14 やっぱりダメだったけれども
フィオナは、夕日の色に染まる中庭に立っていた。
今日の仕事は終わり、アナスタジアも自室でゆっくり過ごしている。
今は中央棟で暮らすフランソワと西棟で暮らすアナスタジアの間には物理的な距離があるが、きっと近い将来アナスタジアの拠点が中央棟に移される日が来るだろう。
そう、いつか――
『……わたくしに子どもが生まれたとき……もしタイミングが合えば、あなたに乳母になってもらいたいの』
今日の午後にアナスタジアから告げられた言葉が、頭の中に蘇る。
オルセン王国でもそうだったが、身分が高い者は自分の子を養育しない。子どもは信頼できる部下に預けられ、いわゆる乳兄弟と呼ばれる者と一緒に育つのが基本だ。
そして女性の場合、皇族の乳母に選ばれるのは非常に名誉なことだった。
昔から、乳母は皇族の次に偉い女性だと言われている。
偉大なる王や皇帝でさえ、自分を育ててくれた乳母には一生頭が上がらず、国によっては「生母の誕生日は忘れても乳母の誕生日は忘れることなかれ。さもなくば、乳母の怒りの天誅を食らうだろう」なんて言われるくらいだという。
皇太子妃付侍女であるフィオナがこの帝国で上り詰められる最上位が、アナスタジアの産む皇子皇女の乳母だ。
また妃によって「自分の子の乳母になってほしい」と言われるのは、最大の敬愛と信頼を預けられているという証しでもあるのだ。
小説のこともあるので、フィオナは子を産むことができる。
アナスタジア本人が依頼しているのだから、もし自分とアナスタジアの妊娠のタイミングが合えば、間違いなく自分が皇子皇女の乳母として選出されるだろう。
未来のことは、まだ分からない。
だからアナスタジアには、「もしその日が来れば、喜んで拝命します」とだけ応えた。
……だから、というわけではないが、フィオナの中で一つの決心が固まった。
「……お待たせ、フィオナさん」
「フェレール様。急にお呼び出ししてしまい、申し訳ございません」
青年の声に振り返ると、こちらにやってくる騎士団制服姿のセルジュが。
夕方の風に赤髪をなびかせた彼が片手を挙げたのでお辞儀をして応じてから、フィオナは彼のもとに向かった。
今日フィオナは、セルジュを呼び出した。
その目的はもちろん――
「昨日は、みっともない姿をお見せしまして申し訳ございませんでした。……あのときの答えを、持って参りました」
フィオナがまっすぐ背筋を伸ばして言うと、セルジュは小さく笑った。彼も、なぜ呼び出されたのかの予想はしていたようだ。
「そうだと嬉しいな、って思っていたんだ。……でも、昨日の今日だけど本当にいいのか?」
「もちろんです。むしろ……昨夜、あなたと一緒に番をしたことで私の中でも気持ちが固まっていったのです」
フィオナは微笑み、セルジュのハシバミの目を見つめた。
……このつり眉垂れ目が色っぽくて、なんとなく軽薄な感じがして嫌だと思っていた。
だが今は、彼のこの目がとても好ましいと思えた。
「その前に確認ですが、あなたは私のことを好いてくださっており、結婚を前提としたお付き合いを望まれているとのことですよね」
「あ、ああ、うん。……改めて言われると、なんだか照れるな」
頬を掻いてはにかむセルジュに、フィオナは言葉を続ける。
「今日、アナスタジア様から提案されたことがあります」
そうして乳母の件を話すと、セルジュは「なるほど」とうなずいた。
「妃殿下があなたを推薦する気持ちは、よく分かる。フランソワ殿下も、人選に全く異論はもたれないだろう」
「そうであると嬉しいです。……ということなので、私の結婚はもう、私一人の問題ではなくなりました」
小説ではどうだったのかよく分からないが、今のフィオナはアルシェリンド帝国の未来の皇帝を養育する可能性を持つようになった。好きな人と結婚して子どもを産んで、田舎で平和に暮らしました……という未来を描くのは、難しい。
「私がそのような提案を受けた者だということを念頭に置いた上で、お聞きしたいのです。……あなたはまだ、昨日と同じ気持ちでいらっしゃるのでしょうか」
「もちろんだよ。……さすがに子どものこととかはまだ自信を持ってうなずくことはできないけれど、俺があなたのことを好きだという気持ちに変わりはない」
セルジュははっきりと言ってから、「実は」と少し気恥ずかしそうに続けた。
「昨日、あなたと一緒に過ごしてから……ますます、好きになったんだ。あなたと二人で殿下の夜をお守りする時間はわりと心地よかったし……あなたが無駄話をせずにいたことも、俺としてはすごく好印象だった」
「あっ、それは私も同じです。もしあの神聖な時間にあなたが色恋の話をしたりするようであればさすがに、幻滅したと思うので」
「だよな?」
フィオナとセルジュは顔を見合わせて、小さく笑った。
「俺たち結局はこれからも、主君第一になるんだな」
「そうでなくてはやっていけません。……あなたよりアナスタジア様を優先するだろう私のことを、薄情者だとお思いになりますか?」
「俺こそ、もしあなたの誕生日に殿下が腹痛を起こしたら、殿下のご機嫌伺のために誕生日会をすっぽかしてでも城に行くだろう。薄情な男だと思うか?」
「そんなの、お互い様です。……お互い様だと言って笑えるような関係でありたいと、私は思っています」
だから、とフィオナは一歩セルジュに近づき、ドレスのスカートを軽くつまんで腰を折るお辞儀をした。
「あなたのお申し出を、嬉しく思います。フェレール様……いえ、セルジュ様。どうかあなたと、結婚を前提としたお付き合いをさせてください」
「えっ……!? わ、あ……お、俺の名前、言ってくれた……!?」
セルジュはまずそちらに感動してから、フィオナの手をさっと取って握った。
「もちろんだ! ああ、どうしよう、むちゃくちゃ嬉しい! 今、殿下は音楽鑑賞されている時間だけど、部屋に突入してこの嬉しさをご報告したいくらいだ!」
「それはさすがに、やめた方が……」
冷静に突っ込んでやったが……フィオナも、フランソワが冷酷な人間ではないと知っている。
彼のことだから、リラックスタイム中に突撃してきたセルジュを鬱陶しく思いつつも面倒見よく話を聞いてあげるのでは、と思っている。
セルジュは満面の笑みだったが、ほんの少し恥ずかしそうに頬を緩めた。
「俺、軽薄そうって思われがちなんだけど女性関係には父上や兄上からバチバチに教えられてきたから、一途で誠実な自信があるんだ。だから大切にするし……そ、その、あなたは乳母を期待されているようだから、いずれ……」
「はい、結婚のことや子どものことも、考えていきましょうね」
「うっ……そ、そうしましょう」
……いつも口が達者なセルジュだが案外押しには弱いようで、そんな可愛い面にフィオナはくすっとしてしまう。
……引いたらダメなら押してみろ、のノリでセルジュと接することを決めたあの日には、まさか「やっぱりダメでした」な結果になるとは思いもしなかっただろう。
だが、フィオナはこの結果が最適だと思っている。
アナスタジアが前世読んだ小説の展開は回避しつつ、一緒に未来を考えられる人と恋をすることができた。
(……本当に、運命ってあるのかもしれませんね、アナスタジア様)
フィオナは小さく笑って手を伸ばしてセルジュの頬に触れ――
「ふつつか者ですが……どうかこれからよろしくお願いしますね」
そっと、唇の端にキスをした。
アルシェリンド帝城の庭に若い男性の悲鳴がこだまして、離宮西棟にいたメイドたちはぎょっとした。
「やだ、今のは何?」
「男の人の悲鳴っぽかったわね」
「大きな虫でも出たのかしら?」
「でもどちらかというと、嬉しそうな声に聞こえたけれど……」
メイドたちのおしゃべりを聞きながら、本を読んでいたアナスタジアは顔を上げた。
なんだか、もうすぐとても嬉しいことが起こるような……そんな予感がしていた。
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