不可解な婚約者
翌日の朝、私は家族に別れを告げて生まれ育ったグラスフィーユ伯爵領を旅立ちました。
私の向かいの席には何故かルーイン公子が座っていて、ご機嫌良さげに読書をしています。
予定では別々の馬車で向かうはずだったのですが、公子が私を追いかけるように強引に馬車に乗り込んできてしまいました。
私はそのつもりがなかったのでそのように申し上げたのですが、昨夜と同じく有無を言わせぬ雰囲気に押し切られてしまいました。
「一緒の馬車に乗るのは初めてだね」
どこか声を弾ませた様子で公子が話しかけてきました。
返事をしようかどうか迷いましたが、流石に聞こえないふりをするには無理のある距離でしたので素っ気なく返します。
「…そうですね」
「リタ。これから僕達の初めてをたくさん作っていこう」
「……」
そう言って笑みを深める彼の顔を冷めた気持ちで見つめます。
ヴェロニカ嬢のお姉様と公子の仲を知る前の私なら、その台詞に胸をときめかせていたでしょう。
けれど今はどのような言葉も社交辞令としか受け取れません。
それでも公子は3年前までと変わらない気安さで私に話しかけ、爽やかな笑顔を向けてきます。
他に結婚したいほど好きなご令嬢がいらっしゃるのに、どうしてそのような態度ができるのか理解に苦しみます。
悪気はなかったと開き直っていらっしゃるのか、体面上そんな事実はなかったと取り繕いたいのか、そのどちらかだとは思うのですが。
伯爵領から王都まではどんなに急いでも数日はかかります。
今夜は通りすがりのノワイオという都市で宿を取りました。
公子とはもちろん別々のお部屋です。
近くのレストランで夕食を終えて宿に戻り寝支度を整えていると、何故か彼が私の部屋を訪ねてきました。
「リタはいつも休む前にジンジャーティーを飲むんだろう?前にそう聞いてから、いつか手ずから淹れてあげたいと思っていたんだ。君はそこに座っていて」
公子はお茶の用意をしていた私の侍女に「後は僕がする」と言って、彼女に代わって茶器にコポコポと熱いお湯を注ぎ入れました。
ティーコゼーをかけて蒸らす間にカップを温めて、小瓶に入ったジンジャーパウダーをティースプーンで少量掬い入れます。
初めてとは思えない手付きに思わず見入ってしまいましたが、はっと気が付いてソファから立ち上がりました。
「大変ありがたいことですが、そのようなことをなさらなくても結構です」
「まあそう言わずに…」
公子は私の傍に近づいて、座るように促しました。
そして当然のように私の隣に腰を下ろし、手に持っていた砂時計をローテーブルの上に置きました。
丸いフラスコにサラサラと金色の砂が零れ落ちていきます。
「できあがるまで少し話をしよう」
「公子とお話しすることは何もございません」
「そうかな?僕とオーロラ嬢との関係を明らかにしたいなら、まずは本人から情報を引き出すというのも一つの手だと思うよ」
「浮気をした張本人に直接お話を伺っても上手くいくとは思えません。はぐらかされるだけですから」
――今の公子のように。
そんな意味を込めたのが伝わったのでしょうか、彼は砂時計を見つめながら表情を消しました。
けれどそれも一瞬のことで、視線はそのままに彫刻のような微笑みに変わります。
「そうだね…正面から真実を問い正す方法が効果的な時もあるけれど、必ずしも良い方法とは言えない。少しでも後ろ暗いことがあれば大抵の人は誤魔化したくなるものだからね。一度警戒されるとのらりくらりと逃げられて、上手くはいかない」
公子は膝の上に手を組んだまま顔だけを私の方へ向けました。
その精悍な眼差しに不覚にも引き込まれてしまいそうになります。
「…だからいきなり核心を突く質問は避ける。何気ない会話から入って、世間話の延長と思わせながらさり気なく聞き出すんだ。初めのうちは『はい』か『いいえ』かで答えられるような聞き方がいい。興味のあるふりをして徐々に具体的な質問に変えていく。とにかく相手に気持ち良く喋らせるんだ。頃合いを見ながら鎌をかけて自白を誘う。語るに落ちればこちらのものだ」
長々と話し終えた後で公子はにこっと笑みを見せましたが、私はどんな顔をすれば良いのかわかりませんでした。
どうしてそう他人事のように構えていられるのか、公子のお考えがよくわかりません。
返事がないことを気にした様子もなく、彼は砂が落ち切ったのを確認するとソファを離れていきました。
ポットを覆っていたカバーを外してティーカップに紅茶を注ぎ入れると、花のような香りに混じってジンジャー特有の爽やかな香りが私のいるところまで漂ってきます。
「ねえ、リタ。明日は街に出かけようか」
「…なぜですか?」
「ノワイオの街には花時計で有名な公園があるんだ。今の時期は彩りの花が咲いていてとても綺麗だそうだよ。一度見てみたいんだけど、構わないかな?」
「それは構いませんが、行かれるのでしたらお一人で…」
「僕は君と見に行きたいんだ。朝起こしに来るから、それまでゆっくり寝ておいで」
公子はティーカップをソーサーに乗せて手渡すと、「おやすみ」と微笑んでご自身のお部屋へ戻っていきました。
呆気に取られてしまった私は、彼にお礼も挨拶も言いそびれてしまいました。
今更一緒に出掛けたいだなんて、いったいどういうおつもりなのでしょうか…。
公子の淹れたジンジャーティーははちみつをたっぷり入れたのか、とても甘く感じました。
ベッドに横になりながら今日感じた公子への違和感や発言の真意についてじっくり考えると、私はある結論に辿り着きました。
恐らく彼は時間を稼ぎたいのです。
すべては穏便に婚約を解消するため。
私に機嫌を取りつつ、理由をつけて帰宅を遅らせ、その間にオーロラ嬢に手紙を送って口裏合わせをしようとしているに違いありません。
きっと今頃、彼は宿の自室で――
*
愛しい僕の女神・オーロラへ
君と離れてもう5日も経ってしまったね。
可愛い君の顔が見られなくて僕はとても寂しい。
婚約者の誕生日パーティーに出席することを許してくれてありがとう。
実は僕達の幸せな未来に大きな問題が発生してしまったんだ。
婚約者に君との関係がバレてしまった!
パーティーの最中に大きな声で婚約を破棄してくれと言われた。
こっそり言えばいいのに周りを巻き込んで大袈裟にして、バカな女だ。
僕としては願ったり叶ったりだったが、今後の付き合いのことを考えるとそうもいかない。
穏便に済ませるために当初の予定通り1年間、婚約者を僕の家で生活させることにした。
その間は君と僕の関係を何としても隠し通さなければならない。
その場で破談にすることもできなくはなかったが、君が略奪したなどと悪い噂を流されるとも限らないし、君や君の家の名誉を考えるとできなかった。
どうか許して欲しい。
君に寂しく悲しい思いをさせてしまうと思うと僕も辛い。
きっと必ず君を妻に迎えるから、僕を信じて待っていて。
愛しているよオーロラ。
君の愛の奴隷・ルーイン
*
――そんな内容の手紙を、涙ながらに書き綴っているのでしょうね。
(私には一通もくださらなかったのに…)
考えれば考えるほど怒りが増して目が冴えてしまいました。
何度も寝返りを打ちましたが全く収まりません…。
空が白み始めた頃にようやく眠気が訪れて、うとうととしているうちに陽が昇り、眠りに落ちて間もないうちに公子が起こしにやってきました。
瞼を重そうに持ち上げる私を見て、彼は何故か嬉しそうに顔を綻ばせます。
「おはようございます…公子」
「おはよう、リタ。ずいぶん眠そうだね。僕と出掛けるのが楽しみで眠れなかったの?」
「いいえ違います」
「それは残念だな」
即座に否定したにも関わらず、依然として彼は笑みを崩しません。
(私の顔の何がそんなに面白いの…?)
確かに寝不足で目は腫れているかも知れませんが、人前に出られないほどではないはずです。
そもそも眠たそうにしていただけでそのように思われるなんて、自意識過剰も良いところです。
「体調が良くないなら今日はゆっくり休もうか?花時計を見に行くのはまた明日にしよう」
「…いいえ、問題ありません。支度をしますのでお待ちください」
さも私のことを気にかけているような言動ですが、彼はただ浮気を誤魔化したいだけです。
そんなことを言って、出掛けたくないのは本当は貴方の方なのではないですか?
誘うつもりなど毛頭なかったのに、会話に困って勢いで誘ってしまって後悔しているのでは?
引っ込みがつかないのであれば乗って差し上げましょう。
お互いに嫌なことは早く終わらせるに限ります。
公子に一旦お部屋へ戻っていただき、身支度を整えます。
着替えを手伝ってくれているのは侍女のプリネです。
彼女の両親は伯爵家の使用人で、私と一番年が近いという理由でいつからか傍仕えを任されました。
今回も自ら「お嬢様について行きます!」と言ってくれて、私にとっては仲の良い友達で姉のような存在です。
幼い頃から私の傍にいましたので、公子のお人柄をよく知る人物でもあります。
「お嬢様の勘違いという可能性はありませんか?」
プリネが髪に櫛を入れながら何やら難しい顔をしているのを鏡越しに見つめます。
「…公子と、オーロラ公女のこと?」
「ええ。どうにも解せないのです…ルーイン様は今までどおりに思えますし、お嬢様以外の女性に懸想しているようにはとても見えませんでした」
「騙されてはだめよプリネ。あれはそういう作戦なの。彼は隠すのがとても上手なのよ」
「いえ…私はその反対に思えました」
「反対?」
「ルーイン様は隠そうとしていらっしゃるのでしょうか?だとしたら昨日の振る舞いはおかしいです。衛兵の尋問のような方法をお嬢様に教えたりして…疚しいことがある方の振る舞いとはとても思えません」
それは私も気になったところでした。
けれどそうやって疑念を抱かせることが公子のねらいに違いないのです。
「まるでお嬢様に知られることを楽しまれているような…でもルーイン様はそのようなことをなさるお方ではありませんし…」
「私達が今まで気が付かなかっただけで、そういう狡猾な一面があったということでしょう」
「でももしお嬢様のお話が本当だとして、どうして婚約の継続をあれほど強く望まれたのでしょうか?1年間の同棲も前々からのお約束事とはいえ先送りにすることもできたはずです」
プリネの柔らかな手が素早く動いて、私の金に近い桃色の髪が編み込まれていきます。
私はその様子と薄くお化粧が施された自分の顔を交互に見つめながら答えます。
「それは…両家にとって不利益になるからよ。あのまま婚約を白紙にしてしまったら不貞を認めたことになってしまって、王家に名を連ねるカスティーリ公爵家にとっては大きな醜聞になる…それを恐れたに過ぎないわ。それに少なからずグラスフィーユ伯爵家の印象も悪くなる。権力に溺れた母がカスティーリ夫人との友情を利用して無理に縁談を迫ったのだと、根も葉もないことを言いふらす貴族も出てくるでしょう。伯爵家が公爵家に立てついたと思われてしまうのも良くないわ」
後になって思い至りましたが、この婚約は私一人の感情だけでどうにかできるものではありませんでした。
浅慮な私とは違って公子はそのことに気が付いていて、初めからこうするつもりだったのだと思います。
同棲までしてお互いに良好な関係を築こうと努めたけれど上手くいかなかったという流れに持っていって、円満解消をしようと考えていたのです。
ご自身の浮気が原因で下級の貴族から婚約破棄の申し出をされ、それを受け入れたとなったら社交界でどのように噂をされるか想像がつきます。
公爵家の為、ご自身の名誉の為、そしてお相手のシーフォニル侯爵家とオーロラ嬢の為に、彼はしたくもない同棲をあたかも自ら望んだかのように強引に押し進めた。
魂胆はわかっているのです。
「でも…私はそれだけではないような気がいたします。パーティーが終わってお嬢様がお部屋に戻られた後、ルーイン様は旦那様と奥様、公爵夫妻とオスカル様との6人で長いことお話をされていました。何よりお嬢様を宝物のように大切にされている旦那様がそのようなお話を聞いても反対なさらないだなんておかしいです。形振り構わず破談になさっても可笑しくありませんのに」
「お父様はきっと上手く丸め込まれてしまったのよ。浮気をする殿方は言葉が巧みだと聞きますから」
「そうだとしてもですよ、」
「プリネ。このお話はもう止めましょう?私は公子と仲直りがしたいわけではないの。あの方の提案に乗ったのは『この目で確認する』ためよ。あの方がどんなに言い繕おうと、結婚はしない。私は修道女になると決めたんだもの」
「お嬢様…」
私のことを心配してくれたプリネに悲しい顔をさせてしまいました。
けれども私の決心は変わりません。
何がなんでも修道女になって、公子からも貴族の柵からも解放されるのです。
この理由のわからない胸の苦しみからも――。