003
白髪の少女は、その外見とは裏腹に、道路中央を走り抜ける速度は常人を超える。
人型の限界を抜けきれず、重心が低いわけでもなければ小さい足の接地からなる速度でも、車両の走行速度には達していた。
警報発令から時間も経ち、逆走を阻むような人も車両もない。
少女の横では街並みが一枚絵のように通り過ぎ、端末情報を頼りに走ったのも短い間で、後には聞こえだした音源へと駆けた。
そして足を止める。
音を頼りに接近した段階から、街並みに隠れない姿を見た。
遠くで広がる延焼風景は、嫌でも敵の能力を示していた。
ようやく怪獣を正面に捉えた時、白髪の少女の視界に広がるのは、瓦礫の広場と化した街の景色だった。
怪獣は巨大だった。
綿の詰め物が中央に偏ったような形状でも、柔らかな動きに反して風に従った様子は見られない。
寄りかかった建物をそのまま横倒しにする並外れた質量は、同時に人間が優に見上げる巨体を持つ。建物の外壁に斜めがかった体幅は、片側二車線の大通りを渡ってさらに奥、街でも目立つ総八階のその最頂部に触れていた。
少女が今日までに戦った相手、その全てを足しても目の前のそれには及ばない。
それでも完全に止まった足で、次の一歩を踏み出した。
政府の公表する情報は限られている。
一般人に必要なのは、その地点における避難の可否だけ。原因の詳細までは公開されない。出現地点も明確に示されることはなく、交戦もしなければ相手の詳細は不要だろう。
そして、交戦前ともなれば相手の実力を知るすべも限られる。
その事実を知りながらも、少女は忘れて生きていく選択を今日まで取ることができていなかった。
形状、大きさ、個体としての強さ。
正体不明の敵と戦う危険性を考えないはずがない。対処に負えない怪獣を前にすれば自身も逃げを選ぶと思って、弱い相手を選んでいたはずだった。
既に視界は広く晴れている。
地表の霧が減少していることから出現から時間も経つ。このまま見逃したところで基地から出動する正規部隊が直に到着する。
それでも少女は怪獣へと近づく。
敵外周の薄い部位をつかむと、そこから駆け上がった。
底面部と上部で硬さが異なるのか、巨体を支える地面がきしみを上げていたわりに体表は柔らかい。だが、それは駆け上がる少女の勢いを確実に奪い、傾斜が増した途中からは、体表に杖を突き刺して登らせるようにさせていた。
そんな間にも地表では破壊が進み、いくつかの炎が広がる。
明らかに設備によらない火炎を見て、少女は登りを急いでいた。
せめて敵の攻撃手段を奪えれば被害も抑えられるが、炎の吹き出す位置は運動の激しい前面にあり、なおかつ巨体による質量が相手では、その可能性もない。杖による一撃しか攻撃手段のない少女は、敵の活動停止を狙って怪獣のあるかもしれない弱点を探すほかなかった。
怪獣の巨体の中央、進行方向寄り。
敵の形状からして頂上となる位置に来て、少女は移動を止める。
大半を見下ろす視界には、敵が街を押し通った跡がくっきりと見えていた。
少女は一つしかない杖を振り下ろすと、途中で転げ落ちないよう、残った片手を敵の傷口に差し込む。乾いた体表とは逆に、弾力と湿りのある内部の肉をつかむ。臭いの少ない体液を気にした様子もなく、濡れていく衣装を無視して、ただひたすら敵の傷を広げる。
建物の倒壊で敵の体は揺れ、移動のたびに体表は波打つ。
少女は弾き落とされまいと表面に張りつき、安定した隙に攻撃を加えた。
建築制限のある一帯の建物では巨体の前進を止められず、大きな反りを生み出しながらの前進が壮大な音を立てて周辺の建物を崩す。
飛び散る破片と砂煙は、怪獣上部、少女がいる場所にも届いた。
怪獣の肉も均一な柔らかさではない。粘土遊びとはいかず、白まった内部にある筋ともとれる弾力により、突き刺す勢いは弱まる。
少女は怪獣の体表に何度も突き立てれば、次にはミシン目のように並べた穴を切り広げた。
攻撃手段で劣る少女が最も注意すべきは、怪獣の再生能力であった。
怪獣が形状を保つために筋を持つなら、小さな穴では周囲の肉圧で容易にふさがれてしまう。切り開いた部分も波打つ間に密着して結合を早める、再生直後に強度が劣るとしても、巨体を相手に許容していい問題ではない。
再生を妨げるためにも傷口を広げ、残る手で掴んだ肉さえ引きちぎって完治を防ぐ。
次第に少女は生み出した傷へ潜り、内側から押し広げる形をとる。体内に潜り込むことで弾き落される危険も減るのであれば、全身に敵の体液を浴びることさえ許容される物だった。
そうして繊維の隙間を切るように、杖を突き刺す。
引き抜くたびに弾力を味わう中、振り払った杖は初めて硬い感触を返した。
敵の骨格に届く。
表面という段階を過ぎて、今は大人一人がそのまま収まる深さに至る。既に周囲の肉は結合を諦め、今なお続く活発な移動が再生よりも傷口の悪化を生じさせていた。
だが、これも怪獣が破壊を止めて安静状態になると一変する。か細い一手かもしれないが、しかし少女にとって千載一遇の好機に違いなかった。
だが、それでも、
容易に再生できない段階まで傷付けたというのに、次の一手は届かない。
何度、振り下ろそうと、少女の眼前にある硬質な床は変わらない感触を返した。
「刺され、刺され、この!」
いつしか荒げた言葉吐き出し、その勢いすら次第に尽きる。
杖を何度も叩き付けた後には、わずかな傷を見つけようと硬質の表面を手で探した。
それが無駄だと分かっていても少女は、同じ工程を繰り返す。何度も、攻撃を試す度に気力が削られていたとしても。
全ては怪獣を殺すため。
皮を裂き、肉を引きずり出し、それでも足りず、殻皮を砕こうと手を振るう。
そして震えながら振るわれていた杖さえ数度の後には手元から離れて転がる。
腰を落として座り込んだ少女に、現状を解決する手段は残されていなかった。
そんな現場に声は届いた。
「――おい、そこから離れろ」
昼の陽に照らされる赤い衣装。
白髪の少女は、見上げた位置に今の自身と変わらない年若い女性の存在を見つけ、その横、女性と背丈を並べる銃砲が携えられているのを見た。
その存在に気付き、言葉のどおりに引き下がれば、現れた女性が同じ足場に着地した。
女性の目線はすぐに下がる。
足元に向けられていた銃口は、女性の発射のひと声に続いて耳を震わすような濁音を鳴らした。
銃撃は直下の骨格に難なく穴を生み出し、深くまで日光を通した。
それまで続いていた騒音も振動も、一度だけ大きな衝撃を引き起こした次には静まった。