幕間② 杏奈
2025/10/23 一部描写を追加、変更しています。
夫の悠介が逮捕されたという報せを聞いたのは、事件が起きたという日の夜だった。粗末な夕食をかじる杏奈のもとに、警察の方々が訪ねてきたのだ。なんでも、自分の夫が息子を刺したのだとか。意味が分からなかった。そうして、自分は身柄を保護されるとともに、榊原悠介という男についての情報提供を求められた。
事件については何も思わなかった。しかし正直なところ、自分が保護されるという状況は、杏奈に複雑な思いを強いた。
「息子を見つけた!」
どこから情報を仕入れたのか、彼がそう言って家を出て行った時、嫌な予感と共に思い出したのは、20年以上も前に訪れた神社の鳥居。自分という愚かな女は、生まれて間もない、名前すらもない我が子をそこに捨てたのだ。
唐突に訪れた苦痛からの解放。それは杏奈に罪悪感を覚えさせるものであった。息子を地獄に突き落とした張本人が、そんな簡単に救われて良いのか。それに、もし自分が何か漏らしでもして、あの男が報復に走ったとしたら…考えるだけでも悍ましい。一方で、冷静な判断を失っている自覚のあった杏奈にとって、抗いがたい申し出でもあった。
葛藤に口をつむぐ杏奈に、警察は優しい言葉を掛けた。警察は明らかに気を使ってくれており、情報提供も心が決まってからで良いと言ってくれた。それまでは、これから向かう施設でゆっくりするといいとも。いつの間に保護を承諾したのか、向かっているその施設ではカウンセリングをしてくれる場所もあるらしく、案内はされたものの、そんなものを受ける気にはならなかった。
しかし、暖かな布団に綺麗な衣服、3食十分に食べられるという環境は一種の懐かしさをも杏奈に与えた。湯舟は水分の抜けた杏奈の肌を潤し、汚れのない服は体を優しく包んでくれた。味のする食事は徐々に心を生き返らせた。後になって自分の着ていた服を返してもらったのだが、臭いが強すぎて着れたものではなかった。どうやら、自分の感覚はよほど狂っていたらしい。
一週間もすると、夜もとりあえずの睡眠をとれるだけの余裕ができ、警察の事情も聞いてみようという気にはなった。どうやら警察も、その時期を見極めていたようだ。
そうして事件のあらましを聞いて、改めて杏奈は衝撃を受けた。悠介は被害者に対して、DNA鑑定を行ったという。そしてその結果、被害者である樹希という青年はまぎれもなくあの男の実子だったのだという。
「息子を見つけた」。あの言葉は事実だった。我が子は生きていた。そして、彼は他でもない夫…彼の父親の手によってその身を傷つけられていた。
悠介と結婚して間もなく、杏奈は妊娠が発覚した。性に積極的な夫の事だったので、おかしなことではない。しかしそれを機に、夫は家を空ける事が多くなり、同時に杏奈の生活は質素なものへと変貌していった。
元々遊びに出歩く事の多い人で、稼ぎや両実家からの仕送りの大半は彼の遊びに消えていた。その散財が自分の妊娠を経てから酷くなり、とうとう生活を圧迫するにまで至ったのだ。
もちろん、夫はそんな事に構わず、外で女を作っては捨てるというヒモのような生活を送っていたらしい。夫が自宅へ戻るのは毎月、両実家が仕送り金を送ってくれる日のみ。口座に最低限度の金額を残し、杏奈に1週間分の食費を渡すと、さっさと家を出ていくのだった。そして、食費が尽きるギリギリになると、ふらりと家の敷居をまたいでもう1週間分の食費を置き、また出ていくというのが常だった。
外出はおろか、衣住の確保すら困難。極限に近いこの環境下で、自分の体とお腹の子供が陣痛まで保ったのは奇跡と言っても差し支えないだろう。そして、何を思ったのか夫は杏奈を入院させ(見たこともないマタニティウェアさえ用意していた)、出産自体は無事に済んだ。
もしかすると、我が子という存在が夫の中で大きくなって、自分や家庭に目を向けてくれるようになったのでは…?そう思った。いつの間に連絡したのか、「親族を待てせてはいけないので」等と説明をしてさっさと退院させられたのは不可解だったが、そんな事が気にならない程度には、我が子を腕に抱けた喜びで杏奈の心は浮ついていた。役所で出生手続きの書類を用意してもらい、家に着くまではそうだった。
家の玄関をくぐり、意気揚々と出生届を記入していると、悠介はいつものように家を出る支度を始めた。何をしているのか問うも、返答は沈黙。
「その子供、捨てて来いよ。そうだなあ、あんまり近くだとバレるから、適当に遠い所がいい」
数瞬の後に飛んできたのは、そんな言葉だった。耳を疑った。この男は何を言っているのか。
「なんだよその顔?そんな子供、僕は産んでくれと頼んだ覚えはないんだ。まあ、別に育てたければ?僕は構わないけど」
渡す金は増やさない。そう言い残して、男はさっさと出て行ってしまった。徹底的な無関心。自分には関係ないというその態度に、行き場のない憤りと失望が杏奈を満たした。
しかし、自分の気持ちが現状を変えてくれるわけではない。杏奈は悩んだ。
悠人と名付けたこの子を、自分の分身とも言える息子を見殺しには出来ない。しかし、この家で暮らすのは間違いなく不可能。自分ひとりですらギリギリ生命線を保てているところに、生まれて間もないこの子の世話を満足に行えるわけがない。何より、あの男が息子に何かしないという保証はない。
幾度も逡巡を繰り返した末、杏奈は部屋の隅に放置された段ボールで即席のゆりかごを作り、ボロボロの衣類を敷き詰めた。悠人は、あの日悠介が買ってきたマタニティウェアでくるんでやり、その粗末なゆりかごの中に寝かせてやった。そうして机の上に合った紙とペンを掴み、寝静まった街へ繰り出した。
あてもなく歩き続け、杏奈は郊外に小さな神社を見つけた。「継寂乃杜」。そう銘打たれたその神社を見つけたのは、夜も明けそうな頃だった。距離にすればそう遠くはないだろうが、何度も泣き出す悠人をあやしながらの移動は堪えた。寝不足に疲労、栄養も整わない中、我が子に与えるだけの母乳が出せたのは不幸中の幸いだった。
神社の鳥居にもたれかかり、悠人に最後の乳を与えながら、杏奈は誰に読まれるかも分からない手紙をしたためた。
『いつか必ず迎えに来ます。それまでどうか、この子を預かっていて下さい。』
手紙とも呼べないそのメッセージを書く間、杏奈は溢れる涙を止められなかった。私は最低な人間だ。この手で自分の子を守る手立ても見つけられず、博打に出ている。それでも、自分と共に生きるよりも間違いなくマシな人生を送れる。そう信じるしかなかった。
一縷の望みを継寂の神社へ託し、杏奈は地獄へと帰った。帰り道、役所へ寄って離婚届の書類をもらってきた。結局それは後日悠介に見つかり、しこたま殴られる事となったのだが…それから落とされる金が若干増えたところを見るに、ちょっとした牽制にはなったのだろう。
あの子はもうこの手の届く範囲にはいない。夫も居場所を知らない。あの男の性格を考えると、境遇の改善は見込めないだろうし、親や警察に泣きつけば子供をどうするか分かったものではない。それでも、今はできる限り身を固めなければ。
そう、決意していたのに。息子は、父親の魔の手にかかってしまったという。蒼白な顔をする杏奈に、警察も慌てて事情を説明した。樹希と改めて名付けられた我が子の傷は浅く、また周囲の人物の助けもあって命に別状はないのだそうだ。
それを聞いた杏奈の頬には、つうと一筋の涙が流れた。息子は生きていて、しかも良い人々に恵まれた。もしかすると、その人達は彼の家族なのかもしれない。子を捨てた罪がその程度で薄れる事はないがしかし、20数年祈り続けた事実が目の前にあった。それだけで、杏奈には十分だった。
我が身を焼いてでも守ろうとした宝物であり、同時に枷でもあった息子を心配する必要は、もうない。残すは、自分と夫との決別のみ。これからは、頼れるもの使えるものは何だって利用して、あの男との決着をつけてやる。
…もしかしたら、もっと別の選択肢はあったかもしれないが、それはたらればの話でしかない。榊原悠介との決別は、杏奈が人間として生きなおす為の儀式であり、義務だ。迷うことはない。
心を決めた杏奈の瞳に、もう絶望はなかった。




