悔恨する令嬢
寝室に一人になった私は、しばらくの間がらんとした部屋の中をぼうっと眺めていました。
どうして同じお部屋で眠る必要があるのかとずっと思っていたのに、いざ別々にしようと言われると寂寥感を覚えてしまいます。
それはきっと彼に対する私の感情ががらりと変化したからです。
今日一日で色々なことがありました。
アリアンナ嬢とお茶をして、ヴェロニカ嬢のお話に疑念を抱き、ルーンとしっかり向き合おうと決めました。
そうしてルーンとお話をして…彼の気持ちを知りました。
今はもう、私の中に彼を疑う気持ちも憎む気持ちもありません…。
この3年間、私は彼からお手紙もなく会ってもいただけなかったことを、彼が心変わりをしたからだと信じ込んでいました。
けれど実際は、お手紙が何者かに奪われていて彼の手に渡らず、彼からのお手紙もまた私の元に届くことがなかったからでした。
寮で同室だったご令嬢のことを覚えていらっしゃらなかったのも、帰省する日を事前にお知らせしてもお会いしてくださらなかったのも、お手紙の存在すら知らないのですから当然のことでした。
ヴェロニカ嬢のお姉様と想い合っていたからではなかったのです…。
お互いの進学や就職が決まり、なかなか会えない状況で久しぶりに私と顔を合わせた時のことを想像して、3年間会わない選択をしたルーンのことを責める気持ちにはなれません。
私も彼もお互いに好意を抱いていましたから、再会を喜んで握手をしたり抱きしめ合ったりするくらいはしたいと思うはずです。
けれど彼がそれを実行するとその時点で誓約違反となり、私との婚約がフィニッシュするのです。
もし一度でも会っていたら、何も知らない私はきっと彼にいろいろなことを強請って困らせていたでしょう…。
*
「ルーン!お会いしたかったです…!」
「僕もだよ…リタ」
――ここで笑顔と言う名の求愛行動に負けて私を抱きしめたり頭を撫でたりすると、婚約破棄が確定します。
「休暇がとても待ち遠しくて…。勉強は楽しいですが、ルーンに会えないのは寂しいです…」
「そうだね…僕も寂しかったよ。でもちょっと…離れようか…」
――ここで体を寄せてくる私をやんわり拒否しようと手が触れても、婚約破棄が確定します。
「どうしてですか?ルーンは私に会いたくなかったのですか…?」
「そういうわけじゃないよ。僕もリタに会いたかった」
「それならどうして先程から直立不動でいらっしゃるのですか?抱きしめてもくださいませんし」
「リタ…そういうのは僕達にはまだ早いよ。もう少し大人になってからにしよう」
「私はもう15歳ですよ。それにこの間読んだ本では、私と同じ年齢の主人公が好き合っている男性と頬を寄せ合って再会を喜ぶシーンがありました。私もルーンとそのようなことをしてみたいのですが…」
「リタ。そうする為には予め国王陛下に許可を取らなければならないんだ。この国にはそういう法律があるんだよ」
「…嘘ですよね?授業でもそのようなことは習いませんでしたし、どの書物にも記載がありませんでした。幼い頃ならともかくもう騙されません。そんなに私が嫌いなのですか?」
「まさか。君を嫌いになるわけがない」
「それならどうしてしてなのですか?お父様もお母様もハンスもプリネも…帰ってきた時には私を抱きしめてくださいました。ルーンはなぜしてくださらないのですか?」
――ここで正直に父との誓約のことを話しても、婚約破棄が確定します。
「リタ…君が不満に思うのもわかるよ。でもいくら婚約者同士でも…学生の間にこういうことをするのはいけないと僕は思っているんだ。家族と僕とでは立場も違うからね。だから卒業してからにしよう」
「…そういうことでしたら…わかりました。ではその代わり、私のことが好きだと言ってくださいませんか?」
「……え?」
――ここで望まれるがままに「好き」と言うと、婚約破棄が確定します。
「嫌いではないとおっしゃるなら、それを証明していただきたいのです。ルーンはいつもはぐらかしてばかりですし…」
「ええと…」
「……言えないということは、やはり私のことが好きではないのですね。あれこれと理由をつけていらっしゃいますが本当は私に触れることも嫌なのでしょう?気持ちがないのに結婚だなんてルーンも私も辛いだけです。婚約を解消したいと父に願い出てみますっ」
「待って、リタ!早まらないで。僕は君と婚約を解消したいだなんて思っていないよ」
「それではきちんと言ってください。私のことが好きだから婚約を解消したくないのだと」
「……」
「やはり父に…」
「待って、リタ!リターッ!」
*
――このような窮地に陥るであろうことは私にも想像がつきますから…彼が回避したいと思われるのも無理からぬお話でした。
そもそもなぜ彼にこのような誓約をさせたのか…彼の苦悩を想像すればするほど、父に対して沸々と怒りが湧き上がってきます。
両親に、特に父にはとても愛されているという自覚はありましたが、これは過保護の度を越えています。
恐らく彼が私宛に送っていた手紙もかなりの量を間引いて私に渡していたのでしょう…我が父ながらやることが卑劣です。
けれども彼を苦しめたのは父だけではありません。
私もこの半年間…いいえ、フィニッシングスクールへ入学してからずっと、彼を蔑ろにしてきました。
3年間何の連絡もできなかったのは私も同じなのです。
ルーンは10歳の頃から私と結婚する為に努力を重ねてくれていました。
そうとも知らずに私は…目先のことにばかりとらわれて、これまでの彼の優しさを忘れ、信じ続けることができませんでした。
彼が毎月欠かさずお手紙を書き続けていたと聞いた時、そのことを嬉しく思うよりも自分のしたことを後ろめたく思いました。
同じ状況でも私は不安に苛まれ、ヴェロニカ嬢の巧みな話術に翻弄されて、お手紙の頻度を減らし、卒業する前には書くのを止めてしまいました。
これは私と彼がお互いに抱いていた愛情の差です。
私と彼とでは置かれていた状況が違いますので、仕方がなかったと言えばそうなのかも知れません。
けれど浮気の疑惑がなくても同じようにめげずにお手紙を書き続けていられたかというと…正直なところ自信がありません。
この半年間を振り返ってみても、彼の愛情の深さがどれほどのものかを思い知らされます。
私は何の罪もない彼に一方的に怒りをぶつけ、不貞腐れた子どものような態度ばかりしてきました。
話しかけられても無視をしたり、お話をまともに聞かなかったり、何日も目を合わせないこともありました。
彼の言動のすべてに裏があると疑って、笑いかけてくれた彼を睨みつけたこともありました。
逆に破談を申し出られても可笑しくないことをたくさんしてきたのですが…彼はそんな私の理不尽を何一つ責めず、また彼を信じたというだけでこれまでのすべてを許すと言います。
彼を好きだと言っておきながら信じきれずに裏切った私を見限ることもなく、どんなに心無いことをしても笑顔で受け流し、私が偽りの情報に操られていることに自分自身で気付けるように、あれこれと考えを巡らせては忍耐強く見守っていてくださいました。
私がノワイオの街で失踪を謀った時、彼は本当に必死になって私を探し、謝罪もしなかった私を叱りつけようともしませんでした。
私の為に毎晩ジンジャーティーを淹れてくださっていたのも、花時計を見に連れて行ってくださったのも、優しい目をして話しかけてくださっていたのも…浮気の事実を有耶無耶にする為などではなく、彼の純粋な愛情でした。
――1つの鐘しか聞かない人には1つの音しか聞こえない。
エクレールさんの言葉の意味が、今ならよくわかります。
私はもっとルーンの声に耳を傾けるべきでした。
ヴェロニカ嬢から聞いたお話だけですべてを判断するのではなく、あの時言いかけていたルーンの言い分も聞いて、彼の家族や彼を知る方々からもお話を伺って、あらゆる情報を調べ尽くしてから結論を出すべきでした。
あんなふうにパーティーの場で一方的に婚約破棄を突きつけ、吊るし上げるようなやり方をして彼を責める前に、できることはたくさんありました。
お手紙が盗まれていたことに気が付けなかったことを彼は自分の所為だと言っていましたが、これは私の所為でもあります。
彼からお手紙がないことを疑問に思いながらも、私は彼が何かしてくれることを待つばかりで何の行動も起こしませんでした。
一度でも彼の家族や私の家族に相談していたら、彼にもそのことが伝わって、もっと早くに解決できていたはずなのです。
その後で彼女からどのようなお話を聞かされたとしても、冷静な気持ちで聞き流すことができていたでしょう。
私が彼女の話を鵜呑みにさえしなければ……欲しい物はないかと聞いてくれたルーンに他愛のないお返事をして、幸せな気持ちで日々を過ごし、半年後に予定していた挙式の準備も進めながら、ふたりで穏やかな時間を過ごせていました。
今更どんなに後悔したところで、私が彼にしてきた仕打ちが消えてなくなるわけではありません…。
もしこのまま婚約を解消することになったら、彼はどうするのでしょうか…?
公爵令息で官僚の職にも就いている彼は私のように修道士になろうという選択はしないでしょうし、先程のお話からして一生独身でいるわけにもいきません。
あれほど女性に人気な方です。
年齢も年齢ですし、すぐにでも他の素敵な女性と縁談が持ち上がって、その女性と穏やかで幸せな家庭を築いていくでしょう。
彼が私の為に建てた…この家で。
私以外の女性と体を寄せ合い、私に向けてくれていた愛情を他の女性に向けるのです。
(それは…嫌です。絶対に嫌…)
私はいてもたってもいられず、ベッドから降りて寝室を飛び出しました。
彼を探して家の中を歩き回りますが、客間にも、浴室にも、書斎にも…どのお部屋にも姿が見当たりません。
私が徘徊していることに気付いた使用人が慌てて駆け寄ってきて、どうしたのかと尋ねてきます。
ルーンを探していることを伝えると、他の使用人に確認をしてくれましたが誰も姿を見ていないと言います。
それを聞いた私は怖くなりました。
彼はこのまま約束の日まで私に会わないつもりでいるのではないか…と。
今すぐにでも会って謝罪がしたいのに、半年間も待ち続ければならないだなんて…私にはとても耐えられません。
馬車も馬もいなくなってはいないので、どこかへ出かけたわけではないようです。
(いったいどこへ行ってしまわれたのですか?私に選ぶようにと言って、本当は私のことが許せないのではないですか…?だから隠れてしまわれたのでは…?)
1階へ下りて食堂室や応接室、大広間も覗いてみましたが、人の気配はありません。
休んでいた使用人達も全員起きて、家の主人を探してバタバタと屋敷中が慌ただしくなります。
それでも出てきてくださらない様子を見ると、相当怒っているに違いありません。
寝室に戻ったのかも知れないとプリネと一緒に思い見に行きましたが、彼の姿はありませんでした。
「大丈夫ですよ、お嬢様。ルーイン様がお嬢様を置いてどこかに行かれるなんてことはありませんから。きっとどこかにいらっしゃいます。もしかしたら深く眠っていらっしゃって気が付かないのかも知れませんよ」
私は涙が滲みそうになるのを堪えながら、背中を撫でて励ましてくれるプリネに頷きました。
プリネに誓約のことを確かめると、彼女は悲痛な表情で頷き、父に堅く口止めをされていて言えなかったと告白しました。
浮気が誤解だと悟ってからは私を説得すると彼に申し出たそうですが、私から聞かれるまでは何も言わなくていいと言われていたそうです。
「ルーイン様は本当に…心の底からお嬢様のことを愛していらっしゃるんです。そうでなければあんな馬鹿げた約束なんてとっくのとうに破り捨てて、他の女性と婚約なさっています。けれどもルーイン様は最後まで旦那様との約束を守り切りました。そうまでしたのはお嬢様と結婚なさりたかったからですよ」
「……」
「私もお嬢様が悩んでいることに気が付けなくて…申し訳なく思っています。お寂しい思いをしたお嬢様のお気持ちもわかります。けれどもどうかこれ以上ルーイン様を責めないであげてください…。どんなに好きなお相手でも、できることとできないことがあります。ルーイン様のような男性に愛されるお嬢様は幸せ者ですよ…」
私はプリネに何も言葉を返せませんでした。
伯爵家の使用人が味方をしたいと思うほど、彼はこの婚約に力を尽くしていたのでしょう。
聞けば聞くほど私の愚かさが思い知らされます…。
ふたりで再び階段を下りると、他の使用人達から1階にはいなかったと聞かされましたが、自分自身の目で確かめるまでは信じたくありませんでした。
けれど結果は彼らの言った通りでした。
がっかりしましたが、私は諦めずにまた3階へ上ります。
屋敷の東側にある図書室の扉を開くのは2度目です。
部屋の中はやはり真っ暗なままで、しんと静まり返ったそこはとても人がいるようには思えません。
すぐにプリネが明かりを点けてくれましたが、やはり誰もいませんでした。
(私は貴方に見限られても仕方のないことをしました…何を言われても甘んじて受け止めます。ですからせめてきちんと謝罪をさせてください…)
祈るような気持ちで人の隠れられそうな隙間を覗き、訳もなくうろうろしていると、ベランダに続くガラス扉の向こうで人影が動いたように見えました。
恐る恐る近づいて薄いカーテンを指先で退けると…手すりから庭を見下ろしているルーンの背中がありました。




