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狐の巫女と捨て子の神主  作者: なんてん
2章.菩提樹の接木
23/48

幕間① 俺の兄ちゃん

2025/8/19 末尾に少し文章を追加しました。

 榊原を捕縛し、警察に引き渡した後。父泰然は、安堵にむせび泣く宵華を遠巻きに眺めていた。隣にいる耀も同様にしているが、少女が泣く光景に慣れていないのだろう、視線を社務所の中に向けている。

「これで、一応は一件落着かな」

「…そうだといいな」

「兄さん、命に別状はないって」

「……それは良かった」

「…父さん」

「…ああ」

 自分の言葉に生返事をする泰然に、耀はゆっくりと視線を向けた。

 樹希が実父の凶行に倒れた事は、未だに実感が沸かないのが正直なところだ。うずくまり、血だまりを作る彼の姿にどうしようもなく動揺した事は覚えているが、それ以外の事柄についてはどうにもヴェール越しに見ているような気分が抜けない。自分の口から出てくる言葉さえ、ありふれたドラマのワンシーンを聞いているような感覚だ。

 …あるいは、父も同じ心持ちなのだろうか。


 最初、樹希の実父を名乗る男が神社を訪ねてきた時、もしかすると、彼についていった方が樹希は幸せになれるのではないかという考えが、耀の脳裏を過った。

 もちろん、今となってはそれは間違いだと断言できる。あの時も、榊原の妙な言動や態度が気にかかった。しかし、それでもここにいるよりはマシなのではないかと、そう感じたのも事実だ。

 それだけの傷を、自分は兄に刻み付けたのだと、そう自覚していたからだ。


―――


 樹希は真面目で、しかし面倒見の良い1つ違いの兄だった。物心ついた時から共に境内を駆け回り、遊んでいた。

 耀から見た樹希はなんでも知っていて、何をさせても卒なくこなす人物だった。学校で兄の話をするたびに、賞賛の声をかける同級生たち。樹希は耀の憧れであるとともに、自慢の兄でもあった。

 耀に対していつも笑顔を絶やさない兄。何でもできる兄。その彼が唯一、悲しげな顔を見せる場面があった。意地の悪い神職たちが、「ステゴ」「ヒロイゴ」等という言葉を浴びせかける時だった。意味の分からない言葉だったが、彼らや兄の表情を見ると、良い言葉ではないという事だけは理解できた。

 兄に似て好奇心の強い耀だったが、その言葉だけは知りたいと思わなかった。

「兄ちゃんをいやな気持ちにさせる言葉なんか、知らなくてもいい」

 突然そんな事を言い出す自分を、兄は驚きながらも笑ってくれた。


 耀と樹希はとても仲のいい兄弟だった。その分喧嘩もよくした。喧嘩というよりも、競争のような表現が近い事が多かったが、時には取っ組み合いになるような事態に発展することもあった。そういう時には、泰然から大目玉を喰らい、後で2人で笑い合って仲直りするのだ。

 喧嘩の原因はどれも些細な事だった。テストの点数が良かった、嫌いな物をたくさん食べた、湯船に何秒長く浸かった…実にかわいらしい内容だ。それでも2人は、真剣に競い争った。度の過ぎた喧嘩は泰然の介入があったが、そうでない時は父も微笑ましそうに2人を眺めていた。

 あの時も、そうだと思っていた。


 ある夏の昼下がり、耀は樹希と虫取りで競争していた。朝食を食べた後すぐに外に出て、正午までの間により多くの虫を取った方が勝ちというものだ。勝負は互角。耀はこれが最後の獲物だと、木に止まる大きなセミを狙っていた。

 このところ、耀は負け続きでイライラしていた。それもいつも互角の勝負で、最後の最後に樹希が僅差で勝ちを掠め取っていくのだ。樹希ももちろん必死だった。必死の表情で勝利をつかみ取り、その喜びと安堵を噛みしめるのだった。それを横で見る耀は、悔しさのあまり地団駄を踏んだり、泣き出す事もあった。

 今日こそは悪い流れを断ち切らなければ。必死の形相で目の前の獲物ににじり寄っていた所に、視界の外から兄の虫取り網が現れ、耀の狙っていたセミを捕らえたのだった。

「あああもう、また負けた!なんでだよ!!」

 我慢の限界だった。地面に虫取り網を叩きつけ、兄を悪しざまに罵りだした。最初は我慢強く宥めようとしてくれた兄だったが、その表情にだんだんと怒りが見え始め、口論になった。

 いつもの流れだ。この後、どちらかがとびきり強い悪口を言って、取っ組み合いになる。そうして、傍で眺めている父が仲裁に入り、2人にゲンコツをくれてやるのだ。

 泰然は家から出てきて、2人の様子を眺めていた。勝負には負けたが、口喧嘩では兄を負かしてやらないといけない。使命感のようなものが気持ちとしては近かっただろうか?

 浮かんだのは、あの言葉だった。兄が唯一、悲しそうな顔をしたあの言葉。あれを言ってやれば、勝負に勝てる。そして、父が仲裁に入って仲直り。その程度の気持ちだった。

「ステゴの癖に」

 前後に何を言ったかは覚えていない。弟から出たその単語を耳にした兄の顔が、どうしても頭から離れなかったから。

 いつものように言い返してくると思った。けれど、一向に言葉は返ってこない。

 どうして兄ちゃんはそんな顔をしているの?その疑問だけが頭に浮かんだ。

 まるで、宝物を壊されたかのような。家を一夜にして失くしたかのような。今まで見た事のない兄の表情に、未熟な耀でも、何か空気が変わったことは分かった。こんなにも近くに兄がいるのに、もう手が届かなくなったような気持ちが耀を襲った。

 刹那、今まで聞いたこともない父の怒号が耳を劈いた。驚きと恐怖で、何を言われていたのかは分からない。とにかく、自分は何かとんでもないことをしでかしたのだという事実だけは伝わった。

 そうして父の恐怖に耐えている間も、兄は突っ立ったままだった。あの奇妙な表情を顔に張り付けて。その目には、耀も泰然も映っていないようだった。

 今になれば思う。自分は、嫌でも知るべきだったのだ。捨て子の意味と、それが兄にとってどのような意味を孕んでいたのか。


 その夜。兄は静かだった。耀にも笑いかけてくれるが、いつもと何かが違った。なんとなく、よそよそしいのだ。その違和感が気持ち悪く、父へ抱いた恐怖も残っていたので、うつむきながらもそもそとご飯を食べていた。

 その時、おもむろに父がテレビをつけた。居心地の悪い空気が変わると思って耀は助かったが、やっていたのはなんだか気持ちの悪い植物の紹介だった。他の草花にキセイするのだとか。よく分からない。教えてもらおうと思って兄を見ると、とても悲しそうな顔をしていた。今にも泣きだしそうな、でも泣いてはいけないと必死に我慢しているような顔だった。そんな顔の兄はそっと立ち上がり、部屋へ戻って行ってしまった。


 翌日からも兄はこれまで通り接してくれた。変わった事と言えば、今までのような競争をしてくれなくなった事と、呼び名が「耀君」になった事くらいだ。最初こそ嫌だと泣き喚いた気もするが、すぐに慣れた。

 …慣れたというよりは、そんな事をする資格は自分に無いと、徐々に理解していった。そうして、いつしか自分も兄に対して距離を置くようになっていった。

 数日ののち、捨て子の意味を、あの意地の悪い神職から教えてもらった。あの人はばつの悪そうな顔をして、翌日には退職したらしい。気楽なものだと、幼いながらに思ったことを覚えている。


―――


 かつて兄は、弟から居場所を奪われた。そして今、彼の帰る場所は、人格を否定されるような地獄だと、実父直々に教えられた。どのような心境なのか、耀には想像もつかない。駆けつけた時にちらりと見えた、血と涙に塗れた兄の顔。それは、かつて自分がさせた顔と重なった。

 この数年、既に兄との和解は望んではいない。それを望む資格は、自分にはない。

 その代わりに考えるようになった事がある。彼に、樹希にささやかでもいい、誰か居場所を与えてあげてほしい。何も思い悩むことなく、心穏やかに過ごせる、安心に満ちた場所。

 樹希はきっと、神社での仕事に居場所を感じている。年若さに見合わぬ働き方をする彼を見ていれば分かる。必要とされる事に安心を感じている。であれば、自分の役割は彼に仕事を振る事だ。次期宮司として、少しでも彼に安寧をもたらすために。

「…耀」

 耀が思考に沈んでいると、ぽつりと、傍らの泰然が小さく呼んだ。

「なんだよ?」

「榊原に刺された時…あの子は、私を父と呼んだよ」

「えっ…」

 耀は息を飲んだ。衝撃だった。長年父を父と呼ばなかった樹希が。まさか、自分たちを選んでくれたというのだろうか。

 信じられない気持ちの影に、かすかな希望を見た気がした。それに手を伸ばしていいのか、自分には分からないが…ほんの少しだけ、罪が雪がれたように思えた。

「私は…あの子に赦してもらえたのだろうか」

 言葉を詰まらせながら、隣に立つ父が続ける。

「あの子の父を名乗る資格を、得られたのだな…」

「父さん、何言ってんだよ」

 つい、口を出してしまった。こんな事を言える立場でもないのに。

「そんなもの、なくたってさぁ…」

 なんだか涙が止まらなくなってきた。そりゃあ、嬉しいに決まってる。壊してしまった宝物を、その持ち主はせっせと直して、自分たちの元に持ってきてくれたのだから。

「あいつは俺たちの家族だよ…っ」

 きっと兄は、自分たちの前に笑顔を見せてくれるのだろう。樹希とは、そんな奴だ。

「……ああ、ああ、そうだったな…」

 今度こそ、きちんと謝れたらいいなあ。



「救急車、到着いたしました!怪我人はどこに?」

 2人で涙ぐんでいると、何故か2台目の救急車が走ってきた。兄は既に運ばれて行ったのだが…理解が追いつかず、ポカンとしてしまう。

「先程、別の救急車が運んで行かれましたが…」

 父も訳が分からないといった様子で、なんとか受け答えをしている。救急隊の方も、首を傾げている。

「いえ、こちらには2件の通報がありまして…え?」

「「え?」」

 3人でフリーズしてしまった。そこに社務所から、頭を抑えながら須々木が出てくる。そう言えば彼女も怪我人といえば怪我人だ。

 手ぶらで帰っていただくのもアレなので、疑問符でいっぱいの須々木を搬送してもらう事にした。なんだこれは。

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