12話.休息
宿舎内は樹希の部屋、腰を下ろしたところでようやく2人は気持ちを落ち着けることができた。それでも夕方に聞いた話は頭から離れず、むしろ冷静になった頭で、嫌な予感と正面から向き合う必要に迫られてしまった。
「気の抜けない状況になってしまったな」
「そうね…」
特に自分達が不利益や不快感を被ったわけではないが、あのような話は聞くだけでも体力を消耗してしまう。それも、まだまだ予兆の段階であり解決には程遠い現状では、言わずもがなである。
樹希はちらりと宵華の様子を窺った。、尻尾は所在なく動き回り、耳はピンと立ったままである。荒事を経験しているとはいえ。いや、しているからこそ、気を張り詰めているのだろうか。
あまりピリピリとしていても仕方ないと、樹希はおもむろに立ち上がり、台所へ向かった。まずは腹ごしらえだ。お腹が満たされれば、この不穏な気持ちも多少は落ち着くだろう。
「今日は何を作るか…」
旬ということで買っておいた夏野菜は、そろそろ使いたいところだ。肉はあまりないが…
「カレーがいい」
冷蔵庫の食材を眺めていると、横から宵華が顔を出した。口には、いつの間に取ったのかソーセージを咥えている。
「夏野菜のカレーがいいな。そこのナスは奥よりも手前が傷みかけてる。それから、かぼちゃは残り全部使っちゃった方がいいかも」
お肉はこのソーセージを入れましょ、と次々と食材を指定していった。どれもこれも、樹希が使ってしまおうと考えていたものだ。
「さすが。いつ聞いてもすごいな、宵華のそれ」
どういうわけか、宵華は食材に関する判断が非常に精密だ。これまでも酒盛りが物足りない時は樹希の住居に転がり込んでくる事が多々あったのだが、そのたびに彼女の特殊能力、とでも形容すべき特技を見せつけられてきた。
ある時は水道水を一口飲んで、「ここ、浄水器をつけた方がいいかも。あんまり体に良くない成分の味がする。水道管整備は時間がかかるでしょ?」と忠告が飛んできたり、またある時には「今日はよくないお酒を引き当てちゃったー…あんまりうまく仕上がってなかったのよね、樽の質が落ちちゃったのかなーと思ったら、傷んでたのよ」などと愚痴をこぼしていた事もある。
味覚にまつわる宵華の特技は食事のみにとどまるものではない。実際樹希は幼少の頃、彼女のそれに助けられたこともあった。
山菜狩りに連れて行ってもらっていた時、宵華はその辺に生えている草花を手当たり次第につまみ食いしているように見えた。
樹希もそれに倣って、気になった物は口に入れてみていたのだが、ある時その行為が牙を剥いた事があった。樹希の口に入れた植物の中に、毒性の強い物が混じっていたのである。
当然ながら、そんなものを口にした樹希は腹を押さえて倒れ込んでしまった。唐突に倒れた樹希に慌てた宵華は、何を思ったか周囲の植物を見回し、特定の物だけを口に入れては小さなすり鉢に入れていった。
ある程度の量が採れたところでそれらをすりつぶし、携帯していた水に混ぜて樹希に飲ませたのだ。
口腔内を襲うとんでもない苦みと、激しさを増していた腹痛とで幼い樹希は泣き出してしまったが、その後不思議なことに、腹痛が見る見るうちに治まっていったのだった。
帰ってから、樹希は泰然にこっぴどく叱られたが、その時に宵華が神社で薬師のような事もしているのだと聞いた。泰然にもそのからくりは分からないそうだが、なんでも彼女は口に含んだものが毒なのか薬なのか、果てはその細かな成分まで、判断できるのだそうだ。山中に繰り出す際、小さなすり鉢や妙に大きな水筒といった荷物を常に身に着けていたのも、その特性と慣習かららしい。
どんな時にも、彼女の成分分析や考察は的確で、分析が外れた事は樹希が記憶する限りでは、ない。本人曰く、「天狐の一族は何らかの身体能力に秀でている事が多い」そうだが…
(そういえば、神社の書物にもそんなような事が書かれていたな…)
宵華の能力を目の当たりにするたび、このような事を思い出すのだった。
「でも今日は食べてるの、ソーセージだけだよな?なんで野菜まで分かった?」
疑問に思ったことを口にした。尋ねられた宵華はさも当然のように答える。
「匂いかな。ほら、鼻と口ってつながってるじゃない?匂いを口の中まで運んであげたらなんとなく分かるの。私の舌、優秀だから」
そう言ってチロリと舌を出す宵華。その目を惹くような鮮やかな緋色には、言いようのない魅力を感じてしまう。目を離したくないという欲望に必死に抗いながら、「な、なるほどな。とにかく、いつも助かるよ」と樹希は何とか答えて調理に取り掛かることにした。
(料理は無心になれる…今の光景は忘れろ…)
昨晩から、どうにも宵華の仕草に心を乱されてしまっている。彼女に対する好意を自覚してしまったからか、それとも昨晩の勘違いを引きずっているのか…
「…痛っ!」
余計なことを考えてしまったせいで、包丁で指先を切ってしまった。台所を離れ、救急箱を取り出す。宵華もそれについてきた。
「切っちゃった?大丈夫?ごめんなさい、邪魔しちゃったかしら」
申し訳なさそうに耳を垂れさせる宵華を横目に処置をしようとするうち、ちょっとした好奇心が樹希の中に芽生えた。
「宵華って、血液型もわかったりするのか?」
「えっ?…ああ、うん、多分わかる…かな。薬師の仕事柄、けが人の血を口に含む事はあるから」
唐突な問いに目を丸くしながら、宵華は答えた。
じゃあ試してみて、と彼女の前に指を突き出す。意中の相手に自分の血を舐めさせるなどという意味の分からない状況を作ってしまったが、気になるものは仕方がない。
…とはいえ、さすがに指を舐めさせる事はためらわれたので、救急箱の中にあった綿棒に滴る血液を吸わせ、舐めてもらう事にした。…何をやっているんだ俺はと、冷静な部分が冷たく言っているのを感じる。
「えっと…樹希はB型だね。BO型で、Rhは+。合ってる?」
正解だ!…と言いたいところだったが、そういえば樹希は自分の血液型を知らなかった。これまで大きな怪我もなく育った上に、泰然は育ての親であり産みの親ではない。
捨て子ゆえに母子手帳なんかも所持しておらず、およそ血液型が分かるものを持っていなかった。もちろん健康診断などは参加しているが、自分の血液型など尋ねたこともない。
ここまでさせておいて、まさかこのようなしょうもない見落としをしているとは思わなかった樹希は、バツが悪そうに項垂れた。
「…ごめん。俺の好奇心でさせておいて」
今朝に引き続き、とてもいたたまれなくなってしまった樹希を、苦笑しながらも宵華は慰めてくれた。
「そんなに気にしないで大丈夫よ。それより、手当も終わったんでしょ?手伝うからご飯作っちゃお?」
宵華が…手伝う?
聞いた途端、樹希は慌てて立ち上がり、台所へ向かった。それだけはまずい。台所には、自分が立たなければ。
「い、樹希?」
「そうだな、さっと作ってしまおう!指も問題なく動かせそうだ!調理を始めると台所は手狭になるから、宵華は食器を並べていてほしいな!」
呆気にとられる宵華に目もくれず、切った食材を鍋に放り込んでいく。加熱し、味付けも整ったところで、ようやく樹希は一息ついた。上を見上げ、黒く焦げ付いた天井をぼんやりと眺める。
味覚も食材選びのセンスも、超が付くほど優秀な宵華をなぜ、台所に立たせてはいけないのか。彼女は、調理器具の扱いが絶望的に下手くそなのだ…。
小さなハプニングや馬鹿げた思いつきがありつつも、カレーはうまく出来上がった。2人で舌鼓を打ち、腹も膨れたところで、今度は心地よい眠気が顔を見せ始めた。
「さて、そろそろ寝る準備を始めないとな」
同じくくつろいでいる宵華に声をかけた。ゆったりと樹希に向き直り、頷きで返す。
「じゃあ、隣から布団借りてくるね。それから、お風呂も入らなきゃ」
そう言いながら宵華は立ち上がり、さっさと部屋を後にした。
ん?布団を持ってくる?この部屋に?ゆらゆらと揺れる彼女の尻尾を見送りながら、ふと考え至る。寝るだけならば、別々の部屋でもいいのではないか?
(昨日今日で、急に宵華との距離感が縮まった気がする…)
布団を敷きながらあれこれと考え始める前に、宵華が戻ってきた。宣言通り、1人分の布団を抱えている。そしてその抱えた布団を、樹希の隣に敷いた。
「夜だから外部の人は入ってこないだろうけどね。念のために、2人一緒にいましょ?」
敷いた布団に座りながら宵華はそう言い、軽く首を傾げた。
その様子に見惚れそうになった瞬間、窓から鋭い視線を感じた。反射的に顔を向けるが、当然窓の外は暗闇である。
「大丈夫よ」
不意に宵華の声がかかった。見ると、隣で宵華も窓の先を見ている。穏やかな表情だ。
「大丈夫」
そのまま、同じ言葉を繰り返す。いつの間にか、刺すような視線は感じなくなっていた。
「さ、お風呂先にいただくね」
宵華もそれを感じたようで、微笑みながら浴室へと向かっていった。
…宵華は大丈夫と言っていたが、あの感覚は何だったのだろうか。腑に落ちない樹希は、しばらく窓越しの暗闇をじっと見つめていた。