ヤマダタカシ30歳
何もすることの無い月曜日。
昼間から缶ビールを空ける。低いテーブルの上にはゴミと空き缶が散乱していた。テレビは見飽きたし、AVも一通り見漁った。
唐揚げの入っていたプラケース。二日前にコンビニで買ってきたやつだ。油の汚れやカスと一緒に、俺の顔が反射している。
ボサボサの薄い茶髪に、平々凡々な顔。まばらに生えた髭と、死んだ魚のような目。
もう3日は風呂に入ってないな。
不摂生のせいで肩に落ちたフケが、俺の身体の不衛生さを物語っている。
固まったティッシュを足下に落としてる時点で、衛生もクソも無いが。
山田隆史三十歳。現在無職。
「やることねえなあ、まじで無職って」
先週の金曜日までは、俺も会社員だった。
『山田さんって、ほんと責任感無いですよね。後輩として私、恥ずかしいです』
『お前、仕事やる気あんの? 同期の奴らはみんな上に行ってるよ?』
今まで散々言われてきた言葉たちが、酔った頭に繰り返す。
単純な話だ。
三十代になっても未だになんの成果も出せない。
昇進の話にも乗らず、上司からの仕事はのらりくらりと他の人間に押し付けては逃げ続ける。
そんなことを何年も繰り返しているうちに、『頼りにならないお荷物社員』として、会社でも、更には日常生活でも……俺は『責任感の無い男』として敬遠されるようになっていた。
『山田くんって……頼りなさ過ぎ。もう無理』そう言われ数年前、彼女にもフラれた。
『残念だけど、君みたいな人をいつまでも会社に置いておけるほど、今の世の中は甘くないんだよ』
部署の業務改革の一環だと言って、これ以上仕事を真面目にやらないのなら『お前は仕事ができないから』とクビになり、今に至る。
『山田お前、もう三十よ? わざとやってんの? お前だって、昔はもっとさ……』よく昼飯を一緒に食っていた同僚の言葉だった。
『山田さんがいると、会社の空気が悪くなりますよ。責任から逃げてばっかりでカッコ悪い』俺に初めてできた後輩の言葉だった。
『――隆志君がやりたいことは、本当にそれなのかい?』俺が入社して初めて面倒を見てもらった、上司の言葉だった。
誰も彼もが、俺に失望して、見下したような、憐れんだような目を向けてくる。
「――ま、当然よな。手抜きしまくってたし、面倒な仕事は後輩に押し付けまくってりゃ、そりゃお荷物だと思われて当然だ」
そう一人ゴチる。
「あ〜〜楽だったのになあ。会社におんぶに抱っこ。行くだけ行ってりゃ給料はもらえる俺のジンベエザメ……」
気分はあのでかいジンベエザメの腹にくっついて寄生する小判ザメだ。
かといって小判ザメは、そのポジションを守る努力をするという訳でもなかった。ただ馬鹿正直に『俺、仕事できないんで〜〜』と言って居座っているだけなのだから、追い出してくれと言ってるようなものだろう。
「ど〜〜すっかなあ。もう染み付いちまったさぼったろー根性が腰を重くしてるぜ……あ〜〜ほんとに、なんもしたくね〜〜」
慢性的に酔っているせいで思考もあやふやだった。
本日俺がやったことと言えば、本当に、ソファで昼寝をしているだけだった。
寝て、ビールを飲み、テーブルの上の余ったつまみを口に入れ、また寝る。
「あーー叶うなら、グラマーな金髪美女モデルに養われたい……ヒモになりたい……。こんな三十路じゃ無理かあ? までも俺も少しぐれえはさあ……」
左手で垢の乗った腹をぼりぼりとかく。
ふと前を見ると、真っ黒なテレビの画面に汚えオッサンの姿が映った。
「うわ、誰だよこの子汚ねえキモいおっさん……」思わず溢す。
これでも大学時代は筋トレにハマり、水泳部でもそれなりに鍛えていた、はずだった。
そうだ……なんでも、全ては行動次第だってことは薄々わかっていた。最初は田舎染みていた奴だって、努力して容姿を小綺麗にして、仕事でも成功していった奴らがたくさんいるんだろう。
俺は何もしてこなかった。
その結果が、この現実で、今の俺の姿で……。
「この……圧倒的現実……」画面の中の俺と、目を合わせる。
急な現実に酔いがさめた気がして、右手で新しいビール缶に手を伸ばした。昨日から出しっぱなしのそれは、もう既に温くなってしまっていて、缶の下に水滴が丸く跡をつけていた。
「なんでもいいぞ〜〜アルコールならよお」誰に言うとでも無く、寂しいオッサンの独り言が部屋に響く。
味なんて関係ない。ただ胃に流し込むみたいにして、ビールをぐいと煽る。
「ぷっは〜! あーーあ。なんだよなあ! ほんとになあ! ああああ、なあ〜〜よお!! だーーれか、俺の人生、責任、全部、全部、全部、ぜえええええええんぶ、肩代わりしてくんね〜かな〜〜」
ソファの背もたれにどっさりと頭を沈める。
仰いだ天井には、白い蛍光灯があった。
その眩しさに、いつかの太陽を思い出す。いつかの遠い青空を思い出す。
さっきまでムカムカとしていた胃の中が、急に冷えた気がした。
「……ほんとさあ…………。責任感の無い人生を送ってきたよなア。俺って……」
ぽつりと独白を落とした。
飲みかけのビールを持った腕をだらりと下げる。
光が目に入って、ぐにゃりと視界が歪んでいく感じがする。
「――うッ?!」
頭の中で爆発が起こったような衝撃があって、吐き気に襲われた。
反射的に立ち上がると、今度はぐらりと目が回った。
(まっ……ま、ずい……酒が……)
「ううッ!!」
今度はガンと殴られたような衝撃があって、俺は空き缶を薙ぎ倒しながらテーブルに倒れ込んだ。口元がブルブルと痙攣している。
真っ黒なテレビの画面に映るのは、パジャマ姿で白目を剥いたまま、口から泡を吹いて痙攣する男。
視界がぐるぐると回っているのに、死んでいく俺の目だけは嫌にはっきりと見えていた。
ドクンドクンと身体の奥で、脈打つ心臓。
身体の……血が、だんだん、流れなくなって……いく……。
不思議と……恐怖は無かった。
(ハハッ……酒の限度もわかんねえで死ぬとか……俺の人生って、つくづく情けなくて終わってんな……)
走馬灯のようにこれまでの記憶が駆け巡る。
スローモーションのように。
責任逃れをする俺。
嘘をついて、難を逃れては、その場しのぎで誤魔化す俺。
事勿れ主義を通して、そうして人任せにして、ヘラヘラと笑っている俺。
お前は期待外れだ、適当な奴だと罵られたって……俺はちっとも、変わりやしなかった。
ただ本当に、臆病者で、どこまでも、情けない男だったんだ。
そんな記憶ばかりが。
(最悪な思い出ばっかじゃん……。まあ、そうか……)
浮かんだのは、失望した優しい上司の顔だった。
最後まで、俺のことを信じてくれていたのに、いつまでも俺は《《こんな有様》》だ。
黒目がゆっくりと上を向いていく感じがした。ヨダレが顔をべったりと濡らしていた。チカチカと頭の中の宇宙が破裂していた。
――ああ、そうだな……。
――でももし、叶うなら……。
――こんな、俺にも……『来世』ってヤツが、あるんだとしたら……。
――次の、人生では、もっと……ちゃんと……選択を、間違えないで……まともな……人間、に………。
青く青く視界が染まっていく。
夏の青い空の影の下で。
あの日、絶望しながら、それでも強い瞳で笑った《《彼女》》の面影が瞼の裏に浮かぶ。
――はは……まあ、きっと……俺にはそんなの、無理なんだろうけど……。
そうして俺、山田隆史の今生は、幕を閉じた。