8話.初めての顔
「神主さん、耀君、ごめん!」
社務所について早々、樹希は深々と頭を下げた。隣では、しゅんとした表情で耳を垂れさせた宵華が立っている。
幸いにも午前中には祭事やご供養・祈祷の依頼がなかった為、彼女がわざわざついてくる必要はなかったのだが…「私のせいで遅刻しちゃったわけだし…」との事だった。
「まあまあ、頭を上げて」
「兄さんが宿舎の電話に出ないからどうしたのかと思ったけど、何もなくて本当に良かったよ」
泰然は鷹揚に、耀は安堵したように、それぞれ2人を許してくれた。社務所に用のない宵華もついてきていた事には若干驚いた様子で、泰然は「おや、狐巫女殿まで。……ほう」と呟いていたが。
「とりあえず、朝の業務は済ませてるからさ。兄さんはまず身なりを整えてきなよ」
仕事用の服を渡しながら、耀が樹希を促す。さすが次期宮司、仕事が早い。とりあえずの安心感から呑気な事を考えながら、奥の更衣室へ急いだ。
宵華は午後の祈祷の準備をするため、祭祀場へ向かうと言っていた。本来は宵華自らが準備を行う必要はないのだが、樹希と宵華の2人が遅刻したことに加え、設営の大黒柱である佐伯琴音が今日に限って休みの日なのであった。
さすがに天野親子もそこまでは手を回せなかったようで、泰然が「畏れ多くも狐巫女殿が整えて下さるなら、こちらとしてはとてもありがたいですな…」と苦笑していた。
祈祷の前に清祓をするのが通例だが、宵華なら設営のついでに清祓もできて手間が省ける、という事情もあるのだろう。いよいよもって、遅刻した事実がいたたまれなくなってしまった。
その日は結局、午後の祈祷依頼も一件のみ。その他の業務も午前の内にあらかた段取りを組んでしまっていたようで、人数の少なさにも関わらず余裕ができた。
なぜか心得顔の泰然はともかくとして、耀は「きっと疲れがたまってたんだよ」と長めの休憩時間を取らせてくれた。
自分の過失で勘違いされるのも申し訳ないが、せっかくの厚意を、しかもその為の準備まで済ませてくれていたのであれば、受け取らないわけにはいかない。2人の気持ちに甘えて、少し境内の散歩に出ることにした。
休憩に入る頃には祈祷も終わっており、撤収作業も既に完了していた。
ふと、宵華の事が気にかかった。同じく慌てたり、少し責任を感じている様子だったが、祈祷の方はつつがなく終えられたのだろうか?
散歩がてら彼女を探しに、普段は足を踏み入れない祭祀場奥の空き地に向かってみた。
空き地に近づくたび、かすかな鈴の音がはっきりと聞こえるようになる。どうやら予想通り、宵華はここにいるようだ。
「宵華。…あ」
果たして、そこには宵華の姿があった。目の前にある花壇の世話をしているようだ。
尻尾をゆらゆらと揺らしながら花を見るその表情は、樹希も見たことのない慈しみに満ちている。心なしか、その付近だけが澄んだ空気をしているようにも感じられる。
宵華も、樹希の声に気づいたようだ。ゆっくりと樹希の方へ向き直り声を掛けてきた。
「あ、樹希。こんなところまで珍しいわね。どうしたの?」
にこやかに応じる宵華の顔を見ると、樹希の顔はわずかに赤みを帯びた。昨日の今日なだけに、直視は中々に恥ずかしい。先ほどの彼女の表情を見てしまった事も追い風だ。
(あんな表情も、するんだな…それに、なんて綺麗に手入れのされた花壇だ)
初めて見た彼女の一面に小さく動揺しつつも、樹希は務めて冷静を装い、返事をした。
「業務に余裕ができたんで、長めに休憩をもらえたんだ。疲れてるんだろ?だってさ。それに、宵華も今日は何ともなかったかなと思って」
そう言いながら、樹希は午前中の惨状を思い返していた。
―――
着替え(渡されたのは作務衣だった。神主さんも耀君も、はなから自分を休ませる気満々だったようだ)を済ませてから、境内の掃き清めに店頭の商品整理、倉庫内の掃除などの雑務に取り掛かった。
およそ禰宜が行うものとは思えない、しかも特別楽な内容だ。普段遅刻などという粗相をしない樹希がそれをしたという事が、それほど衝撃的だったのだろうか?
とにもかくにも、采配をしてもらった以上は確実にこなさねば。意気込んで樹希は業務に臨んだが、事あるごとに宵華の事を彷彿とさせるモノに目が向いてしまって、まったく業務が手につかなかったのである。
掃き清めの最中には、黄色が目に入るたびに宵華の髪や尻尾を思い出して足元がおろそかになり、派手に転んでしまった。
店頭の鈴を見ると、銀鈴を鳴らしながら感情豊かに揺らす耳が脳裏に浮かび、どぎまぎとしている内に陳列を間違えていた。
倉庫では、宵華が時折持っている木彫りの彫刻を見つけて物思いにふけってしまい、崩れてくる荷物の山に気づかなかった。軽いものばかりだったので良かったものの、もしも大きなものでも乗っていたらと思うと…今でも少し鳥肌が立つ。
その他にも様々な失態を犯してしまい、そのたびに向けられる心配の表情や、冷ややかな視線が痛かった。