思い耽る令嬢
私が支度を整えた頃には、公子も着替えを終えて馬車を宿の前に待機させていました。
白いシャツの上にチャコールグレーのウエストコートとダークグリーンのコートを羽織り、下はウエストコートと同色のトラウザーズにブラウンの革靴を合わせています。
通りを歩く貴婦人達が宿の出入口に立つ公子にちらちらと視線を送っていますが、彼は気にした様子もなく思案顔をしています。
一方の私は、アイスブルーのバッスルスタイルドレスに青い飾り花とリボンのついたベージュのボンネットを被り、歩きやすい茶のハーフブーツという装いです。
今まで宝石のサファイアを思わせる公子の瞳に合わせて、同系色のドレスや小物ばかりを集めていたのが悔やまれます。
「お待たせいたしました」
プリネを伴って外へ出ると、私に気付いた公子が満面の笑みを浮かべて歩み寄ってきます。
「リタ…とても素敵だよ。初めて見るドレスだね。その帽子も君の髪の色によく似合っている」
「…ありがとうございます」
彼の笑顔に不覚にもどきりとさせられてしまい、私は動揺を悟られまいと奥歯を噛み締めました。
こんな程度で勘違いをしてはいけません。
ルーイン公子はただ女性を喜ばせる方法を熟知していて、それを実践しているに過ぎないのです。
そうでなければ婚約者のいる身で他の女性をまんまと口説き落とし、平然と心を偽って私の前で以前と変わらぬ婚約者を演じることなどできないはずです。
冷めた表情を浮かべる私とは対照的に、公子は胸を弾ませた様子で私を馬車まで誘導しました。
先に乗り込んで当たり前のように手を差し伸べてきます。
たったそれだけのことなのに、私の乙女な心はまたときめいてしまいました。
きっと先程プリネに変なことを言われたせいです。
――お嬢様の勘違いという可能性はありませんか?
(ありません。仮にヴェロニカ嬢のお話が偽りだったとして、ご自身のことならともかくお姉様に恋人ができたなんて作り話をする理由がわからないもの)
昨日と同じく向かいに腰を下ろした公子が何やら話かけてきていましたが、私はそれに適当な相槌を打ちながら心の中で考えを巡らせました。
――お嬢様以外の女性に懸想しているようにはとても見えませんでした。
(それは少なくとも3年前までの話よ。今は違う。今はもう…)
――パーティーが終わってお嬢様がお部屋に戻られた後、ルーイン様は旦那様と奥様、公爵夫妻とオスカル様との6人で長いことお話をされていました。
(そうだったのね。それは教えてもらうまで知らなかったわ…。公子はともかくお父様もお母様も当事者である私に声もかけず、何をお話されていたのでしょうか。私がいては都合の悪いお話だったのでしょうか…)
私を愛してくれていると信じていた両親にまで裏切られてしまったような心地がして、自然と気持ちも視線も下がってしまいます。
思考の海に沈んだ私は、今しがた公子と会話をしていたことをすっかり忘れてしまいました。
名前を呼ばれて初めて、彼が話すのを止めていることに気が付きました。
「……タ、リタ?」
「…!」
「ぼうっとして…何か考え事?」
「…なんでもありません」
慌てて取り繕いましたが、これではお話も聞かずに考え事をしていましたと認めたようなものです。
公子もそう思われたのでしょう、苦々しい笑みを浮かべました。
「すまない、つまらない話をしてしまったね。リタなら話に乗ってくれると思ったんだけど…流石に笑えないか。オスカル兄上がクッション大のイグアナを飼育し始めたなんて…」
「…いえ」
彼の思惑に乗せられるのは癪でしたが、私は密かに胸を躍らせました。
思いもよらない楽しげな話題に少しだけ気持ちが上向きになります。
(そのような面白いお話をされていたなんて…もっと真剣にお話を聞いていたらよかったです)
オスカル公子の爬虫類好きは貴族に限らず庶民の間でも噂に上るほど有名です。
母親のカスティーリ夫人や妹のグレーテ嬢からは全く理解を得られず、お会いする時にはいつもそのことを嘆いていたのですが、数年前ついにおふたりの反対を押し切って領館の隣にお友達(ペットのことです)専用の小さな家(小屋と言うと怒られます)を建てました。
帰省中に強くお誘いを受けて何度か見学させていただきましたが、蛇はともかく小さなトカゲは可愛らしく思えました。
そう伝えたらオスカル公子に大層喜ばれて、特別に1匹譲ると言われましたが丁重にお断りさせていただきました。
もしルーイン公子のお話をきちんと聞いていれば会話が弾んでいたかも知れません。
きちんとどころか最初から今まで何一つ聞いていなかったのですが、事実をそのまま伝えるのは憚られて、尤もらしい理由をつけて誤魔化しました。
「…申し訳ありません、昨夜はあまり眠れていなくて…」
「ああ、そうだったね…気がつかなくてすまない。少し眠るといいよ。着いたら起こしてあげる」
「いいえ…もう大丈夫です」
公子の気遣いを辞退して、私は車窓から見える街並みに意識を集中させました。
政略結婚とはいえ一人だけ蚊帳の外にされたショックが大きすぎて、溜め息を堪えるのに必死でした。
どこか放心してもいたのでしょう、公子がその後しばらく私の横顔を見つめていたことにも、途中から同じ景色が繰り返されていたことにも、私は最後まで気が付きませんでした。
停車した馬車から降りると、そこは公園にほど近いカフェレストランの前でした。
花時計を見て帰るだけだと思っていたのですが、朝食後は腹ごなしに市場も見て回ると言うのです。
「早く帰宅なさらないとお仕事に支障が出るのではないですか?」
朝食をいただきながらふと湧いた疑問を尋ねてみると、公子は咀嚼していたベーコンエッグを飲み込んで頬を緩ませました。
「心配してくれているの?嬉しいな。仕事のことは気にしなくていいよ。君を迎えに行くためにしばらく休暇を取ったんだ。元々寄り道ありきの予定だったからね」
「……」
私はにこにこと微笑みかけてくる公子から視線を逸らしました。
残念ながら貴方が平気で嘘を吐ける方だということは先刻承知なのです。
私にオーロラ嬢との関係を勘付かれた場合のことも見越して、根回しする為の時間を確保しておいたというのが本当の理由なのでしょう。
用意周到なことです…彼女と一緒になりたくて、公子も必死なのですね。
そう思うとこうしてお洒落をして出掛けて、仲良く食事までしているこの状況がなんだか馬鹿らしくなってきてしまいした。
もし今ここで――
「嫌だあ~!帰りたい~!行きたくないい~!」
――と、後先考えずに床に転がって幼子のように駄々をこねたらどうなるのだろうかと、到底実行できないような投げ遣りなことを想像してしまいます。
「…まさか本気にしていたのか?」
「え…」
「あれはあの場を収めるための方便だよ。好きでもない女性と一緒に暮らすわけがない。そういうふりをするだけだ」
「ふりだけ…」
「悪いけど君とは修道院の前でお別れだ。聞き分けてくれるね?」
――と言っていただけたなら此れ幸いと首を縦に振るのですが…今のところその可能性は皆無です。
こんなことをしてもどうせ公子は破談にするつもりなのですから、私にとってはこの時間もこれからの1年間も、何の意味も得られるものもないのです。
先程プリネにも言いましたが、この婚約を継続することで利益があるのは公子とカスティーリ公爵家、そしてオーロラ嬢とシーフォニル侯爵家でしょう。
グラスフィーユ伯爵家にとっても公爵家との関係が維持できますし、いざこざにならない分体面は保てるので悪いことではありません。
けれど私自身――リターシャ・グラスフィーユにとってはどうでしょうか。
一度破談になったと社交界に噂が流れれば、お相手がかの有名な公爵令息ですから女性側に非があったのだと実しやかに囁かれるでしょう。
それが事実かどうかは関係ありません。
どのような経緯があろうと、たとえ真実を知っていたとしても、悪し様に言う方は言うのです。
ありのままの私を見て選んでくださる方ばかりならば良いですが、大抵は外面や私の後ろにある伯爵家を見ています。
過去に婚約破棄をされたことがあっても構わないと言う男性と婚約・結婚できたとしても、利用価値がなくなればまたいつか捨てられると思うと結婚自体に希望が持てません。
貴族に生まれたからには自身の意思など関係なく、家系の保守と繁栄の為に努めなければならないとわかっています。
それでも私はどうしても修道女になりたい。
ごく少数ではありますが、家督を継ぐ必要がなければ修道士や修道女として社会奉仕をする道を選ばれるという方もいらっしゃると聞きます。
我が家は弟のハンスが後を継ぐことになっていますから、私が婿をとる必要も無理に結婚する必要もありません。
こんなことを考えること自体が我儘で、親不孝であるということもよく理解しています。
ですが数年前まで夫になると信じていた男性とただただ寝食を共にするだけの生活を1年間も続けるというのは…大袈裟に思われるかも知れませんが私にとっては無実の罪で投獄されるのと同義です。
(他に何か方法はないの…?この婚約を今すぐなかったことにできて、家にも迷惑をかけずに修道女になれるような方法は…)
あれやこれやと思案しているうちに、私の頭の中にふとある方法が思い浮かびました。
以前読んだ恋愛小説で、身分違いの恋に落ちた男女が駆け落ちをするというシーンがあったのを思い出したのです。
(そうよ…私が消息不明になってしまえばいいんだわ。相手がいなくなるのだから、結婚の話も自然となくなるはず。両親には心配をかけてしまうけれど、正式に解消された後に手紙で無事を知らせればいいわよね。この方法ならすべて丸く収まる…)
これは我ながら名案を思い付いてしまったかも知れません。
暗雲が立ち込めていた未来に光明が差したような心地がします。
私は嬉しさに顔が綻びそうになるのを抑えながら、不自然に思われないように食事を続けました。
俯きがちにロールパンを手に取って一口大にちぎり、表面にママレードジャムを塗り付けます。
(そうと決まれば善は急げよ。この街で行方を眩ませましょう。持ち合わせはないけれど、着ているドレスや宝飾品を売り払えば旅費くらいにはなるわよね…)
お金はいくらか持ってきていますが、お財布の入った鞄はプリネが持ってくれているので今の私は一文無しです。
どのくらいの金額になるかはわかりませんが、ドレスを売ったお金で行けるところまで行きましょう。
あとはどうやって周囲の目を盗んで逃亡するかです。
公子も私も複数の使用人と護衛に囲まれていますし、一介の令嬢が隙を見つけるのは至難の業です。
(落ち着いてい機会を伺いましょう…。絶対に勘付かれてはだめよ)
自分自身にそう言い聞かせながら、逸る気持ちを抑えてパンを口の中に入れます。
その瞬間、私は思わず驚きに目を瞠りました。
(……ジャムをつけすぎたわ)
これではパンを食べているというよりジャムそのものを食べているような感覚です。
本来はもっと甘いはずママレードジャムが、この時は何故かとても苦く感じました。