4 帝国にて
フィオナたちが乗る馬車はオルセン王国とアルシェリンド帝国の国境を越え、宿場町を経由しつつ十日の旅路の末に、アルシェリンド帝国皇都に到着した。
(あの方が、フランソワ皇太子殿下……)
優美で繊細なオルセン王城とは全く異なる堅牢な雰囲気の帝城の前で馬車を降りるフィオナたちを迎えたのは、皇帝一家だった。
立派な体躯を持つ中年男性が皇帝で、その隣に立つ焦げ茶色の髪の青年が皇太子フランソワ、そしてその後ろの方にいる少年が、第二皇子として認められているフランソワの異母弟だ。
(確か、帝位継承順位第二位があの若い皇子殿下ね。第三位が傍系皇族の方で、小説ではそれぞれを擁立する派閥がぶつかったとか……)
結果としてアナスタジアは夫の異母弟を後継者として指名して教育し、彼に帝位を譲ることになるそうだが、異母兄弟ではあるが仲はよいようだから、やはり血みどろの継承戦争なんて起こさないに限るだろう。
「お初にお目にかかります、皇帝陛下、皇太子殿下、皇子殿下。オルセン王国より参りました、アナスタジアでございます」
引き渡しのときと同じノイチゴジャム色のドレスを纏ったアナスタジアが進み出て美しい礼をすると、周りから感心するような声が上がったのが分かり、フィオナは誇らしい気持ちで胸がいっぱいになった。
(そうよ。アナスタジア様は誰よりも立派な淑女なのよ!)
前世の記憶とやらを思い出してからは若干緩いところも見せるようにもなったが、彼女がオルセン王国一の淑女であるのは変わりなく、その才覚は帝国でも遺憾なく発揮されているようで、フィオナも嬉しい。
「ああ、ようこそ来てくれた、アナスタジア王女。……フランソワ、ご挨拶を」
「……どうも」
にこやかな皇帝に促された皇太子だが、彼の反応は素っ気ない。それを聞いて、皇帝が困ったような顔をしたようだ。
(……確かにこれだけを見ると、歓迎されていないと思ってしまうわよね)
だが、フィオナもアナスタジアもフランソワの真意を知っている。
……この素っ気なさは嫌悪の表れではなくて、遠路はるばるやってきた美しい妻を見て、準備していた言葉が全部ぶっ飛んでしまったからなのである……と思うとむしろ、にんまりと笑いたくもなってきた。
アナスタジアもまた、優雅に微笑んでうなずいている。
「よろしくお願いします、フランソワ殿下。あなたの妃として誠心誠意、お仕えいたします」
そんなアナスタジアを見て、周りの者たちがますます彼女への好感度を上げたようだ。自国の皇太子の素っ気ない態度にもめげることなくおおらかに受け止める素晴らしい姫君、と思ってもらえたのだろう。
挨拶を終えると、フィオナたちは本城に入った。これからすぐに結婚式なのだが、アルシェリンドでは皇族の結婚式は大聖堂にてごく一部の者たちだけで行い、側近のフィオナでさえ参列できないそうだ。
すぐに花嫁衣装に着替えたアナスタジアは、アルシェリンド人のメイドたちには見えないようにこちらに向けてぐっと拳を握ってみせてから、部屋を出て行った。
(これからどんなことをするのか、小説の知識をお持ちだからか落ち着いたご様子だったわね)
結婚式の間にフィオナはアナスタジア用の部屋への荷物の運び入れや荷ほどきの指示をする必要があるので、部屋に残っていた。
これからアナスタジアと……ついでにフィオナの世話をすることになるメイドたちは皆働き者でかつ素直で、来て早々に自分たちに指示を出すフィオナに対しても従順に動いていた。
(オルセンのメイドたちはもうちょっとフランクな感じだったけれど、アルシェリンドは厳格みたいね)
様々な国の文化を取り入れ柔軟に発展するオルセンと違い、アルシェリンドは古き良き文化を受け継いでいるそうだ。
一通り部屋の準備が整ったところで、フィオナはメイドたちに休憩するよう言ってから、部屋を出た。
ここは本城の隣にある離宮で、フランソワの居城である。
この離宮の西側の翼廊がまるまるアナスタジアのためのもので、この中ならば自由に散策してもよいといわれている。なお、三階建ての西側翼廊の二階奥に、フィオナ用の立派な部屋もあった。
(アナスタジア様の話では、小説で皇太子殿下が事故死するまでの物語の舞台はこの離宮西の棟で、事故以降は本城が舞台になるとのことね……)
帝国の未来を守るために、アナスタジアは本城で暮らすようになる。そうして離宮は夫との愛のない生活の思い出だけが残る場所になったため、アナスタジアもほとんど戻ってくることはなくなる……とのことだった。
だがアナスタジアはフランソワの事故死を防ぎ、彼と円満夫婦になることを目指している。ということはフィオナも、この離宮の地理を詳しく知っておくべきだろう。
「……あ、もしかしてあなたが、王女殿下のお付きか?」
まずはあちこちの部屋を確認しようと西棟を歩いていたフィオナは、背後から誰かに呼ばれて振り返った。ちょうど彼女は中庭に面した一階の廊下を歩いており、離宮正面から翼廊へ繋がる開放廊下をやってくる青年の姿があった。
国境の町でもこの城でも何度も見かけた濃紺と黒を基調とした軍服は、アルシェリンド帝国の近衛騎士団の制服だ。すらっとした白のパンツと編み上げのブーツを履きこなす彼は、少し長めの赤毛を後頭部でくくった、フィオナと同じ年頃と見える男性だった。近づいてきて分かったが彼はかなり背が高く、つり眉垂れ目である。
(……「あなた」とは、私のことよね)
「はい、オルセン王国より参りました、フィオナ・ブライスでございます」
「フィオナさんだな。俺は、フランソワ殿下付き護衛騎士のセルジュ・エメ・フェレール。これからどうぞ、よろしく」
「はい、よろしくお願いします」
明るくて耳触りのいい声で挨拶されたので事務的に応じると、セルジュと名乗った青年はヘーゼルの目を瞬かせて、しげしげとフィオナを見つめてきた。
「んー、噂には聞いていたけれど確かに、クールできれいなお姉さんだな。好きな人とか、いる?」
何だこの男は、と口元が引きつりそうになりながら、フィオナは鉄壁の微笑みを浮かべて一歩後退した。
「そのような方は、おりません。いないので、アナスタジア様のお付きとして来ることができたのです」
「ああ、それもそうか。もしよかったらこれから、城の案内でもするけど? 殿下は式に出ているから正直、暇なんだよね」
「そうですか。私は暇ではないので、これで失礼します」
この人はダメだ、とすぐに判断したフィオナは、セルジュに背を向けた。後ろから「ええっ、すげない!」「でもそういうところが素敵だよ!」という声が飛んできたが、聞こえないふりをした。
(……アルシェリンドの使用人は厳格だと思っていたけれど、皆が皆そうではないのね)
少し鳥肌の立っていた腕をそっとさすりながら、フィオナは考える。
これまで清く正しく生きてきたこともあり、あんなふうに異性から詰め寄られるなんて初めてだった。オルセンで人気なのは愛らしくて甘え上手な女性――フィオナとは真逆のタイプだったから。
(さっきの騎士、セルジュといったかしら)
セルジュさん……セルビさん……カルビさん(仮)……。
(……うん、違うわね)
ないない、と自分に言い聞かせ、フィオナはすたすたと歩いていった。
いつか、小説で自分を口説き落とした……と思われるカルビさん(仮)に会える日が、来るのだろうか。