所在が判明したのだという。自分の母という女性は榊原からDVを受けており、彼の逮捕後に施設へと保護されたそうだ。樹希が望めば、対面できるのだという。
二日酔いで頭痛がひどいうえ、まだ事件について整理がついていないところに来た連絡だったので、一旦返事は保留させてもらう事にしたのだった。それから数日経った昨日、書類の形で詳細が届いたのである。
「母親か…」
正直、実感はない。当然といえば当然だ。樹希からしてみれば、この世に生まれて20数年、その人の声も知らなければ顔を見たことすらない。そんな人物を、親と呼ぶのは躊躇われる。それに…
(榊原からのDVの被害者と説明はされたけど、榊原みたいな人間じゃない保証もない…)
我ながら、さすがに穿ちすぎかとも思う。しかし、これまで自分の前に全く姿を見せなかったのだ。恨み言を言うつもりはないが、機会はあったのではないか、それでも来ようとしなかったのではないか、くらいの事は思ってしまう。
会ったところで自分の心が揺れる事はない気がする事も、決心のつかない理由だった。樹希にとっては、天野家が既に自分の家だ。時間がかかりはしたが、今はそう胸を張って言える。そんな自分が、今更実母に会ったところで、気まずい思いをするだけで終わる気がするのだ。お互いにいらぬ傷を作るくらいなら、無理に顔を合わせる必要もないのではないか…。
ピピピ…とスマホのアラームが鳴った。悶々とした考えを手紙と一緒に隅へと押しやり、アラームを止める。普段、業務開始の10分前に設定しているのだが、療養期間中の今もなんとなく解除せずにいる。特に他意はないが、まあ無くても大体この時間には社務所にいるのだから、そもそもあまり意味をなしていない事も理由のひとつだろう。
「今頃は、予定の確認とスケジュール調整でもしてる頃かな…」
社務所内の風景がありありと浮かぶようだった。今日は土曜日。よく遅刻してくるバイトの子は、今日はちゃんと来られているだろうか?須々木は愚痴り、佐伯もため息をついていそうだ。そんなどうでもいい細かい事まで想像してしまう。
「…暇だ」
「じゃあ、どこか出かけちゃう?」
唐突に聞こえてきた鈴の音と澄んだ声が、何気ない樹希の呟きに返事をした。いつのまにか、宵華が隣で寝そべっていた。頬杖をついてこちらを眺める金色の瞳に、楽しげに揺れる狐の耳と尻尾。思考の外から来た天狐の女性に、樹希は驚いてスマホを取り落してしまった。
「…あ」
バキ、という嫌な音。見ると、画面が割れている。正常に表示されなかったり、操作の利かない部分もあるようだ。
「…ごめんなさい」
「…いや、大丈夫。どのみち年数も経ってるから、買い替え時かと思ってた所だ」
しゅんと耳を垂れさせる宵華を慰めるようにして、樹希は説明した。…どこか出かけるか、と言っていたか。いい口実ができたかもしれない。
「宵華、よかったら一緒に街に出てみるか?」
「えっ!」
その言葉に、バッと宵華が顔を上げた。垂れていた耳はピンと立ち、顔を輝かせている。まるで、初めてのおもちゃを買ってもらう少女のような表情だ。なんとなく、樹希はこそばゆい気持ちになった。
ふと、疑問が浮かんだ。宵華は神社の外に出たことがあるのだろうか?
「そういえば、宵華は巫女服と祈祷用の装束以外に何か持ってるのか?」
上機嫌そうに揺らしていた宵華の尻尾が、ぴたりと止まった。
宵華が神社にまつわる装束以外の服を身に着けている場面を見た事がなかった。
守り神として祀られる程度には長く住み着いているため、供物として奉納される品々が多い。趣味といえば山菜狩りや、最近始めたガーデニング程度のものなので、奉納品と合わせれば、それだけで生活が成り立ってしまう。そのため、生活圏が神社から広がらないのだ。聞けば、樹希の見舞いのために病院に来たのが、数年ぶりの外出だったという。
「あ~…やっぱり、これじゃダメ?」
困ったように装束の裾を持ち上げる宵華。
「……街中で、見たことはないな」
着物で出歩く人こそいるが、巫女服で歩く人は見たことはない。せいぜいコスプレくらいのものだったか。宵華が言うには、昔々に来ていた服も残してはいるらしいが、それが現代に合うのか知れたものではない。
樹希はゆっくりと立ち上がり、言った。
「まずは、服の調達だな」