一式重爆撃機(新たなる流れその4)~私は、信頼に報いなければならぬ~
いらっしゃいませ。
いつもながら拙い話で申し訳ありません。
田舎暮らしなもので、年に数回、実家のお手伝い、田植えの苗の世話で背中も腰も足も死んでました。ジーサンのために身体ががたがたで、なかなか座ってパソコンに向かうことができなかったために一回お休みをいただきました。
ようこそ「架空機の世界」へ(笑
今回は「次機作」の話をまとめてみました。だいたい昭和17年あたりを想像してください。(ホントは18年・19年あたりなのですけれどね)
夢を追って、失敗してもいいじゃない。
それでも何とかなるものよ。
マヤ・アンジェロウ
中島はあせっていた。
深山の失敗は海軍としても四発機が最初のことであり、多少の失敗は織り込み済みであった。しかしどちらも「外国機」が下地とはいえ三菱は2式陸攻という成功作を産んだ。対して我々は?ダグラス DC-4E(ちなみにEは実験機という意味である)ははっきり言えば失敗作である。エンジン出力に比べ機体重量が重く(大きさはB29に匹敵する)機体機構が複雑すぎ、整備性にはかなり問題があった。そして深山もその欠点である重量超過と整備性の悪さを受け継いでおり、機体重量も当初の予定を2割以上超過しており、運動性も劣悪である。少なくとも実戦では使えない。2式に比較してもその性能の差がありすぎた。海軍は16年に試作1号機が完成し海軍に領収されるのであるが、搭載エンジンの護は失敗作といってかまわないもので、出力が2割減になることを覚悟して火星10シリーズを載せたのだから鈍足になっただけでなく、操縦性自体は素直なものの運動能力が
かなり低かった。本来、B29規模の機体に雷撃させようということ自体が無理があるが…。陸軍の一式重爆の成功に海軍側が飛びついたのは仕方のないこと、と中島は簡単には諦めることはできなかった。
よく
「アメリカはDC-4Eが失敗作と分かっていて日本に売った」
論があるが、海軍航空本部の和田繰大佐が1936年にダグラス社でDC-4Eの実物大モックアップを視察し帰国後に提案した。日本がその契約交渉を始めた時期は実機どころか設計図が5割程度できた時期であり、契約がなされた頃でも7割程度というありさまで、アメリカがこの時点で失敗作という烙印を押せない時期であった。なにせアメリカでさえ近代的(以前言いましたが、航空機の技術的進化は1935年前後で飛躍的なものがある)な民間の陸上四発機は未だない。民間旅客航空社はかなり期待を込めていた。(FW200はDC-4Eに影響を受けて作られた機体)ダグラス社が大陸無着陸横断旅客機の発注をユナイテッド航空が行うが、ダグラス社はダメ出し。
「開発のための金がない。あんたのとこ1社じゃ無理だろう?」
ユナイテッド航空は競合する航空会社を集めて協議を取りまとめ、開発資金と量産買取の約束を取り付ける。都合20機、ユナイテッド航空、イースタン航空、アメリカン航空、トランスワールド航空、そしてパンアメリカンの5社が各10万ドルの開発資金を提供して開発が始まったのである。しかし結局採用された機体はユナイテッド航空の1機のみであった。運航に対するコストが高すぎたのである。
ただ深山の功績もある。添えられた構造計算書などの資料、大型機の構造設計手法、操舵装置や降着装置の高圧油圧制御方法、ダグラス式のリベット技術、厚板構造などである。構造計算書、大型機の構造設計手法、高圧油圧制御方法(ただし、油圧はかなり低められた)はその後の連山、キ91に生かされている。ダグラス式のリベット技術、厚板構造はその後の大型機だけでなく小型単発機の設計・製造に生かされている。戦争後半の生産数増加、部品・製造工程の減少はこのためである。これにはライセンス生産で製造技術込みの導入、製造に必要な図面だけでなく、治工具といった製造に必要な装備一式がダグラス社から渡されている。リベットとカシメ機といった工作機も日本に技術導入したのである。その技術を中島と海軍航空本部は他社にも広めた。もちろんキ50でもボーシング社式のリベット技術や厚板構造が導入され三菱は名古屋航空研究所でその技術を公表していた。このダグラスシステムとボーシングシステムに接した日本軍は直ちに全社・全機種へと水平展開を行い、戦争後半の軍用機量産に欠かせないものとなった。1機 200万円(95万ドル)で製造権も含めて輸入したかいは十分であったろう。
「海軍は次の四発機も中島に任せたいらしい。」
中島の松村健一技師は微妙な表情を浮かべた。深山を諦めたはずなのに?
「三菱は無理だ、キ50を飛ばせるようにするだけで毎日徹夜状態だ。」
なるほどそうかもしれない、と松村は頷いた。いくらポーイング社の設計があるとはいえ、実機を部品レベルから作り上げて飛ばすということには多大な作業が必要となる。それは深山の開発にも言えた。そしてその細かな改修にもだ。
「陸軍も三菱を諦めている。川崎を予定している」
川崎?四発機の経験どころか双発機でさえ数えるほどなのに?なるほど開発陣の余力か…開発陣の層の厚さは間違いなく中島と三菱が他社を圧倒している。次に川崎、愛知あたりではないか。他の会社はまだ出来て5年前後、自社開発に意欲はそれぞれの会社が持っている。しかし陸軍から応援を得てもせいぜい立川が続くくらいだろう。しかも双発機が精一杯だ。
海軍からは2式陸攻が大きすぎるという意見が出された、特に横幅が。しかし、搭載量を削ることは許されてはいない。(1.5~2トンの魚雷2本が正規)
○機体の小型化
○運動性の向上
が基本的な要求の中でも優先事項とされていた。海軍はまだ雷撃をあきらめていない。更に
○速度 660㎞以上(1トン搭載時)
が要求されていた。すでにキ50では540㎞、エンジンを変更したキ50Ⅱ型・2式は565㎞を記録しており、それよりかなり上を望んでいたのである。
すでに松村健一技師は、深山の設計・製作の傍ら次期の飛行機についてのコンセプトをまとめつつあり、学んだ厚板構造をもとに主翼の形状や構造についての基本設計をチームとして始めていた。またキ50や鹵獲したB17の実機を目の前に出来、そのため自社の誉エンジンを排気タービン付きの構想で早期にまとめることができた。さすがに660㎞の速度は難しく600㎞オーバーとし、航続力も11000㎞から8,000㎞へと変更した構想をまとめた。
一方、陸軍のキ91であるが、基本的にはキ50の性能向上型である。キ91の性能要求は、
○最大速度 高度10,000mで580km/h
○航続距離 爆弾4,000kgを搭載して9,000km
○爆弾の最大搭載量 8,000kg
である。試作指示を受けた川崎航空機は、土井武夫技師を設計主務者として基礎研究を開始し、高度10,000mでの高性能を実現するため、与圧キャビンが必要であった。またその性能を出すためには、2000馬力オーバークラスの排気タービン付きエンジンが必要とされていたが、もちろん川崎にはそのようなエンジンを用意できない。(一時期、後の「景雲」に搭載されるはずのDB601を並列双子型(愛知 ハ70-I 液冷倒立V双子型24気筒 離昇3,400馬力)にしたようなエンジンも検討されたが、川崎のエンジン部門は少数者で構成されており、その頃ハ140の開発に主力を注いでいるため開発は無理だと判断された)そのため、エンジンは三菱で開発が始まったハ214ル(火星エンジンの18気筒版の改良型排気タービン付き2,500馬力、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に一機現存)と、最初から高性能を目指したものであった。
キ91の開発の困難さは、エンジンよりも与圧キャピンの実装である。日本では与圧キャピンの研究はロッキード L-10 エレクトラを日本で生産したロ式輸送機(97式重爆も検討されたが、立川飛行機が作ることになったのでこちらを採用)をもとに「研2」と呼称された高高度研究機が始まりである。(ロ式B型高高度研究機とも称される)陸軍の要請によって帝大航研が設計、立川飛行機が制作した。(ちなみにアメリカの与圧キャビン研究機XC-35もロッキード L-10 エレクトラをもとにした。不思議な一致?ちなみにちなみに世界初の与圧キャビンを備えた機体はユンカース Ju 49とされており、実戦に参加した機体としてはJu 86 Pが1940年から投入されている)
実は日本が検討していた与圧キャピンは完全密封式(操縦用のケーブル類の処理に苦労した話がある。結局はなるべく小さく開けたらしい)でエンジンの補機で加圧した空気をキャピン内に流すというものである。それに対してアメリカが与圧キャピンを装備した機体はXC-35の実践研究を元にした民間機のボーイング307であるが、この機体の与圧キャピンは完全な密封式ではなく、少々の隙間があっもその漏れてしまった空気以上に加圧した空気を強引に送り込んでバランスを取るというものであった。(B29の与圧キャピンもその流れであり、撃墜したB29を調べて与圧キャピンの思った以上の隙間の多さに調査した日本側技師が絶句したという話も残っている。ただこの隙間の多いのも、与圧が高い状態で被弾・破損した場合に急減圧によって機体が破壊される恐れがあり、内圧と外圧の差があまり大きくならないようにすることも必要であったために、一概におかしなことではない。(ちなみに現在の旅客機は完全密封式)
そしてキ50に関して与圧キャピンを設けることはしていないが、ちょうどボーイング社から旅客機の307を日本にセット販売しようという提案があった。307は
「打倒ダグラス」
を旗頭にそのころとしては最新の機器を備えていた。与圧キャピンもその一つである。しかし旅客機としては高価でDC-4Eと比べると小さい、後続のDC-4と比べ(与圧キャビンのため)乗客数が少ない、調達コスト、運用コストともに高い。そしてⅠ号機は尾翼設計の不備から墜落事故を起こしている。売れない307の引取先をボーイング社は探していたのである。しかもキ50は間接的な利益が多いといっても、直接利益を得るためにはいい案だと…さすがにB17は売れない、ならば307だ。ボーイング社としては日本の興味を引くためにかなりの量の資料(機体の基本設計・構造設計図、中には与圧キャピンのことも)を渡した。日本としても長距離旅客機に興味があり、特に満州から東京をひとっ飛びに出来る機体に手を伸ばそうとした。そして時間切れとなってしまった。アメリカは日本に対して航空機を売ることを禁止したのだ。
しかし307の与圧キャピンの構造資料やそれに伴うAPU(エンジン補機)などはかなりの割合日本にもう渡したあとであった。名古屋航空研究所ではその資料をもとに、次期航空機の研究の一環として与圧キャピンを研究していた。その成果を生かし、立川航空機はキ74遠距離偵察爆撃機(キ77・A24を利用した長距離爆撃機)に、川崎航空機はキ108(キ102戦闘機を利用した高高度戦闘機)にそれぞれ与圧キャピンを載せようとしていた。つまりキ108で実験を行ったのちキ91で実用化するという方針である。
ただ、与圧キャピンは設計よりも製作上の問題が噴出し、ペアガラスの曇りの解消がなかなかできないなどのキ108の製作上の困難さから特に大型の与圧キャビンを間に合わせることが出来ないと、川崎としてはキ91の試験飛行を昭和20年と考えていたが、与圧キャピンなし(つけることは前提として)のままに設計を急いだ。
陸軍としては一式重爆の改良型として三菱ハ214ルか、同じく三菱のハ211(金星のⅠ8気筒版、遠心式機械過給器1段3速)を載せる計画が出されていた。三菱としては排気タービンに対する信頼性がまだ十分ではないと四式双発爆撃機飛竜Ⅱ型に予定していたハ214(排気タービンなし)を載せたがっていた。もちろん高高度用に過給機を修正したもの(一段3速、あるいは二段3速)である。
そして中島飛行機の「大社長」、中島知久平はある機体を提案する。
コードネーム『Z機』
のちの『富岳』である。中島は『必勝戦策』と称する論文を執筆、東条英機首相や軍の幹部たちに献策する。
「アメリカの工業力にもはや精神力だけでは到底、対抗できない。
時を経ずにアメリカから大型爆撃機が飛来して、本土を空襲、日本は焦土化する。その前に大型爆撃機を設計し、アメリカ本土へ飛ばし、アメリカから旅立ってくる飛行機の飛行場を破壊する必要がある」
その仕様は以下の通り。
〇 最大速度 700㎞以上
〇 航続距離 1万9400キロメートル(地球半周)
〇 爆弾搭載量 20トン
〇 5000馬力6発エンジン
この飛行機を400機、日本の全国力を上げて生産するべきものとされていた。そしてそれはできるできないではなく、これができなければ日本は敗北するものとされていた。この荒唐無稽な計画はアメリカ本土を爆撃した後でドイツに着陸。再度ドイツからアメリカ(もしくはソ連)を爆撃して、再び日本に戻ってくる飛行機とされていた。
「また中島さんの大ぼらが始まった」
「飛行機だけでどうにかなるものか」
とかなり批判的なものが多かったが、帝国議会に影響を持つ中島の意見はとりあえず陸海軍の航空関係者、軍需省関係者を集める研究会を立ち上げるだけのものをもっていた。
B29でさえアメリカの航空技術の粋を集めた結果として出来上がったもの(かなり無理をしている)であり、B29の倍の爆弾搭載量・航続距離を考えるだけでも実用性のある計画ではなく、アメリカでさえこれに並ぶ性能を持った爆撃機B36を開発したのは5年ほど後(初飛行は1946年)の話である。到底達成できるものではなかった。4月から始まった研究会は百家争鳴状態で、なかなか話は進まない。そんな中、大社長の鼓舞のもと、中島飛行機自身は大型発動機社内呼称BZ(ハ54、寿エンジンの18気筒版ハ44を2台タンデムに連結する)の開発や与圧キャビンを前提とした機体構造の研究などに力を注いだ。(実は一番の問題はその離着陸のための降着装置であったとも言われている)
「そんな機体を作る手間を考えたら、現在の飛行機を改良した方が戦争に間に合う」
「その機体に使うジュラルミン(全備重量42t)で何機の飛行機ができることか」
という意見が大半を占め、半年もしない9月にはこの騒動は「時期尚早」ということで中止となる。中島知久平はこれに反発
「中島飛行機の全力を上げて、完成させる」
と声高らかに決意表明を行った。しかし、そのころの中島飛行機は主なものだけでも
一式戦、二式戦、百式重爆、月光(13試双戦)、深山、
の改良が続いており、それ以外にも
キ84(四式戦)、キ87 高高度戦闘機、十八試局地戦闘機(天雷)、艦上攻撃機「天山」、艦上偵察機「彩雲」、陸上攻撃機「連山」
などの新規開発を続けている状態であり、「富岳」計画に割けるリソースはかなり少なかった。それでも中島飛行機の技師は大社長の言葉とともに、新しい技術に挑戦することに意欲を見せ、またその頑張りを見せたのである。
以上の四発・六発の爆撃機の開発とともに、そのコストの問題もあり陸海軍は双発の攻撃・爆撃機、遠距離偵察機などを計画する。(もちろん爆弾搭載能力は半分以下に押さえられているが…)
これらの計画はあるものは実用化され、戦争末期に活躍が間に合ったものもあれば、「夢」に終わったものもある。しかし「夢」というものの、その開発の経緯や経験は戦後に生かされる。すべてが無駄となったわけではないことをここに記しておきたい。
いかがだったでしょうか?
一式重爆・2式陸攻の次世代をどうしようか…とまとめてみました。
排気タービン
与圧キャビン
どちらもそのころの日本にとっては開発はできても実用化が…というものですね。単発機への排気タービンはちと無理があるかなぁ~でも多発機ならば…などとも考えてしまいます。(排気タービンの材質もですが、中間冷却器の取り付けが単発機ではなかなか…)で、一段3速や二段3速の機械式過給機(スーパーチャージャー、「マッドマックス」好きな人は手を挙げて(^o^)丿)もそろそろ開発されているので、そのあたりもしっかり描きたかったものです。筆力で無理だけど…
富岳は出すことをためらいましたが、のちのスバルなどの自動車会社(富士自動車)のためには出さざるを得ないかと…決して愛車がハチロクだからという個人的なものではありません(白目…)
しかし中島知久平様って、調べれば調べるほど面白い人ですね。会社発足当時
「札はだぶつく、お米は上がる、何でも上がる。上がらないそい中島飛行機」
という落首があったそうですが、それからの二〇余年の間に世界でも有数の飛行機会社に育て上げた力量はたいしたものです。
次回は末期の話になる予定です。
いつもながら、作者の筆の運びは皆様のブックマーク・感想・評価に直結しています。良かったらお願いします。
ではでは。。。




