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8  作戦Ⅰ「ボディタッチ」

 数日後、フィオナは一冊の本を手に難しい顔をしていた。


(こ、これが巷で人気だという恋愛小説……!)


 彼女が持っているのは、可愛らしい装丁が印象的な小説本。

 今日の午前中、アナスタジアの勉強のための本を購入しようとフィオナは離宮に書籍業者を呼んでいた。


 オルセンもアルシェリンドも、近年になって国民の識字率が上がってきている。さすがに郊外になると商人などの一部の者以外は自分の名前を書くのが精一杯らしいが、王都や帝都に住まうある程度の身分の者ならば読み書きと簡単な計算ができるのは当たり前で、貸本文化も発達している。


 だがアルシェリンドでは、皇族とごく一部の上位貴族のみ、書籍業者から直接新しい本を買うことができる。

 購入された本の中で気に入られたものは城の書庫に収められ、一度読んだだけでもう十分というものであれば古本屋に回される。古本屋で買われたものがさらに価値が下がると、貸本屋に流れていくというスタイルらしい。


 アナスタジアは皇太子妃なので、当然新品の本を購入できる。そして彼女の侍女であるフィオナもそのおこぼれに与り新品同様の本を読めるというメリットもあり、読書好きのフィオナはドレスや帽子のおさがりなどよりよほど、こちらの方を喜んでいた。


 アナスタジアのために買う本の多くは歴史書や伝記などだが、「こちらもおすすめです」と、小説本も勧められた。オルセンよりもやや文化の発展が遅いアルシェリンドだが、この国でも貴族が娯楽小説を読むことが少しずつ浸透しているようだ。


 書籍業者が「若い女性の情操教育にぴったりです」と言って勧めてきた小説本は、いわゆる恋愛小説だった。一昔前なら「教養の欠片もない低俗な書物」と呼ばれた恋愛小説も、今では頭の固い中高年以外には受け入れられるようになっているそうだ。


 そういうことでアナスタジアのために買った本だが、フィオナも恋愛小説はあまり読んだことがない。アナスタジアには、「おもしろそうなものなら、先に読んでくれて構わないわよ」と言われているので、ざっと目を通してみたのだが……。


(……なるほど、これが恋愛の教本にもなるのね)


 描かれていたのは若い女性を主人公とした恋愛物語だったがそれほど過激な描写もなくて、確かにこれなら若い女性に恋愛を教える教科書にもなりそうだ。


 ……そしてこれには、フィオナの目標を達成するヒントもちりばめられていた。

 この主人公は、わりと恋に積極的な女性なのだ。


(そう、つまり、ここに描かれているようなことを、セルジュは避けているのよね)


 使用人曰く、セルジュは女性からのアプローチを敬遠しているとのこと。それはまさにここに書かれている数々だろうから、セルジュに好意を持たれないためにはここに書かれていることを実践すればいいのだ。


(早速、やってみましょう!)


 恋愛小説を本の山に戻したフィオナは、ふんす、と気合いを入れたのだった。












 小説にて、主人公が想いを寄せる男性に自分のことをアピールする手段として、ボディタッチというものがあった。


 どうやら人間は身体的距離感が縮まると否応なしに相手のことを意識してしまうそうで、まず主人公は男性の近くに行き、それから触れるようになることで相手をどきどきさせていた。


 ……ただしそれは、相手も自分のことを憎からず思っている場合に限る。


(好きでもない女にべたべた触れられたら、不快になる……きっとそうよ!)


 どうやらセルジュは誰にでも親しみやすい態度で接する好青年だが、相手からべたべたされるのは苦手らしい。ボディタッチがなければ友人として線引きできるが、それ以上踏み込んでくると鬱陶しいと思ってしまうのだろう。


(よし、これを実行するわ!)


 ちょうど、アナスタジアがフランソワに会いに本城に行く用事があった。

 アナスタジアは半年後の事故を防ぐために、フランソワとの関係構築を頑張っている。フィオナも二人の仲の進展のために、アナスタジアの予定を調節したりフランソワの公務日程を確認したりしているので……自然と、セルジュの行動も把握することができる。


「今日は殿下と一緒に、帝国の貴族名家の勉強をするの。殿下はご幼少の頃から社交界に出られていたから、何百人もの貴族の顔と名前、家族構成や領地の特産品などを暗記してらっしゃるの!」


 そう言うアナスタジアは、昨日からずっと嬉しそうだ。


 小説でのフランソワは「自分が会いに行っても、アナスタジアを怖がらせたり遠慮させたりするだけだろう」と思い、アナスタジアとの距離を取っていた。アナスタジアのもとに貴族年鑑や辞書などの教材になるものを送るし講師の手配もするが、彼自身がアナスタジアと一緒に勉強をするなどはなかったようだ。


 だがアナスタジアは「一分一秒でも、一緒にいる時間を持ちたい!」と考えており、フィオナも彼女との時間を作るようフランソワにお願いをしていた。


(ご予定はあるもののちゃんと時間を作ってくださるのだから、皇太子殿下もアナスタジア様に歩み寄ろうと思ってらっしゃるのよね)


 ただ彼はなかなかな堅物で硬派らしく、女性の扱いに戸惑いがちだという。

 さらに……小説で彼が遺した手紙によるとアナスタジアの容姿は彼の好みにジャストフィットしていたとのことで余計に、近寄りがたいと思ってしまったようだ。難儀なものである。


 勉強会は午後からだったが、アナスタジアは朝から気合いを入れて着替えをしていた。彼女のドレスや宝飾品などは全てフランソワが贈ったものだが、その中でも夫を悩殺できそうなものを選んでいた。


「あ、あの、アナスタジア様。今日はお勉強をなさるのですから、もう少し露出が控えめでもよいのでは……?」


 アナスタジアが選んだのは肩から胸までばっちり見える妖艶なデザインのコバルトブルーのドレスで、グローブも透け感のあるもので化粧も濃いめに決めていた。


 フィオナはおずおずと進言したのだが、鏡の前でメイクの出来を確認していたアナスタジアは朗らかに笑っている。


「あらそう? でもこのドレスは殿下が贈ってくださったのよ? だとしたら殿下と過ごす時間に着ていておかしなことはないのでは?」

「おかしくはないのですが……なんというか、順応性が高いですね」

「『あれ』のおかげかもしれないわね」


 そう言ってアナスタジアは、ぱちっとウインクをした。


 周りのメイドたちは不思議そうな顔をしているが……アナスタジアの言う「あれ」とはつまり、前世の記憶のことだろう。そういえばアナスタジアは結婚前のお引き渡しの際に着ていたドレスも、「本当にきわどいわねぇ」と言いながらあっさり袖を通していたものだ。


(……アナスタジア様が前世お暮らしになっていた国では、女性の露出に対してそこまで目くじらを立てられなかったのかしら?)


 なおフィオナは知らないが、実際の「その国」には胸元どころか太ももが丸見えのスカートも存在するし、海などでは下着同然の水着さえ着る文化だったのだが……それを聞いたら間違いなく、卒倒するだろう。


 仕度を終えたところで、フィオナはアナスタジアについて本城に向かったのだが――


「ごきげんよう、殿下! 今日は一緒にお勉強ができるのを、楽しみにしておりました!」

「……ごきげんよう、アナスタジア」


 顔を合わせるなり元気よく挨拶するアナスタジアに対して、フランソワの方は表情を凍り付かせており返事も素っ気ない。


 だが彼の真意を知るアナスタジアはそれにめげることなく、フランソワの腕にするりと掴まって自ら懐に飛び込んでいった。がちっ、とフランソワが固まる擬態語が音となって聞こえた気がした。


「今日は、帝国貴族について教えてくださるのですよね? わたくし、きちんと予習もして参りましたの!」

「……そう、か。では、座ろうか」

「はい!」

「……。……あなたの席は、向かいなのだが」

「えっ……隣、だめですか? わたくし、殿下のお近くでお話を聞きたいのですが……」

「……。……だめ、ではない」

「ありがとうございます! 嬉しいです、殿下……」


 見事に夫のすぐ隣に座る許可を得たアナスタジアがしっとりとした流し目を送ると、フランソワの口元がひくっと動いてから勢いよく顔を背けられた。


「そ、それではまずは貴族の家名の確認からいこうか。私から質問してもいいか?」

「はい、どうぞ」


 フランソワが傍目から見てもぎくしゃくしながら貴族年鑑を手に取るが……彼が挙げた家名を聞くとアナスタジアが当主の名前を次々に言い当てていったため、最初はおろおろしていた彼もすぐに真剣な眼差しになり、アナスタジアに講義をしていった。


(アナスタジア様、すごい……! 最初はおどおどされていた皇太子殿下なのに、あんなに近い距離でかつ真剣に話をされている……!)


 彼は見た目こそほわほわ美少女系なアナスタジアの博識っぷりにすっかり感心したようで、全ての家名を挙げた後ではその成り立ちや他家との繋がりについても話し始めた。アナスタジアは時折難しい表情をすることもあったが真剣に話を聞き、「今おっしゃった二つの名家の領地が接していることについて質問したいのですが」などと、鋭い問いかけをしてはフランソワを喜ばせていた。


(そういえば皇太子殿下は、セルジュと戦術議論をすることもあるって話だったわね……)


 恵まれた体躯を持つ皇子だが、こうして議論や講義をするのが好きなのかもしれない。

 アナスタジアは可憐な見た目だが元々理論派で、前世の記憶も手伝ってかかなり考えも柔軟なので、フランソワの相手としてはぴったりなのかもしれない。


 ……などと感心しながら二人の勉強風景を見ていると、ちょいちょい、と軽く肩を叩かれた。


「失礼、フィオナさん」

「……フェレール様ですか。どうかしましたか」


 この部屋にいるのは皇太子夫妻二人とお付きの下級使用人、そしてフィオナとセルジュだけだ。皇太子妃付侍女の自分の肩に触れられる身分の者はセルジュしかいないので、振り返る前から彼だと分かっていた。


 セルジュは小さく笑い、アナスタジアたちの方を手で示した。


「……今の間に、お茶の準備をさせてくるよ。殿下、ヒートアップすると飲み食いを忘れてしまって、後でふらふらになったりするんで」

「……確かに、アナスタジア様もそういうタイプです」


 なるほど、そういう点でもあの二人はお似合いなのかもしれない……が。


(……あっ、これはもしかして、チャンスなのでは?)


「では私もご一緒します」

「え、あなたも?」

「アナスタジア様のお好きなお茶を知っているのは、私ですから。私でないと、指示は出せませんからね」


 作戦を実行するための言い訳ではあるが、理にはかなっているはずだ。


 予想どおり、セルジュは「それもそうだな」とつぶやくと、部屋にいる使用人にアイコンタクトを取ってからドアの方に向かった。


 今アナスタジアたちがいるのは、本城三階にあるフランソワの執務室だ。お茶を淹れたり菓子を準備したりする給湯室は、廊下を挟んで斜め向かいにある。


 用事自体は簡単なものなので、フィオナはアナスタジア用の甘いジャム入りの紅茶を作るように給湯室係の使用人に命じてから、セルジュと一緒に部屋を出た。


「じゃ、戻るかな。あの調子だと二人とも、俺たちが抜けたことにも気づいてなさそうだし……」


 セルジュはそんなことを言いながら歩いており、フィオナに背を向けている。


(チャンスだわ!)


 フィオナの作戦……それは、ボディタッチである。


 まさに先ほどアナスタジアがフランソワに対してしていたように、ぺたぺたと相手の体に触れることで、もし相手が自分に好意を持っていたならばその好感度をより高めることになり――逆の場合、はしたない女として嫌われる。


 フィオナはにやりと笑い、セルジュの背中に向かって手を伸ばしたが――


「……ん?」


 恐るべき反射神経でセルジュが振り返り、フィオナはぎょっとして手を伸ばした姿勢のまま固まってしまった。


(気づかれてしまった!?)


 セルジュの方もフィオナを見て驚いた様子で、ハシバミの目を瞬かせている。


「……失礼。俺に何か?」

「……い、いえ」


 伸ばした手を引っ込めることもできず、フィオナはぎこちなく視線をそらした。


 振り返る男と、彼に手を伸ばしたまま固まる女。

 ……近くで直立不動の姿勢で立っている兵士は、どんな気持ちでこの光景を見守っているのだろうか。


「……その、ですね」

「うん」

「……お体に触れてもよろしいでしょうか?」

「え? あ、ああ、まあいいけれど」


 思い切って問うと、驚きつつも同意をもらえた。


(それじゃあ、遠慮なく!)


 えい、とフィオナは腕を伸ばし、ちょうど自分の目線の高さにあるセルジュの右腕をがしっと掴んだ。護衛騎士の制服は生地が分厚いようだしセルジュ自身の二の腕もなかなかの太さがあり、固い感触がした。


「……」

「……」

「……これは?」


 セルジュが困惑している。それもそうだろう。


(え、ええと……触れたら、撫でる……?)


 先ほどのアナスタジアの動作を思い出してみるが……さすがに知り合って間もない男の腕に触れてから撫で繰り回すなんて、痴女もいいところだ。


 近くにいた兵士が、そっと視線をそらしたのが視界の端に映った。そんな、見ちゃいけないものを見ちゃったかのような素振りをしないでほしい。


 二人はしばし、腕を掴まれる側と掴んだ側になって沈黙し……。


「……ありがとうございました?」

「どういたしまして?」


 フィオナが手を離し、なぜか疑問形でやりとりを終えたのだった。

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