13話.父親
2025/09/09 描写を若干変更・追加しています。
翌朝、樹希はあくびを噛み殺しながら出勤の支度をしていた。警戒ゆえの同室とはいえ、宵華の隣で寝るという状況は樹希には刺激が強く、緊張してよく眠る事ができなかった。
当の宵華は、寝床ですやすやと寝息を立てている。人の気も知らずに…と内心苦言を呈しながらも、その顔に吸い寄せられる自分の視線を必死に逸らした。
結局、夜の間は何事もなかった。あるといえば、やはりあの刺すような視線。気がかりでないと言えば嘘だが、宵華が大丈夫と言っていたので問題ないのだろうし、そもそも何か出来ることも無いのでそう思うしかない。他は、普段通り平和な夜だった。
別に早く出る必要もないのだが、普段早朝に掃き清めをするのが癖づいてしまっている樹希は眠い目をこすりながらも、着々と支度を整えていった。
それでもいつもよりゆっくりと準備をすすめた為、時間的には始業までに何かする余裕があるわけでもない。昨晩のカレーの残りを腹に詰め込んでから体を軽くほぐし、さっさと宿舎を出ることにした。
秋口にも入ると、早朝の空気は冷たい。宿舎を出ると、その冷気をまとった風が容赦なく樹希の身体をかすめていった。
思わず体が震えるが、同時に眠気で靄のかかった思考を研ぎ澄ましてくれた。
「今日は何かあったかな…」
ご供養の依頼が入っていた気がする、等と今日の予定を思い返しながら歩いていると、小酒館の前に見知らぬ男が立っているのが見えた。
参拝客という訳でもなく、何か依頼があって訪れたという雰囲気でもない。そもそも今は開放時間外、この時間に部外者がいるという事は、言わば不法侵入にあたる。樹希は立ち止まり、訝しげな表情でその男を眺めた。
トレンチコートに身を包んだ長身痩躯のその男は、こちらをジッと見つめており、樹希が自分に気づいた事が分かると足早に歩み寄ってきた。
「悠人!」
そして両手を広げながら樹希の目の前まで来て、唐突に彼の事を抱きしめた。
樹希の思考が停止する。
なんだこの男は。何故自分は見知らぬ男に抱きしめられている。煙草と酒の臭いが鼻につく。悠人とは誰だ。自分の事を言っているのか。纏まらない思考がとめどなく溢れ出てくる。
「やっと会えたね…探したんだよ、悠人!」
混乱している樹希の様子を顧みることもなく、聞き覚えのない名前を繰り返す男。ぐちゃぐちゃとかき乱れる脳内の思考を必死に隅に追いやりながら、とにかくと一旦男を引き離した。
「誰ですか貴方」
絞り出すようにして、樹希は何とかその疑問だけを投げかけた。
尋ねた樹希の表情や声色に、強い警戒の意思が出ていたのだろうか。男は手を挙げながらパッと引き下がった。柔和そうな表情を浮かべる男はしかし、気持ち悪いほど樹希をじろじろと眺めまわしている。
非常識な時間に、体中を這い回る視線、そしてこちらの都合を無視したような、突拍子もない行動…おそらく、この男が田中さんの言っていた不審者なのだろう。まさか自分に矛先が向いていたとは、予想もしなかった。
(あの時、神主さんにも忠告を受けていたのに)
「ああ、ごめんよ。感動のあまりつい…」
樹希の内省をよそにそう言いながら、男は榊原 悠介と名乗った。そして再度、樹希へ向けて一歩踏み出した。
「僕は君の父親だ。迎えに来たよ」
その言葉は、樹希を一層混乱に陥れるものだった。
父親?この男が、自分の実父?こいつは何を言っている?もしそれが事実だとして、何故今になってやって来た?
樹希が思考を巡らせている間にも、「さあ、一緒に帰ろう」等と言いながら、榊原は自分に近づいてくる。そしてその手が樹希に触れようとした。
「それ以上近づくな」
刃物のような声が後ろから響き、榊原の手がピタリと止まった。彼の目線を追って振り返ると、宵華が榊原に対して鋭い視線を送っていた。
まるで別人のように低く、鋭い声で、宵華は続ける。
「何者だ。この土地へ不法に侵入し、貴様は何を企む」
「おお怖いお狐様だ。僕はただ、息子を迎えに来ただけなのに」
一切の誤魔化しを許すつもりのない宵華の声音。対して威圧的な彼女の問いにも飄々《ひょうひょう》とした笑みを崩さない榊原は、からかうような口調で返答する。張り詰めた空気が辺りを漂い始めた。
その空気を最初に破ったのは、樹希だった。
「ここにいてもどうしようもない。榊原さん、あなたの話は社務所で伺います。…宵華、一緒に」
あくまで警戒を崩すことなく、双方に伝えた。榊原はその申し出に満足げに頷く。宵華も、侵入者の手から樹希を守るように位置取りをしながらも、樹希の提案を受け入れた。
提案を飲んだ2人を連れ立って、樹希は社務所へ向かった。まずは宮司である泰然に助けを求めなければ。