16話.父親の愛
2025/10/03 一部表現を若干変更しています。
震えが止まらなかった。目の前の男は、間違いなく、樹希の父親であった。
「さあ、これで分かっただろう?悠人、僕たちは正真正銘の親子だ!お母さんも待ってるよ、一緒に帰ろう!」
半ば放心状態のような樹希の腕をひっつかみ、榊原は連れ帰ろうと引っ張る。その力に、樹希への配慮はまったくない。
「何をしているのです」
榊原が社務所の出口へと向かおうとした時、静かな声が奥から響いた。泰然が1階のやり取りを聞きつけ、戻ってきたのだ。
「おや、神主さん。数日ぶりですね」
余裕の笑みを浮かべる榊原。その表情は、どこか泰然を嘲笑っているようにも見える。
「榊原さん。まずはうちの従業員を離しなさい」
従業員という単語を強調して、泰然は告げた。これは個人間の問題ではなく、神社全体の問題として対処するという意思表示だった。
「へえ、育てた子供を従業員扱い。あんたの愛の程度が知れるね」
挑発めいた返しをしつつも、榊原の顔が不愉快そうに歪んだ。
有無を言わせぬ圧を感じさせる泰然の態度に、榊原は舌打ちしながら樹希を掴む手の力を緩めた。しかしすぐに、その表情には優越の笑みが戻る。
「神主さん。今日は正式に悠人を引き取りに来ました。ほら、この前あんたが言ってた証拠」
もはや不遜な態度を隠そうともしない榊原。その手から放り投げられる、親子の証明。
目の前のデスクに放り出された鑑定結果に一瞥をやるも、すぐに泰然は榊原に向き直った。その仕草に、榊原はピクリと眉を跳ねさせる。
「先日、私が要求したのは、親権の証明です。貴方が持ち込んだのは、血縁関係の証明書に過ぎない」
「親権?血縁と何の違いがあるっていうんだ。どっちでも同じことだろう?僕は悠人の実の親だ。血の繋がっていないあんたなんかと一緒にいるよりも、僕について来る方が幸せに決まってるさ」
一瞬怯んだのも束の間、榊原はそう告げた。単に無知なのか、それとも泰然の話を聞くつもりがない事の証左か。反論になっていない反論をする榊原は余裕の笑みを崩さない。あたかも、自分の勝利を確信しているかのようだった。
ニヤけた口から流れ出るその言葉の端々から滲み出るのは、単なる自己陶酔と優越感だけだった。樹希への憐憫や罪悪感、そして何より、父としての愛情…そんなものは欠片ほども感じられない。樹希には、それが悲しかった。
この男と共に神社を去ればと…少しでも葛藤を抱いたのは間違いだった。
泣きそうな樹希の表情を見た泰然は、悲痛に顔を歪め、ため息をつきながら言葉を返した。
「榊原さん、結果報告書は隅までお読みになられたか?注意事項にも記載があるはずです。この"鑑定結果はあなたと樹希の血縁関係を証明するもの"であって、"法的な親権の付与や主張を保証するもの"ではありません」
またも榊原が黙る番だった。泰然の言葉に一瞬呆気にとられながら「そんなもの、悠人の意思さえあれば関係ない…」と口ごもるも、泰然は構わずに続ける。
「反論にもなっていませんな…ではその息子の顔を見なさい。あなたとの再会に喜んでいるように見えますか」
「…なんだと?」
泰然の表情には、もはや榊原への哀れみさえ浮かんでいた。自分の子供を認識できない父親とは、なんと可哀想なのだと。
泰然の言葉、所作、表情。何もかもが、榊原の余裕とプライドをいとも容易く崩していく。もどかしさのあまり、榊原はギリギリと歯ぎしりを始めていた。
「捨てられていたこの子は新生児だった。不備があったのか、そもそも提出をしなかったのか…事情はどうあれ、出生届も出ていなかったのでしょう。特別養子縁組の認可も、驚くほど早期に下りました」
もはや泰然の眼には榊原は映っておらず、息子のみが視界にいた。
その大樹の如く優しげな眼差しに、樹希は涙を堪えきれない。
「私には彼の親権も、責任もある。繰り返し申します。樹希は、私の息子…」
「泰然宮司ー」
不意に、入口の方から少女の声。泰然も榊原も、樹希もそちらを見やった。そこにはアルバイトで巫女をしている、須々木早苗が立っていた。手には、鞘に入った小太刀。今日奉納する予定のものだ。
「取り込み中でした…?」
「……いや、手短なら問題ない。どうしたのかね?」
申し訳なさそうに尋ねる彼女に、泰然は用件を促す。
「最終確認をしてたんですけど、この小太刀、刃欠けがあって…佐伯さんに、泰然宮司に報告してきてほしいって言われて」
そう言って鞘から刀身を覗かせる須々木。その瞬間、榊原の瞳が獰猛に光った。
その表情の変化に、泰然が気づくか気づかないかの刹那。「見せるな!」という泰然の制止が虚しく響く中、榊原は小太刀を奪い取り、須々木を突き飛ばした。後ろのデスクに体を打ち付けた須々木に目もくれず、そのまま抜き身の刀身を前に突き出して泰然に駆け寄った。
「ごちゃごちゃうるさいんだよさっきから!悠人は僕の息子なんだ、さっさと僕の悠人を渡せよ!」
「!!」
思わず目を瞑る泰然。しかし、痛みも衝撃も、泰然を襲うことはなかった。
恐る恐る目を開けると、目の前には樹希の背中。樹希と向き合う形で立っている榊原は、信じられないものを見るようにして実子を、正確にはその腹部を見つめている。
直後、泰然の目に入ったのは、膝から崩れる樹希と、その足元に滴り落ちる赤黒い液体。
次いで響く、須々木の悲鳴。一瞬にして、社務所は地獄のような様相を呈した。