13 何もない時間
夜、離宮中央棟にある主寝室の前にて。
「それでは、おやすみなさいませ、アナスタジア様」
「ええ。……おやすみなさい、フィオナ。また明日」
手燭を持ったフィオナが挨拶をすると、ふんわりとした愛らしい寝間着の上にガウンを羽織ったアナスタジアはどこか夢見がちな表情で応じ、寝室のドアをくぐっていった。
重厚なドアが閉まるとフィオナは一礼し、夜勤の兵士たちのお辞儀を受けながら廊下を歩く。そして主寝室の隣にある控え室前にいた兵士にて手燭を渡し、ドアをノックした。
ドアを内側から開けたのは、赤髪の騎士。
彼はむっつりするフィオナを見て、小さく笑った。
「お疲れ様、フィオナさん。さ、どうぞ」
「……失礼します」
彼――セルジュに促されて入室したフィオナは無心を取り繕うが、その実心臓はばくばくと脈打っていた。
(そうかも、とは思っていたけれど……やっぱりこの人だったのね!)
午後いっぱい準備に費やしたフィオナは夕方になって、寝所の番についてメイドが「それぞれの側近」と言っていたことを思い出した。
もしかして、まさか、と嫌な予感はしていたのだが……やはりフィオナと同じ役目を仰せつかったのは、皇太子の幼なじみでもある護衛騎士のセルジュだった。
(よりによって今日、また顔を合わせるなんて……!)
せめてあの弁当事件から何日も経っていればフィオナも冷静でいられただろうが、彼に告白されて逃げ出してからまだ半日も経っていない。
待機用の部屋は広いものの、部屋の中央付近に椅子とテーブルのセットが向かい合うように二つあるだけだ。仮眠用の部屋はそれぞれ別にあるので、ここはまさに待つだけの部屋だ。
……離宮のメイド曰く、ずっと昔には夜通しの番をしている若い男女の側近同士がいろいろな意味で親密になってしまい、問題になったこともあったという。そのため、この部屋には椅子とテーブルしかないそうだ。
それならこんな慣習なんて廃止すればいいのに、とフィオナは思うのだが、慣習には歴史や相応の理由があるものだしフィオナはよそ者なのだから、口出しはしないことにしていた。
……ただ、この夜通しの番の相棒がセルジュとなると、無礼だろうと何だろうと制度を廃止してもらうよう進言すればよかった、と今はわりと本気で思っていた。
「……慣習に従い、お二人の初夜が終わるまで待つことにしましょう。私はこちらに座っております」
「ああ、うん、どうぞ」
セルジュの返事を待たず、フィオナはあらかじめ部屋に届いていたトランクを持って椅子に座り、中に入っていた一式――眠気覚ましの紅茶や本などをテーブルに広げた。
フィオナが事務的だからかセルジュは苦笑し、自分の椅子にどかっと座った。
「……あなたは何も持ってきていないのですか?」
「あいにく、こういうときに時間つぶしできるような趣味がなくて。さすがに戦略ゲーム用のボードを持ち込むのはだめだろうからな」
「そもそも相手もいませんし」
「言ってくれるね」
セルジュが笑うがフィオナは気にせず、ボトルに入れていた紅茶の蓋を開けて、本を読み始めた。
……部屋は、しんとしている。
さすがに隣の部屋の音は聞こえないのでしばらくしたら小窓から様子を見ることになっているのだが、それも最小限に抑えるつもりなのでまずは読書に没頭したい。
文字を目で追っていると、いつもなら外の世界と遮断されて読書に集中することができる。本を読んでいるとあっという間に時間が経つ、という経験も何度もしているので、待ち時間の活用に読書はぴったりだ。
……それなのに。
(……前が気になって仕方がないわ)
自分の正面には、セルジュがいる。ちらっと前髪の隙間から見たところ、彼はテーブルに頬杖を突いてこちらを向いているようだ。
最適な趣味がないのは仕方がないが、だからといってこちらをじっと見ているのはいただけない。
(とはいえ、声を掛けるのもためらわれるし……何か言われたら怖いし……)
もし彼に「昼の続きだけど」なんて言われたら、どう答えればいいのだろうか。
フィオナには番をするという仕事があるのだから逃げるわけにはいかないし、セルジュの告白へのきちんとした返事を準備できているわけでもない。
セルジュの存在を意識しているとどうしても、読書に集中できなくなる。
コチ、コチ、と時計が時を刻む音がいつもよりやけにゆっくり思われて、理不尽であると分かっていても時計に八つ当たりしたくなってしまう。
何も言わないでほしい。
むしろ、何か言ってほしい。
そんな矛盾する想いに胸を苛まれて、いつもよりずっと遅い速度で本を読んでいると――
「……読書中、失礼。フィオナさん、窓から様子を見てもらっていいかな?」
「えっ?」
はっと顔を上げると、セルジュが時計の方を指で示していた。
「もうそろそろ、確認した方がいいと思うんだ。いくら小窓からモロ見えはしないといっても、俺が妃殿下の姿をちょっとでも見るのはよくないし」
「そ、その言葉遣いはどうかと思いますが……分かりました。見ます」
こういう状況では、女性のプライバシーの方を優先される。セルジュよりフィオナが覗く方が、アナスタジアのダメージが小さくて済むのだ。
フィオナは壁に付いている小窓の蓋を外して覗き込み――しばらくして、そっと蓋を戻して振り返った。
「お二人ともご就寝なさっている様子です」
「そうか、ありがとう。……じゃあ俺たちも、明日の朝までは仮眠を取るかな」
「そうしましょう、お疲れ様でした」
立ち上がってうーん、と背伸びをしながらセルジュが言うので、フィオナもうなずいてテーブルの上のボトルや本を片付けた。
(……もし問題があれば、アナスタジア様は枕元のベルを鳴らすはず。それが聞こえないから、皇太子殿下との初夜はうまくいったということね)
壁からぶら下がるベルがしんとおとなしいのを見てから、フィオナは荷物を入れたトランクを手に、続き部屋の方に向かった。こちらが、フィオナの仮眠室だ。
「それではフェレール様、また明日」
「うん、また明日。夜明けまであまり時間はないけれど、ゆっくり休んでくれよ」
フィオナはうなずき、仮眠室に入ってしっかり鍵を閉めてから、部屋の中央に据えられたベッドに腰掛けて大きなため息を吐き出した。
……よかった。
アナスタジアの初夜が無事に終わったことももちろんだが……セルジュが何も言わなかったのが、本当にありがたかった。
もし彼が昼間のことに関することを何か一つでも言っていたら、フィオナはその瞬間セルジュを嫌悪していたかもしれない。
……彼を嫌悪せずに終わってよかったと思ったし、逃げてばかりではだめだ、とも思えた。
(小説の私は本当に、子どもを産みたいと思えるほど彼のことを愛していたのかしら……)
寝間着に着替えてベッドに入りながら、フィオナは存在しない小説の中の「フィオナ・ブライス」に思いを馳せる。
アナスタジアの行動により、フランソワの運命は変わった。もう、彼女が前世読んだ小説のような悲劇は起きないだろうし、そうなるとフィオナがセルジュとの子を妊娠するという可能性もなくなるかもしれない。
だが。
『もし運命ならどんな道のりであれ、あなたは恋人と結ばれるはずだものね』
(……そうなのかもしれませんね、アナスタジア様)
冷たいシーツに手のひらを滑らせて、フィオナは思う。
子どもを作ることはまだ早すぎるにしても、フィオナとしては……セルジュの告白を受け入れることに、それほど忌避感がなかった。それどころか先ほど夜通しの番で一緒の時間を過ごしてから、彼の想いを受けたい、と思えるようにさえなっていた。
あの数時間、彼と言葉を交わしたわけでも濃密な関わりをしたわけでもない。ただ同じ部屋に、同じ目的で存在していただけ。
それなのに、不思議とあの空間は心地よかった。
彼に話し掛けられることもなく過ぎ去った時間は――彼とならこれからも同じ目的を見据えて仕事をしていける、と思うに十分だった。
(……ちゃんと、言おう。私の方が年上なのだし、ちゃんと応えないと――)
そうしてフィオナはアナスタジアが幸せな夢を見ていることを願いながら、眠りに落ちていったのだった。
翌日、朝日が昇るよりも前に起床して身仕度を調えたフィオナは、待機部屋でセルジュと合流した。
「おはようございます」
「おはよう、フィオナさん。さっき、メイドがお二人を起こしに行ったようだ。俺たちも行こうか」
「分かりました」
フィオナはセルジュと一緒に部屋を出て、廊下を通って主寝室の前に立った。
ちょうど朝仕度係のメイドたちが出てきたので彼女らと入れ替わりに入室して、フィオナはアナスタジアの、セルジュはフランソワのもとに向かう。
アナスタジアは、鏡台の前にいた。既に朝風呂に入った後のようだが、彼女がこちらを見る目はどこかぼんやりとしていた。
「フィオナ……おはよう」
「おはようございます、アナスタジア様。よい朝ですね」
「ええ、本当に……いつも以上に朝日がきれいに見えるわ」
アナスタジアは窓の外から見える太陽を見て、ほわんとした眼差しで言った。
それだけでアナスタジアの気持ちがよく伝わってきて、フィオナも多幸感で胸がいっぱいになった。
それぞれの仕度を終えると、アナスタジアは朝食を取るために西棟に戻ることになった。
去り際にフランソワは「また後で、私の妻よ」と照れながらアナスタジアの頬にキスして、夫からさようならのキスをされたアナスタジアは嬉しそうに微笑んでいた。
そのまま西棟に戻り、朝食を取る。
ここからフィオナは午前中の休みをもらっているので、昼間ではゆっくり二度寝させてもらった。
……そうして午後、今日も特別に講義を休みにしてもらっているアナスタジアは、フィオナと二人きりになるなり顔を真っ赤にして詰め寄ってきた。
「フィオナ、フィオナ! わたくし、きっと世界で一番幸せな女だわ!」
「それはよろしゅうございました。殿下といっそう仲よくなられたようで、私も嬉しいです」
「本当にね! ああ、これでますます決意が固められたわ。星見祭では絶対に殿下の手を離したりしないし、これからもずっとおそばにいるわ!」
アナスタジアは大変テンションが高いようで、幸せな未来を夢見る彼女の姿を見ているフィオナの胸も温かいもので満たされていく。
「殿下とも、いずれ世継ぎのことも考えましょうって話ができたの。今はわたくしがこの国に慣れるまで時間を置いて、それから子どものことも考えられたら、ってことにしたの」
「お二人で話ができたのでしたら、何よりです」
フランソワが全てを決める、ではなくてアナスタジアも一緒に未来を描けるのであれば、この夫婦に関しては全く心配しなくてよさそうだ。
そこでアナスタジアはフィオナを見てから、少しだけ身をそわそわさせた。
「そ、それでね。こういうときだからこそ、フィオナに相談したいことがあって……」
「ええ、何なりとおっしゃってください」
フィオナは笑顔で言ったのだが――