16 智花と二人で夜の温泉街を散歩した
智花と二人で夜の温泉街を散歩した。エレベーターに乗っているとき、智花は、さっきは旅館から出てすぐにナンパされたから、まだほとんど散歩していないの、と言った。僕も智花も旅館にあった下駄を勝手に履いて外に出たのだが、いまはまだ三月なので、浴衣に裸足で下駄で歩くには外はかなり寒かった。智花は浴衣の上にカーディガンを羽織っているので、あんまり寒くなさそうだった。僕は一度ひぼたんの間に戻って、浴衣の上に羽織るジャージとか甲羅とかを取ってきたくなったけど、それは結構めんどくさいので我慢して、散歩を続けた。
夜の温泉街は真っ暗で、店も全部閉まっていて、人も歩いていなかった。
智花はつまらなさそうに歩いていた。
「これは、つまらないわ。期待を裏切る、つまらなさだわ」
「僕も、ちょうど、そう思っていた」
「温泉街というのは、もっとこう、射的場とか、ピンボール場とか、見せ物小屋とか、あると思っていたのに、何このシャッターストリート」
「おそらく、いまの時代、いま智花が言ったようなものは、はやらなくなって、あるいは、後継者が育たなくて、つぶれてしまった」
「せっかく、ナンパの危険をかえりみず散歩に来たのに、むくわれないわ」
僕はうなずいた。
「むくわれないから、もう帰ろう」
「まだ、帰りたくない」
「どうして」
「もう少し先まで歩いたら、見せ物小屋があるかもしれないもの。わたしは、見せ物が見たいもの」
僕は首を振った。
「もう少し先まで歩いても、見せ物小屋はないと思う。寒いから、もう帰ろう」
僕は右手で智花の左手をつかんで、旅館のほうへ引っぱった。智花は僕の左手を右手でつかんで、反対のほうへ引っぱった。そのため、僕と智花はその場でくるくる回ることになった。
「どうして、わたしの散歩についてくるって言ったくせに、こんなに早く帰りたがる」
「僕は、本当は、智花がナンパされる危険のある散歩には、行かないほうがいいと思っていた。それでも、智花が散歩をするなら、僕がついていないと、いつもの智花ならともかく、いまの智花は確実にナンパされてしまうから、ついてきただけ」
「でも、誰も夜の温泉街を歩いていないから、誰かにナンパされる危険はないわ」
「でも、智花はさっき、まんまとナンパされた」
「そうだけど」
「だから、もう旅館に帰って、父さんたちと卓球大会をしよう」
「どうして、おじさんを、あの四人の代表みたいに言うの」
「じゃあ、もう旅館に帰って、母さんたちと卓球大会をしよう」
智花は僕の左手を引っぱるのをやめた。僕も智花の左手を引っぱるのをやめた。そのため、僕と智花はその場でくるくる回ることをやめた。
「そこまで言うのなら、わかったわ」
「じゃあ、帰ろう」
「でも、せっかく夜の温泉街を散歩しているのだから、何もせずに帰るのは、もったいないとわたしは思うの」
「うん」
「だから、わたしは、この先にあるコンビニまで行って、からあげを買うわ」
「どうして、この先にコンビニがあることがわかる」
「あそこに、光る看板が見えているもの」
智花は、民家の二階と、その民家の隣の民家の二階との隙間を指さした。たしかに、青く光る看板が見えていて、しかもそんなに遠くではないと思われた。
僕はうなずいた。
「でも、どうして、あんなに豪華な海老料理をおなかいっぱい食べたあとに、からあげを買おうとする」
「からあげの中には、すごくおいしいからあげはあるけど、すごくまずいからあげは、ないと思うの」
僕は、そんなことはないと思ったので、首をひねった。
「伸時は、これまでに、すごくまずいからあげを食べたことがある?」
僕は、これまでに食べたことのあるからあげの味をできる限り思い出した。
僕は驚いた。
「僕は、すごくまずいからあげを、食べたことがない」
智花は当たり前のような目で僕を見た。
「からあげには、はずれがないの」
「そうだったのか」
「そして、コンビニで売られているからあげは、特に、コンビニのレジのところで売られているからあげは、まず間違いなく、あたりなの」
「よくわかった」
智花はもう一度、青く光る看板を見た。
「からあげを、買う気になった?」
僕も青く光る看板を見た。
「からあげを買おう」