ノワイオの街
失踪しようと意気込んだはいいものの、その機会はなかなか訪れませんでした。
挙動不審な振る舞いをしてしまわないように気を付けながら、公子に愛想笑いをしつつ、大きな通りにある市場を歩きます。
街の雰囲気はグラスフィーユ伯爵領に負けないくらいの活気があり、私達のように観光で訪れている貴族の姿もありました。
庶民と貴族が同じお店で当たり前に買い物ができるということは、この街が潤っている証拠です。
市場にも人はたくさんいましたが、公園はそれ以上に賑わっていました。
公子がお話していた通り今はちょうど花盛りの時期で、大きな時計の文字盤が赤や黄色や白などの色とりどりの花で埋め尽くされていました。
満開の花時計の反対側には噴水もあり、時折冷たい飛沫が花の香りと共に風に乗って頬に当たります。
桜や木蓮などの花木が公園の至るところで咲き誇り、芝生の上に寝転んでお花見をされている方もちらほらと見受けられました。
(すごい…こんなにたくさんの花を一度に見たのは初めてだわ…)
まるで妖精の国に来たような心地がして、私は一時目的も忘れて瞳を輝かせました。
踊るような足取りで煉瓦の道を歩き、きょろきょろと落ち着きなく周囲を見回しては咲き乱れる花の美しさに酔いしれます。
藤棚の真下から枝垂れ咲く紫色の天井を見上げると、小さな花びらの隙間から陽の光が煌めいて自然と笑みが零れました。
気が付けば思う存分満喫してしまい、正午を知らせる鐘の音ではっと我に返りました。
「楽しんでもらえたみたいだね」
後ろから公子の穏やかな声が聞こえました。
ここへ来た時は隣にいたはずなのですが、いつの間にか追い越してしまっていたようです。
幼い子のようにはしゃいでしまったことが今更になって恥ずかしくなってきました。
立ち止まって俯く私の傍に、ゆっくりと歩いてきた公子が追いつきます。
「申し訳ありません…つい夢中になってしまって…」
「いいんだよ。リタが笑ってくれたら僕も嬉しいから」
私が花を愛でたように、公子も私をうっとりとした視線で見つめてきました。
その男性の色香を感じさせる笑みにドキドキと胸が高鳴ります。
「リタは花が好きだから、ここへ連れてきたら喜ぶだろうと思っていたんだ」
けれどその言葉を聞いた途端、私の心は冷めていきます。
公子は昨晩ご自身が見に行きたいから付き合ってくれと言っていたはずです。
それをまるで私の為に連れてきたと言わんばかりの言い方をするのは卑怯です。
私の気持ちの変化に気付いているのかいないのか、彼は言葉を続けます。
「王宮にも素晴らしい薔薇園があるんだよ。そこへも一度連れて行きたい」
にっこりと微笑みかけてくる公子に、私は失礼とは承知しながらも胡乱な視線をぶつけました。
その薔薇園はオーロラ嬢とデートをした場所なのではないのですか?
ご機嫌を取りたいお気持ちはわかりますが、他の女性との思い出がある場所に連れて行こうとするなんて無神経です。
この冷めきった目を見ればきっと誤魔化すことは無理だと諦めてくださるでしょう。
そう思っていたのですが、私の予想はまた外れました。
公子は途端に笑みを消し、昨晩のように表情を無くしてしまいました。
その真剣な眼差しから得も言われぬ緊張感が漂ってきて、圧倒されてしまいます。
「僕は今まで女性とふたりきりで出かけたことは一度もない。今日、リタが初めてだ」
「……」
「今の君に何を言っても伝わらないとわかっているよ。わかっているけど流石にね…そんな目で見られたら言わずにはいられなかったよ」
公子がこのように淡々とお話をされるのは初めてでした。
怒っているわけでも悲んでいるわけでもなく、何の感情も感じられません。
「薔薇園には友人のディランと行ったんだ。ディラン・ダリオル、ダリオル伯爵家の三男だ。以前に何度か彼の話をしたことがあったよね」
「…ええ…覚えています」
「彼が下見に付き合ってくれと言うから誘いに乗った。ただそれだけのことだよ」
「……」
じっと私を射抜くふたつの青い目に言い様のない恐怖を覚え始めた時でした。
彼はふっと目許を綻ばせ、何事もなかったかのようにいつもの柔和な雰囲気に戻りました。
「今度リタに紹介するよ。君の話をしたら会いたいと言っていたから」
それは私に他の結婚相手を紹介するということでしょうか。
生憎ですが私は修道女になるので必要ありません。
「リタが今何を考えているのか僕にはわかるよ。心配しなくてもそれは絶対にあり得ない。彼にも結婚間近の婚約者がいるからね」
「……」
彼にもということは自身と同じく…という意味ですよね。
結婚間近の婚約者というのはどなたのことですか?
少なくとも私でないことは確かです。
そのようなことを口にされるだなんて…言い訳をするどころか襤褸を出しましたね、公子。
(語るに落ちるというのはこのことですね…)
得意げな笑みを浮かべると、何故か公子も同じような表情を私に向けてきました。
呆気に取られる私に優しく微笑みかけて、指先で頬をすりすりと撫でてきます。
「君だよ…リタ」
「……」
その表情にまたしても見惚れてしまい、はっとして一歩後ろに退けようとしましたが、実行する前に彼の手は離れていきました。
どんな言葉を返せばよいのかわからず困惑していたその時、どこからともなく地鳴りのような音が聞こえてきました。
いったい何の音かと不思議に思っていると、間もなくその正体がわかりました。
私と公子の間に数名の貴婦人がツバメのごとく勢いよく飛び込んできたのです。
「公子っ!!ご機嫌麗しゅうございますっ!私を覚えていらっしゃいますか?!以前夜会で一度ご挨さ」「ルーイン様!!このようなところでお会いできるだなんて感激です!きっと私達、運命の糸で結ばれて」「ルーイン様っ!!私です!マーガレット・セクルーです!先日はハンカチを拾っていただきありが」「ご機嫌いかがですかルーイン公子!!本日のお召し物もとっても素敵ですわね!もしかしてそのコートは私の髪とおそろいに」
ほとんど一斉にお話をされるものですから、声が被ってどなたが何をお話されているのか全くわかりません。
「ちょっと待ちなさいよ!私が先にお話していたのよ!」
「なぁにがお揃いよ!貴女のはどぶ色じゃないの!!」
「なんですって?!」
「きゃあ!痛いっ!どなたですの、今私の背中を押したのは!」
「公子、彼女は勝手に転んだだけですのでお気になさらなくても結構ですわ!」
「運命の糸だなんて笑えますこと!よくご覧になってみなさいな、それはただの糸くずよ!!」
「うるさいわね、少し静かにできないの?!」
「私だってルーイン様に髪飾りを拾っていただいたわ!」
「いつの話よ!あなた10年前から同じことばかり言っているわよ!」
「ちょっと痛い!!誰かの肘が当たっているわ!」
「私がルーイン様と話をするのよっ!邪魔しないでちょうだい!」
「それは私のセリフですわ!!」
「ルーイン公子っ!」
「ルーイン様!」
「公子っ!」
数人の女性が駆け寄ってこられたのを皮切りに、公園内にいた他のご令嬢達も一目散に公子に詰め掛け、彼の姿は瞬く間に彩りのドレスに埋もれてしまいました。
公子を中心に大勢の女性が集まる様は、空を飛ぶ鳥達にはきっと花時計のように見えていることでしょう。
伯爵領の蓮池で見た餌に群がる錦鯉にも似ているかも知れません。
護衛の皆さんが慌てて公子に駆け寄りましたが、ご令嬢達の勢いに圧されて何人かは弾き飛ばされています。
彼女達は私の姿など目にも留めていないようで、我先にと公子に取り入ろうと必死なご様子です。
公子がご令嬢に人気だとは聞いていましたが、これ程とは思いませんでした。
呆気に取られてしまってついつい傍観してしまいましたが、これは好機です。
ちらりと周囲を伺うと、プリネや他の侍女も私の護衛達も皆一様に口を開けて唖然とした顔をしています。
(今だわ…今なら逃げられる…!)
この千載一遇のチャンスを逃すつもりはありません。
私は忍び足でその場を離れると、ドレスの裾をたくし上げて走り出しました。