最初の選択
「『人生は選択の連続』だよ、隆志くん」
それはいつかの上司の言葉だった。
初めて連れて行ってもらった、居酒屋の席の前。
温和な顔をした上司は、いつものように穏やかな声で俺に語って聞かせる。
「まだ、君は社会に出たばかりで先のことはよくわからないかも知れない。だけど、これまでもこれからも、君を作り出すのは君自身だ」
上司と初めてサシで飲む酒は、味よりもアルコールの苦味に舌が痺れていた。
「へえ……」
俺はタコを刻んだ、塩辛のつまみをちょびちょびと箸でつまみながら言った。
―――いや急になんの話?
どうもこの人との会話は突飛がなかったりして、上手い相槌の打ち方が思いつかないことが多い。
でもここで感じる、大人の説教の予感。
この人も世に言う、上から目線の、鬱陶しいおっさんみたいなことを、これから言おうとしてんのかな。
―――だったらすげえ、めんどくさいな。
今日は、俺の覚えが悪いせいで起きた小さなミスで他の先輩に怒られたばかりだった。
俺は肩身の狭さをごまかすようにグラスに口をつけた。
まあどうせ、この席は上司のこの人が奢ってくれるんだろうけど。
取り敢えず無難に……大人しくしておこう。
「君は、君のやりたいように、好きなようにしたらいいんだよ」
「……え?」
思わず呆けた声が出た。
「いや……会社の先輩が、そんなこと言っていいんですか?」
「ははは。だから隆志君。ここだけの話だよ」
そう言うと、上司は肩をすくめて見せる。
「小さなミスなんて、気にしなくてもいい。
社会人になったんだから、会社に迷惑をかけないようにだとか、そう気負うこともないさ」
くだけた表情で悪戯を相談するように、俺に話す上司の顔を、俺はじっと見た。
「小さな選択も大きな選択もいつかきっと、君自身を作り出す、大切な魂の、一部分になっていくものだ。
だから隆志君は、君の思うように、会社の役に立ってくれたらいいんだよ。
私はそれを、そばで見守って、サポートするのが役目だと思っているから」
「―――……はい……。よろしく……お願い、します……。」
けれどそれから、上司はすぐに会社で認められ、さらに上の役職へと昇進していった。
「私もまだまだだけどね。君を応援しているよ」
一緒に仕事をしていても、俺を大切に、人を大切にしている人なんだってことはすぐにわかった。
どこまでも立派で隙の無い人だった。
『人生は選択の連続』。
そう言う言葉は世の中どこにでもあった。
だけどあの上司が言っていたあの時の言葉だけは、俺には本当に中身があるみたいに聞こえた。
だけどさ、■■さん。
俺は思うんだよ。
俺の選択。
俺の選択の結果が、今の俺の姿なんだって、俺の心なんだって言うんなら。
―――俺の選択はいつもいつだって、誰かがした選択の先にあるものだったんだ。
***
「―――俺の……選択……?」
高い、高い階段の上に、その玉座はあった。
玉座の裏には、真紅の旗。
広間を一望できる台の上。
男の首が、王座の階段を転がり落ちていく。
その軽快な音に、俺は視線を向けていた。
……コン、コン。コロ、コロ。
たった今、騎士が切り落とした男の首。
玉座の下には、鈍色の鎧を着た騎士たちの列と、こちらを仰ぎ見て、呆然とする女の姿があった。
女はボロボロのドレスを着て、後ろ手に縄で縛り上げられている。
どこかで見たことのある顔。
……コン、コン。コロ、コロ。
首は転がって、転がって、遥か下。
騎士たちの居る赤い絨毯の地面へと落ち、少しして、動きを止める。
「……あ……あ……な、た……?」
銀色の長い髪をした女は、膝をついたまま、ずるずると。
男の首に向かって、近づいていった。
「あなた……。ねえ……あなた……?」
その顔は、薄い笑いを浮かべていた。
引き攣った表情が、笑っているみたいに見えているようだった。
かつては美しかったと思えるようなその顔も、青黒い痣と、こびりついた煤と、ボロボロになった唇の皮が剥げて、まるで見窄らしい存在のように映った。
―――美人だったのに勿体無い。
ゾッとする思考に、手が震えた。
手の中にある、ペンダントの、鏡が嵌め込まれた反対側。
小さな写真が入れられている。
さっき俺が拾ったものだった。
写真には、3人の家族。
銀髪の優しげな表情をした男と、穏やかな顔をした女と、幼い少女の姿。
虚な男の目は、写真の男と同じ、薄い紅色をしていた。
「あなた……あなたああああああああ!!」
女は絶叫した。口の中に綺麗な白い歯が見えた。
銀色の髪を振り乱して、男の首に縋りついた。
「ああ!! ああああああああ!!
何故ですか……なぜ、なぜ!! ルドルフ皇太子殿下!!
何故主人は……敬虔な、帝国の主に仕える僕でしたのに!!」
床に倒れ込んだまま、首を持ち上げて。
女の目がこちらを見る。
「黙れ逆賊が!!」騎士が女を取り押さえた。
「牢に連れて行け!! じきに新王陛下より処分が下される!!」
女は広間から連れて行かれた。
「……陛下。必要であれば、あの者も、処分、致しますが……」
隣に立っていた、翡翠色の髪をした男が俺に話しかけてくる。
まだたっぷりと血を吸った剣は、雫を滴らせている。
「……殺すな」独り言みたいに、俺は答えた。
聞き返そうとする騎士を無視して、身体を動かしていた。
ぐるぐると、目が回る。
足を動かして、俺は階段を降りた。
ガタガタと膝は笑っていた。
ガッタンガッタンと、肩が揺れた。
目指す地面はどこまでも遠くて、どこまでも近い。
「……絶対に、殺すな……誰も……殺すな……」譫言みたいに呟く。
広間の視線が俺に向く。
そんなことはどうでも良かった。
どうでも良いことだと思った。
「おとう、……さま……お、かあ、さま……」
赤い絨毯の上に、銀髪の少女が座り込んでいた。
近くに立つ騎士たちが、話をしている。
「この女は……元聖女は……どうしますか?」
「……元聖女の処遇は……それは、陛下に……」
「……アッ、おい、陛下が……ッ!!」
俺に気がついた騎士が、慌てて道を開けた。
「………ルド、ルフ……様……?」銀色の髪をした少女が、俺の姿を見上げた。
こんな状況じゃなけりゃ、直視もできないくらい、絶世の美少女なんだろう。
その大きな瞳の縁には、大きな滴が浮かんでいる。薄ピンク色の宝石のような瞳の中に、俺の―――見知らぬ男の姿が見える。
でもやっぱり、そんなことはどうでも良かった。
「……これ」
俺は握りしめていたペンダントを、少女へと手渡した。
この子だ。
写真の姿よりも成長している。
この中で誰よりも幸せそうに、二人の両親に抱かれていた少女だ。
「……あ……」角砂糖が溶けるみたいにして、少女の相貌が崩れた。
白くて細い指でそっとペンダントを受け取る。
「…………ああ……」
その静かな涙に、美しい涙に、広間にいた誰もが息を呑んだ。
「……あ……り……がとう……」
妖精の様なその顔が、醜く歪むことは無かった。
「ありがとう…………ございます……」
苦しそうに、彼女はうめく様に泣いていた。
―――もう、我慢できない。
俺はぐるりと、白目を剥き出しにして。
「―――うっ」
吐いた。
吐き出した。なんかよくわからん、実感も湧かない、この身体の中身を。
真っ赤なカーペットへとぶち撒けた。
血と肉と焦げ臭い灰と、胃酸の匂いで気持ちが悪い。
気持ちが悪い。
周りの騎士たちが駆け寄ってくる。
「へっ、陛下!! 陛下ーーーッ!!」
「すぐに神官を呼べ!!」
「魔塔の襲撃か?! あたりを確認しろ!!」
陛下陛下……陛下陛下陛下陛下……。
皇帝陛下万歳皇帝陛下万歳皇帝陛下万歳皇帝陛下万歳皇帝陛下万歳……。
呪文みたいに周りの人間の声が聞こえる。
なんだよその呼び方……なんだよこの状況……。
俺は陛下でも皇帝陛下でも皇帝陛下万歳でもねえんだよ……。
俺にはさあ……お袋にもらった、隆志っつー名前があんだよ……あったんだよ……。
……知らねえよ……なんなんだよ、マジで……。冗談キツイよ……。
意識が、落ちていった。
*