3 退場の理由
フィオナとアナスタジアだけでの秘密を共有し、アルシェリンドへの輿入れの日が着々と進み――出発まであと三日という、夜。
「フィオナ、フィオナ! 思い出したわ!」
「……も、もしや、小説での私のことですか?」
アナスタジアの就寝仕度を終えたメイドたちが下がった後でアナスタジアに呼ばれて、フィオナはどきどきしつつ聞いた。
……先ほどメイドに髪の手入れをされながらも、何やら考え込んでいる様子だったのが気になっていたが、どうやら小説でのフィオナのことを思い出してくれていたようだ。
ベッドに腰を下ろしたアナスタジアはうなずいているが……何やらその頬がほんのりと赤い。湯上がりにしては、時間が掛かっている。
「あのね、フィオナが物語の終盤に出てこなかったのは、あなたが逃げたとか不忠義者だったからとか、そんな理由ではなかったの」
「そう、なのですね……」
フィオナが一番避けたいのがそれだったので、まずはほっとできた。
……だが愛らしい主君は、フィオナにとんでもない爆弾をぶん投げてきた。
「その理由を思い出したのだけど……おめでただったの!」
「……え?」
「フィオナは、お腹に赤ちゃんがいたの。だからわたくしの命令で、赤ちゃんが生まれるまでは安全な場所にいるようにしていたの。だから途中から出てこなくなって、わたくしが即位して赤ちゃんも無事に生まれてから、戻ってきてくれたのよ」
「……」
ぽくぽくぽく、ちーん、とフィオナの頭の中で謎の音が鳴る。
(おめでた……? 赤ちゃん……?)
「わ、私が妊娠すると……?」
「そう。相手は……ええと……確か、アルシェリンド人の騎士だったかしら……」
「名前は!?」
「それが、思い出せないのよ。あんまり頻繁に登場するキャラじゃなかったし」
てへ、と笑うアナスタジアは、文句なしに愛らしい。
なるほど、彼女がほんのりと頬を染めていたのは、フィオナが一時退場した理由が懐妊だったからだと思い出したからのようだ。
(でも、そんな、まさか……!?)
「私は、結婚するのですか……?」
「あー……それはどうだったかしら。でも小説では状況が状況だから、結婚はしていなかったと思うわ」
「……」
なんということだ、とフィオナはアナスタジアとは逆に冷えきった自分の両頬を手で押さえた。
フィオナは、アナスタジアに一生を捧げると誓っている。小説に登場するフィオナも、血腥い戦いに身を投じた主君に付き添っていたことが分かる。……ただし、中盤までは。
(私はあろうことか、アナスタジア様よりもそのどこの誰か分からない男との恋を優先させて腑抜けになって子どもを作り、熾烈な戦いを繰り広げるアナスタジア様を差し置いて退場するというの……!?)
フィオナは元々、恋愛やら結婚やらに夢を見ていない。
金髪に緑色の目の愛らしいアナスタジアとは真逆の、黒髪に紫色の目という暗い色合いにさえない容姿、自慢できるのは侍女としてのスキルくらいだという自分がまさか、アルシェリンドで恋人のみならず子どもまで作るなんて。
(嘘よ! 私があっちでそんな恋愛をするなんて……いや、恋愛ではないのかもしれないわね……?)
ふとそんな危惧も湧いてきたが、アナスタジアはほわほわと笑っている。
「フィオナの相手の名前はちょっと思い出せないけれど、エンディングでのあなたが幸せそうだったのは覚えているわ。赤ちゃんも無事に生まれたし、あなたの恋人も生き抜いたということだと思うの」
「……」
「だから、わたくしが小説のストーリーとは違う未来にしてしまったら、その恋人と結ばれるのは難しくなるかもしれないけれど……」
「まっっったく構いません!」
圧を掛けて、フィオナは宣言した。
「どのような未来になろうと、私はアナスタジア様にご一緒するのみですもの! アナスタジア様は私のことなんて気にせず、望まれる道を歩んでくださればいいのです!」
「ありがとう。それに確かに、もし運命ならどんな道のりであれ、あなたは恋人と結ばれるはずだものね」
そういうことを言いたいのではないが、アナスタジアが納得しているのならばもうそれでいい。
(少なくとも、私は無理矢理襲われて望まぬ子を妊娠するわけではなさそうね……)
小説の中の自分は望んで恋人との間の子を産んだようだから、その点だけは安心できた。
……とはいえ。
「アナスタジア様、できたら、でよいので、その相手の騎士の名前を思い出していただきたいです。本当に、思い出せたら構いませんので」
「あらあら、そんなこと言いながら目が本気よ? あなたもやっぱり、未来の旦那様のことは早く知りたいわよね?」
そうではなくてむしろその謎の男の回避のために知りたいのだが、アナスタジアの機嫌はよさそうなのでうなずくことにした。
「そういうことです」
「分かったわ。……名前、名前……なんだったかしら。なんとかル、だったような、ビ、で始まったような……」
「あ、あの、本当に、できれば、でいいので」
「分かっている分かっている。……ビル? いや、ルなんとか……?」
……結果として。
アナスタジアは出立の日までに脇役もいいところであるフィオナの恋人(仮)の名前をはっきり思い出すことはできず、なんだかそれっぽいということでその男のことを「カルビさん(仮)」と呼ぶことにしたのだった。
アナスタジアとフィオナは国民たちの声援に包まれて王都を出発し、東の国境付近の町でアルシェリンドに引き渡されることになった。
「行ってらっしゃいませ、アナスタジア様」
「お元気で!」
「アナスタジア様に、幸福があらんことを!」
ここまで送ってくれたオルセン人の騎士や使用人、官僚たちに見守られて、フィオナはアナスタジアの手を取って教会に入った。
ここで二人はオルセン王国の神に最後の祈りを捧げ、続き部屋で服を着替える。そうして入ったドアとは別のドアから外に出て、そこで待っているアルシェリンド人の護衛たちに引き渡されるのだった。
「……大丈夫ですか?」
ドレスや宝飾品を全て外し、実家の両親から贈られたブライス家の家紋入りの指輪だけを身に付けたフィオナが問うと、隣で同じようにオルセン王国の紋章が刻まれたペンダントのみを首から提げている裸のアナスタジアはしっかりとうなずいた。
「ええ。覚悟はできているわ。……でも、一人だったら泣いていたかもしれないわ」
「アナスタジア様……」
「一人だけでも、側近を連れて行くことを許可してくださった皇帝陛下には感謝ね。それに……迷うことなく、わたくしに付いてきてくれることを承諾してくれたあなたにも」
肩に掛かる金色の巻き毛を掻き上げて、アナスタジアは強気に微笑んだ。
「ねえ、フィオナ。……わたくしはこれから、皇太子妃として……そして未来を変える者として、戦っていくわ。皆の前では、ちゃんと立派な妃として振る舞う。……でも、あなたの前だけではたまにでいいから、ただのアンになっても許してちょうだい」
アン、というのは、アナスタジアの愛称だ。
彼女をその名で呼ぶのは国王夫妻や兄王子たちだけだが、「アン」というのはアナスタジアが家族に愛されたという証しであり、異国の地でも強く生きていこうという決意の表れでもあるのだ。
……アルシェリンドに渡ったら、あのド派手な赤いドレスを纏ったら、彼女はもう「アン」になれなくなる。
だがフィオナの前だけでは泣いてもいいし、弱音を吐いてもいい、甘えてもいい。
フィオナが、アナスタジアが「アン」でいられる場所を作るのだ。
「……もちろんでございます」
「フィオナ……」
「さあ、参りましょう。皇太子殿下から贈られたドレスを着なければなりません」
そう言ってフィオナは、そっとアナスタジアの手を取って続きの部屋に向かった。そこには例のノイチゴジャム色のドレスとフィオナ用のシンプルなグリーンのドレス、そして教会のシスターたちがいた。
無言の彼女らの手を借りてドレスを着て、髪もアルシェリンド風にセットする。アナスタジアが言っていたとおりフィオナ用のドレスも胸の七割が露出するようなとんでもないデザインだったが、我慢して着た。
そうしてシスターたちに見送られて多くの部屋のドアを開けると、そこは屋外だった。
待っていたのは、この町に来るまでに乗っていたのとは全く異なる意匠の馬車と、騎士たち。彼らはフィオナたちを見ると揃ってお辞儀をした。
「ようこそいらっしゃいました、アナスタジア・オルセニウス殿下」
「これより、国境を越えていただきます」
「ええ、どうぞよろしく」
アナスタジアは背中をまっすぐ伸ばし、馬車の方に向かった。
フィオナも彼女に随行しながら……背後から聞こえてくる、「王女殿下万歳!」「アナスタジア様、万歳!」の声を遠くに聞いていたのだった。