排気タービン過給機実戦へ(我輩ハ複動四七ノ内火機械デアル 後編)その4
皆さん、
こんばんは。
ちゃんと生きてます((*^▽^*))
ただ、パソコンが替わりに死にました。サルベージするのに一週間ほどかかりました
((; ;)ホロホロ
やっぱり自宅と仕事場に往復させるのは新品を買わなければならなかったのかも?
(いや職場にもちゃんと配布されているパソコンはあるのですけれどね)
やっとやっと下準備が終わります。
何の?
はい
『排気タービン過給機』
なんですよ。
え?
そんな話だっけ?
すみません。僕自身も半分忘れて、資料の本読んだりネットサーフィン(古 そういえば最近はこんなことしている状況をなんと呼ぶんでしょうね?)してました。
いやいや第一次大戦前から始まる日本のディーゼルエンジンの開発歴史がここまであっちこっちに散らばっているとは知りませんでした。僕が以前から知っているのは陸軍の統制型か海軍を柱とした民間企業の様々くらいなんでしたね。民間の造機関係がここまで広がっていたとは…
どうぞお楽しみください。
人生を成功させる秘訣は、
チャンスが来た時に、
それに対する用意ができていることである。
ベンジャミン・ディズレーリ(イギリスの政治家)
◇ ◇
『我輩ハ複動(働)四七ノ内火機械デアル』
のもう一つの波及効果…それは海軍各所から人材を集めることとなったことである。前回述べたように海軍内でもディーゼルエンジンに直接関わっている「内火屋」と称される技術者は、このマニュアル以前10人以内に収まっていた。ちょっとした中堅会社の開発陣とさほど変わらない。(その頃のヤンマー開発陣と同じくらい? ちなみに平時の海軍省の人員は現在の最小県庁職員(鳥取県?)よりも少ない人数でまかなっていたらしい。大丈夫か?海軍…)それがこのマニュアルの登場によって、艦政本部の技術職員がけっこう興味を持って集まった。そして、人員が集まると共に予算や設備が一新され、海軍としても開発組織としてやっと整い始めていた。
前述のように日本のディーゼルエンジンのあゆみは「潜水艦用」と「民間船舶用」の二種の流れが、時折交差しつつ進んできたものである。一つは高出力エンジンであり、もう一つは安定エンジンである。(この二つは別に対立することがなく互いに高め合う関係とされていた)これも前述のことであるが、ディーゼルエンジン開発は潜水艦を除けば日本やドイツのような石油に乏しい国が主流となっており、特に独自の技術的発表の場としてドイツが進んだ(と称する)技術を次々と発表していた。(そのころのヨーロッパ(イギリスを除く)のディーゼルエンジン開発は、ドイツ企業の技術提携先かその影響を受けたものといえる)
ただ日本としてはかの「六号艇事件」もあって潜水艦へのディーゼルエンジン搭載を可及的速やかに行いたいという意識を持っていた。その中でも注目したのはイギリスビッカース社のディーゼルエンジンである。機械として安定していて使い勝手も良い、やや重量に比較して馬力が低いものの海軍としてはこのエンジンを元に開発しようとしていた。が、パテント料でもめた。次にドイツのズルザー、MAN社とも交渉を進めたが製品の価格面での折り合いが付かなくなったことで海軍としてはこれまでの技術的財産を元に新たなディーゼルエンジン開発を目指した。(実際には並行して…と言うべきか?)
『艦本式ディーゼル』
がそれである。(ただし、制式名上は「艦本式」の記述は無く「○号内火機械」と称される)
先ほど述べたように、日本海軍のディーゼルエンジンは潜水艦用に始まった。そしてその頃海軍内部で想定された対米決戦はマリアナ・小笠原沖を戦場として設定し、アメリカ本土・ハワイ方面から押し寄せる米海軍艦隊を、まずは偵察・哨戒、そしてできれば敵艦隊への先制的な攻撃、潜水艦に期待されていたのはそれである。つまり長距離移動のために大型化、哨戒会敵後に先回りするため24ノット以上の水上速力。そのためには大出力ディーゼルが必要とされた。そこで製作されたのが潜水艦の船体に納められる2サイクル複動機関の「1号内火機械」である。このエンジンは初期の伊号潜水艦を中心に採用された。更に無条約時代に入ったためにより大出力が望まれ「2号内火機械」を開発したものの構造の複雑さに量産体制が整わず数隻の試験的採用に留まった。
ここで、海軍は内部での原設計だけでは量産に適した高出力エンジンが早期にできることが難しいことに気づくと共に、ちょうど組織の人員が増加したこともあって外の民間会社のディーゼルエンジン開発にも目を向けると共に内部での「研究会」を立ち上げる。廣海軍工廠内にあった機関実験部を横須賀海軍工廠内に移転、大規模なディーゼル試験運転工場を建設し、その内部に民間の協力を受けるための研究会を常設することとなる。この頃、船舶用のディーゼルエンジンを開発・量産していた新潟鐵工所・池貝・三菱(横浜・神戸・長崎)・川崎などの技術者をまとめあげて後日「11号内火機械」を改良し、「12号内火機械」・「22号内火機械」(その後も民間との協力の中で排気タービンを採用したり「23号内火機械」以降を開発)を開発、民間での量産体制に引き継ぐ。三菱などの民間企業はMAN社やSulzer社などのディーゼルエンジンを元に、前述のエンジンの高出力と共に品質・安定性、そして量産性の向上を進めることとなった。
日中戦争の長期化に伴い、逓信省(のちに逓信省と鉄道省を統合し、運輸通信省となる)は部内に海務院を設け海事行政全般を任せることになるのだが、これは戦争中の海上輸送体制強化を図るためである。その海務局は海軍の研究会に目を付ける。もちろん全ての民間船舶をどうにかしようとしていたわけではないが、今後、戦争の長期化も考慮する中で「標準船」や「標準(統制)エンジン」の立案を始める。前記の新潟鐵工所・池貝・三菱(横浜・神戸・長崎)・川崎だけでなく、大阪鉄工所・三井造船・久保田・山岡などにも声を掛け、海務院の下、関連企業の共同設計において数種のディーゼルエンジンを作製し、いずれの会社でも同一の図面の元で製造できる準備を始めた。これが
「海務院型統制ディーゼルエンジン」
であり、製造、取り扱い、部品の共有化などに役立つこととなった。出力はその気筒数の増減、及びルーツ式排気タービン過給機の付加によって行う。単に主機だけでなく発電用などのエンジンもこれに準じていた。
(海務院型統制エンジン自体は民間船舶の中型・大型船舶の「ボイラー」・「タービン」・「レシプロ」に及び、それぞれが後日の戦時標準船の主機として採用される)
開戦前からこの統制型ディーゼルエンジンはいわゆる海上トラック(600~1,000トン程度の小型船舶・日本内航、朝鮮・中国への輸送船の主力)の主機として量産が開始され、量産効果もあって安価なエンジンとして製造が続いた。この「海務院型ディーゼルエンジン」は前述のように民間の船舶のための量産エンジンであり、高出力をめざすものではなく安定した出力のため、安定した整備体制のたのものであり、一年間に各企業の努力もあって海上トラック用のエンジンは数百機(昭和18年では1,800基)単位で量産された。また、3,000トン・5,000トンクラスの「統制ディーゼルエンジン」は海軍の「22号」・「23号」(後に「25型」・「26型」も)を流用し、民間での量産体制(一種の分業体制であり、数社がそれぞれの部品を作り主企業で組み立てる体制を作っていた)に移した。(海軍艦艇にも利用)
これらの量産に対しては鋳鋼、鋳鉄などの鋳造関連の量産体制が必要不可欠であり、その鋼材のブレアリー研究所がそのエンジンに適した合金を開発し、そしてそれらを日本中の鉄工所に海軍と海務院の名前で公表する。これ自体も「標準化」の一環であった。それは単に船舶用のディーゼルエンジンに留まらず、ガソリンエンジン・ディーゼルエンジンの両方共に車両用・航空機用や発電機器などに影響を及ぼし、ブレアリー研究所は次期のエンジン用合金開発に勤しむこととなる。それは単に鉄鋼材に留まらず軽合金エンジン関連の世界にまでブレアリー研究所と東北大学の研究所は手を広げることとなり、その成果は定期的に公表されることとなった。(もちろんライセンスの利用に関しては別であるが…)
更には開発は「粉末合金」に及ぶ。日本の中での粉末合金はその萌芽が見えるところにあったが、それに興味を示している企業は多かった。そして将来を見据えて実際に手を付けつつあった。かの「磁石の飛躍的開発研究」によってさまざまな測定器の精度が向上し、粉砕された鉱石の分類にも役立っていた。しかしその鉱石粉砕・材料粉砕、及び必要に比率による合成に関しては、他国の大型工業機械が必要であった。ブレアリー研究所はある情報を入手する。それはドイツやイギリスなどの同様な研究者からの世間話としてのものであったが、ブレアリー研究所から知らされた情報は海軍・陸軍だけに留まらず運輸通信省等の中央官僚を巻き込んだ。
「スエーデンのヘガネス社の経営が怪しい」
そう粉末冶金には必要不可欠な材料粉砕のノウハウも充実している会社である。本来は石炭採鉱会社であるものの既に還元材料による金属粉砕の能力が高く、「スポンジ鉄粉」(鉄粉粒子が顕微鏡でスポンジ状に見える)と呼ばれる鉄鋼粉末を以前から開発して量産していた。資金不足であるという現状に日本政府自体がある程度資金を出し、神戸製鋼所にヘガネス社のノウハウを輸入するという手段を取った。もちろん、材料面だけでなく製造部である粉末冶金のノウハウをもヘネガス社の技術者を日本に招き、神戸製鋼社の一角に粉末冶金の開発・量産研究の場所を設けたのである。その研究成果の大半は他の製鋼社にも流され、また粉末冶金自体のノウハウを学ぶ場として神戸製鋼社は各冶金会社に門戸を開いた。
海外の情報の流入、情報の共有どによって製作精度は向上し、最初は大型のブロック単位での部品が多かったが、補機、ピストンやピストンリングなどの中・小部品の製作も始まった。三菱などはそのノウハウをすぐさま取り入れて、粉末冶金の基礎工程に欠かせない成形・焼結・矯正の各種工作機械を開発することとなる。またトヨタなどは以前より鋳造部品による量産性向上を目指していたが、粉末合金のノウハウも取り入れたこともあってこれまで削り出しでの部品製造を鋳鉄・鋼での量産が進むこととなる。その他、新興会社であった上瀧高圧機研究所(現 コータキ株式会社)・田中亀(現 タナカカメ株式会社)なども農工省商工務局の試作研究補助金の交付を受け、発展途上の新技術であった粉末冶金用の油圧粉末成形プレス等の国産化に成功することとなる。
もちろん粉末冶金だけでなく、鋳鉄・鋳鋼の技術向上もめざましいものがあった。ディーゼルエンジンに限っては、その成果としての「NKメタル」の開発が必要不可欠なものであったろう。この国産特殊鋳鉄(ドイツのパーライト鋳鉄の近似鋳鉄)の量産によって輸入に頼っていた大形ディーゼル機関用気筒ライナ材は優れた耐摩耗性を持つこととなる。
これらの冶金技術の向上によって、ディーゼルエンジンに留まらずガソリンエンジンやエンジンに伴う補機類、装甲板、砲弾等の強度向上、量産効果が高まり、またそれぞれの性能向上に繋がることとなるのである。
その頃、ドイツの巡洋艦の巡航用、またドイチランド級装甲艦に全ディーゼル方式を採用したという情報が入り、洋上大型艦船用の「四五型複動無気噴油式内火機械」(後の「11号内火機械」)が開発された。が、取り扱いが複雑で故障が多いこのディーゼルエンジンは失敗作とも言われた。そのエンジンも後に民間企業の協力をもって次第に改設計される。ボイラー・タービン式の柱と言うべき主機研究・開発が主流の中でもディーゼルエンジンの省エネ(航続力向上)・小型化(コンパクト化)には海軍は注目していた。
これら民間会社との協力体制の成功があり「12号内火機械」(川崎・大型潜水艦用)・「22号内火機械」(神戸三菱・中型潜水艦用、後に水上艦も採用)、「23号内火機械」(横浜三菱・水上艦用)などを海軍の下請けとして民間が引き受ける形で開発を進めた。(特に整備性・量産性に力を注ぎ、安定したディーゼルエンジンとなる)複雑高性能な複動ディーゼルエンジンだけでなく単動ディーゼルエンジン、2サイクルだけでなく4サイクルのディーゼルエンジンが民間で量産され、前記の「海務院統制型ディーゼルエンジン」をも取り入れつつ安定した出力だはなくより高出力・高性能を目指して開発が進められた。
研究会のさまざまな成果は海軍艦政本部・工廠の名で特許が取られ、そしてまた別のディーゼルエンジン開発を行っている民間企業に(格安で)流布される。そしてそれぞれの成果と報告が開発・製造部門へのフィードバックされる。平時ではそれぞれが「開発競争」するものの日中戦争中という戦時の中で民間の造機(エンジン開発・製造)会社と海務局と艦政本部・工廠とが良い循環関係になっていたとも言える。(戦後、しばらくは新エンジン開発にリソースを振れなかったために、これらの統制型エンジンが元となって改良されたエンジンが昭和20年後半まで主流となった。その交換用部品などは昭和40年代までいくつかの会社で製造されていた)
汎用のディーゼルエンジン開発・量産のある程度を民間に任せた後に海軍の「内火屋」は
「四八型内火機械」(無気噴射式 2 サイクル複動ディーゼルエンジン)
にその開発能力を注ぐこととなるのである。後の「13号内火機械」である。海軍の内火屋は十分な余力を持って新戦艦用の「四八型内火機械」に取り組み、そして艦政本部は全力を持ってバックアップした。(長崎三菱・神戸製鋼社のディーゼル・機械部門も参加する)
「新型戦艦にはディーゼルエンジンを」
内火屋の意識は強かった。「できる、できない」ではなく「必ずやり遂げる」という意識である。
「四八型内火機械」は単気筒の実験エンジンが先に製造され、次にその成果を待たずに6気筒の実証エンジンが製造された。単気筒の経験は6気筒型に反映された。実験と実用を平行して行ったのである。素質は間違いなく良かった。144時間に及ぶ連続運転にも余力を持って耐えることができた。実験結果として
・排気に多少の煙がまじること
・ピストンリングの折損が少し多いこと
・シリンダライナやピストン胴環の磨耗がやや大きいこと
が上げられていたが、素材(「NKメタル」)とその製造方法については改善方法がすでに手元にあった。
その頃建造中の水上機母艦「千代田」(エンジンの変更に伴い、「改千歳型」とも呼ぶ。「千歳」は『11号』の改善型)に改善策を投じ10気筒化した『13号10型』(8000馬力)と改名したこのエンジン(巡航用)を搭載させた。数ヶ月の搭載実験によっても初期不良もあったがその航行中、小さな障害はあったものの大きな問題は生じなかった。次にこのエンジンは排気タービン過給器を搭載(ディーゼルエンジンの排気タービン過給機については4サイクルエンジンにこそ内外の船舶に搭載されつつあったが、2サイクルへの搭載は横浜三菱が世界最初に行った)し、『13号10型改』(85000馬力)と称された。そして新型戦艦に先立って水上機母艦『瑞穂』の主機(全ディーゼルエンジン)として実証実験が続けられた。千代田の経験によって初期不良はかなり軽減され6時間に及ぶ全力運転にも耐える機関とされた。これは機関士の慣れもある。その頃、ディーゼルエンジンの取り扱いについてはよほど民間の船員の方が詳しかった。潜水艦を除き、ディーゼルエンジンを目の前にした機関士は少なかった。前述したようなマニュアルが作成された上で、千代田での運営実績を通じて改訂され、海軍の機関士がディーゼルエンジンについてより理解したことが、この高出力・高性能のエンジンを上手く手懐けてきたのである。
「新型戦艦はタービン・ディーゼル併用とす」
海軍はそう決定し、艦政本部は歓喜した。『13号10型改』はその巡航用エンジンとして8基搭載される(フルカンギアで4基連結し、それぞれが新戦艦のスクリューを回す)ことに至った。いくつかの不安材料こそあったものの、『千代田』・『瑞穂』での実績を積み重ねる中で、その用に耐えうるものと軍令部は判断した。(定期ドック入りの中で、十分に整備改善可能と判断された)
『Aー140J2』
が計画図面より建造用図面へと移行した瞬間である。
後に『我輩ハ複動(働)四七ノ内火機械デアル』を密かに持ち出し秘蔵していた近藤市郎氏(元海軍技術少将,後ヤンマー副社長)の海軍時代の部下であったA氏は、
「私には
『生き残れ』
と、当時上司だった近藤造機中佐(終戦時技術少将)は言ったんですよ。
『13号は採用されたけれど10年後、20年後に不備が出るかもしれない。その時には腹を切る』
そう言うんですよね。20年後なんか、近藤さんは間違いなく退官しているし、へたすれば死んでるでしょう?ちょっとからかうように言うと
『退官していても責任はあるよ。もし僕が生きていなかったら、BかC(いずれも先輩)が腹切るだろう』
目が真剣で、それ以上は反論できませんでしたよ。20年後なんかはもしかしたら機関換装しているかもしれないのに…ですよ。
『複動2サイクルを最初に採用したこと自体が無理を通しすぎてるんだ。あの頃、高出力・高性能な潜水艦用のエンジンのためには必要だったとは言え、日本の技術力・開発能力を大きく背伸びした、つま先立ったものだ』
『幸いにして、民間の協力もあって素材から設計・製造までなんとか条件を満たしてきたもののまだまだ日本にとってはギリギリのものでしかない』
将来、腹を切ることも十分に考慮すべきだ、と呟かれました。
『でも』
言葉を選びながら近藤さんは私にきっぱりと言い放ったんですよ。
『君は生き残るんだ。これからのディーゼルエンジン開発には必要なんだ。失敗を積み重ねた経験者の中でも未来ある若手が死ぬ必要はない』
幸いにして近藤さんは腹を切ることはなかったのですけれどね」
クボタ社内報、近藤元副社長の死亡記事に掲載されたものである。
ここで日本における艦艇・船舶関連ディーゼルエンジンについて終わることは、少々口惜しい気がする。しばらくは駄文にお付き合いいただきたい。
日中戦争によって、日本は大陸に自国の財産・人員を水のように流し続けた。それには二面がある。一つには、日本を「軍事体制」として大正期の花開いた民間主体の政治・文化を押しつぶしたことである。政治維新以降50数年を掛けて外の世界の知識を得、咀嚼して、日本的な文化、そして政治形態を模索していた大正・昭和初期。もちろん現在の目からすれば不十分なものでしかないが。それを10年もしないうちに5・15事件、2・26事件、満州事変、そして日中戦争へと邁進したのはなぜか?世界恐慌もあり、それに伴うブロック経済による日本経済の低迷もあるだろう。朝鮮半島・満州への国力投資に伴う東北地方の低成長もあるだろう。アメリカの日本人排斥運動・移民禁止政策に伴う満州・南米移民(棄民?)増加もあるだろう。その他の様々な要因によって、日本有数のエリート(将校になるのは東大に入るよりも難しかった時代である)とも言うべき軍人の跳ねっ返りを抑えきれなかった政府、そして陸軍・海軍の自浄能力のなさ。戦後マッカーサーは日本をさして
「十五歳」
と言い放ったのは、国としての未熟さを示したと言われるが、『反抗期』を迎えた時期だと捉えるべきである。「盗んだバイクを乗り回し」たり「校舎のガラスを割る」ことは間違いなく犯罪である。子どもだからと許されるものではない。大人ならば「正々堂々と」(自国に有利な環境とジャイアン的ルールを作り上げた中で)戦うべきである。それこそが先進国と呼ばれる国々が行っていることである。(現在でも「みんな仲良く話し合いしましょう」的な日本はまだ十分な先進国とは言えない)昭和初期の軍人は環境作りがあまりに下手であった。
二つには戦時予算のあり方であり、それに伴う民間の経済の高揚である。「青空天井」とまでは言わないが、軍備費はうなぎ上がりに高まりそれまでの陸海軍共の軍縮の空気は吹き飛んだ。軍備費だけがよく取り上げられるがその金銭的ばらまきは会社とその地方経済を回す。これらの動きを「公共投資」と捉える場合もあるが、それによって民間の経済の動きも活発になるのは同じこと、金が回る、つまり軍縮と世界恐慌によって冷え込んでいた日本経済は沸騰寸前であった。(実際に言えば世界恐慌が落ち着きを始めて日米の輸出入が活発になったのも一因であるし、軍備費の増大はエナドラ常飲による連勤の結果にしか過ぎない。健全たる経済状態ではない)ただ、この経済的高揚感は民間の投資に繋がる、新しい会社・工場が立ち上がり、ディーゼル関連では地方にまでエンジンが使われ始め新規船舶(それこそ流行のディーゼルエンジン搭載の)が建造される。この時期の日本は「高度成長期」であった。(軍備費を別にすれば10年、せめてあと5年この成長期があれば…日本企業のブラック化はあるだろうが「中間層」が増えて内需が増し、別の日本ができあがったかもしれない)少なくともこの日中戦争によって国内経済が活発となり、ディーゼルエンジン開発に拍車を掛けたことの一因になったのは事実である。
民間の造船・造機関連の企業がディーゼルエンジン開発・製造にかけたのは、その燃費だけではなく
「外国と同じスタートラインにいるのであれば、同等の研究成果が得られる」
というわずかな望みである。(前述のトラックと同様である。それ自体は戦後の「造船大国」につながっているのは間違いない)船舶用のディーゼルエンジンは潜水艦用を除き、日本とドイツがほぼ独占状態となる。
戦前、それぞれの造船・造機会社は外国のエンジンの影響を受けつつ(パテントは払いつつ)自己の会社で新しいディーゼルエンジンを開発していた。それを戦中の増産を考えた海務院が「統制型」として設計を統一し、製造の増大を図った。また海軍が「海本型」として艦艇用のエンジンを設計し(23型のように民間のエンジンを基本としたものもあったが…)各造機会社に量産を命じた。戦争が長引くと共に、特別なもの以外は量産性に優れた単動式の2サイクル・4サイクルに移行していく。(洋上速度が必要な伊号潜水艦でさえそちらの方を採用する場合も多かった)
しかし、ディーゼルエンジン研究・開発には艦政本部・民間企業にしても歩みを止めることはなかった。これまでの設計の見直しや新たな(ドイツからのものが主)技術の導入などにより、より高出力・高性能・高効率のものが計画・設計・試作され中には試作状態のものでも実証搭載として水上艦(民間のものを含む)・潜水艦に搭載されてその不具合が次の設計に役立つこととなった。
「こんなのできるかぁ~~!!」
彼の声はその場にいる技術者全員を代表するものであった。誰もその叫びを止めることはできなかった。目の前にあるのはダイムラー社の過給器付き4サイクル20気筒ディーゼルエンジン。かの航空用DB 602エンジンより派生した2000馬力・予燃焼室式軽量高出力(小型船舶・魚雷艇用エンジン)としてMB501と称されたものである。海軍は無理を承知にドイツに要望し、ドイツとしても最新鋭のエンジンでありかなり嫌がっていたが日本潜水艦による密輸同然の状態で日本側が購入した。
「試作レベルの1基、2基というならばそのまま生産できるが、とても量産できない」
横浜三菱は海軍に報告した。長崎三菱は大型エンジン、そして横浜三菱は小型エンジンといずれもディーゼルエンジンの民間開発の主流とされており、このダイムラー社のディーゼルエンジンは横浜三菱に任せるべきと判断された。しかし
「無理なものは無理」
ということ(なんとか冶金的には追従できるが、現在の造機関係設備の能力を超える工作精度が求められたこともあって,ついに投げ出されてしまう)をなかなか理解できない海軍は
「どうにかできないか?」
と自己の欲求を伝える。
「任せてもらいます?」
担当の声は冷たい。艦政本部としても戦時中にこれにこれ以上関わることは難しい。他に仕事が多すぎる。肯定するしかなかった。
「量産できるように作り上げます」
そして、東京三菱を巻き込んで作り上げたのが
『ZC型ディーゼルエンジン』
である。このエンジンは本来将来の戦車エンジンとして計画が始まっていたもの(4式・5式中戦車のエンジンは4サイクルだから叔父?従兄弟?)で、開発へは確実性が高いものをベースにし実直に進められたものであり、航空用ディーゼルエンジン(日本では実用化が成されなかったものの三菱自体ユンカースなどのエンジンを輸入したりと長く開発を続けていた)の技術を取り入れたエンジンである。魚雷艇用(潜水艦用としても考えられていたが、戦中後半シュノーケルには4サイクルが適切であると判断される)として2サイクル過給器付き(1500馬力)として製造されたこのエンジンは、日本の製造能力の(ギリギリを)考えて設計されたこともあって安定した出力と整備性を見せ、日本の小型ディーゼルエンジンの傑作として昭和20年代に(戦後も)量産され、この子孫というべきエンジンがその後の三菱の小型高速船舶(魚雷艇にも)に利・活用(戦車などの車両用にも影響を与えた)、三菱としても戦後間もなくの間は新規開発よりも改良を加えることで素性の良いこのエンジンを贔屓にしていた。またディーゼル機関車のエンジンとしても有名である。(昭和40年代以降は4サイクルディーゼルエンジンの改良・改善の中で高性能・高出力化が続き、船舶用・機関車用の2サイクルディーゼルエンジンは消え去っていく。また戦車用は90式戦車まで2サイクル(ZG型)を採用している)
かのように戦中における造船・造機企業はおのおのに一時期量産という刷毛に塗りつぶされたのであるが、それぞれに自己の会社の特徴を生かすべく(戦後の優先性を生かすべく)自己の伸長を図っていたのも事実である。中には重油よりももっと低質の油(タール的な本来は捨て去るもの、スーパー・コンビニ袋を作るのは余技である)や天然ガスを燃料とするディーゼルエンジンなどの開発は実は戦時中に始まっている。
日本という国は
「新たなものに、新たな価値を付ける」
ということを知っている国かもしれない。
いかがだったでしょうか?
大和にディーゼルエンジンを載せることは最後の最後まで悩みました。で、故 近藤様に敬意を賞して(間違い字ではなく)搭載させました。実際にはディーゼルエンジンに関する信用性と蒸気発生(真水製造能力を含む)の能力低下がタービン全振りになったようですね。
ディーゼルエンジンは『造船大国』日本を支えたものですので、多少大げさに扱いました。戦記を読んでいくと海軍の艦政本部ばかりが活躍しているようなことに不満を感じましたが、ありがたいことに今回は小さなエンジンメーカーも扱うことができました。個人的にはポンポン船の「焼き玉エンジン」も結構好きなのですが、農村の育ちのために農機具のディーゼルエンジンとモーターが身近だったのですよねぇ。(自宅にも日立製のモーターがありました)
ちなみに海に沈んだ(自殺?)ディーゼル博士を日本に招くという話を入れようかと2日ほど悩みました。
さて、リアル娘が本作品を読んで、
「愉しんでるから良いんじゃない?」
と宣ったので、もうしばらくいろんな『武器・装備』の発展について考えてみようと思います。
やっとやっと僕が書きたくて仕方がなかった
『排気タービン過給機』
の話になります。
え?
ディーゼルエンジンの過給器はすでに書いたでしょ?
はい、できればその経緯も書きたいと思います。(書くとは言ってない)
ではでは。




