姉弟
「先日も申し上げましたが、私は、今の身分に不足はありません。それに、養女なら養女で構いません。いくらなんでも、実子というのは……」
しかし定省王は、何も季姫を気遣って言っているわけではなかった。
「こちらが困るのだ」
「実はさあ、内侍になれる子がいなくって」
「内侍、ですか」
今上の言葉に、季姫は目を見開いた。内侍となれば、私的な女房ではなく、正式な女官である。その内侍がいないことと、季姫の養女の話が関係あるとすれば……答えは一つしか考えられない。
「うん。この前内侍の一人がやめちゃったんだよね。それでね、藤典侍が、人手が足りないって、すごく困ってるんだ」
「ですが、私は……」
「ああ、母上のこと?それなら心配ないよ。母上のところ、多分、もうすぐ人が少なくても大丈夫になるから」
それは、今上が譲位なさるからですかと、喉元まで出かかったことばを、季姫は慌てて押しとどめる。今上本人が言うならともかく、いくら人の気配がないとはいっても、臣下が言ってはいけない言葉なのだ。
「それで、山井。そなたを内侍に推挙しようと思う」
「しかし私は、太后様にお仕えする身です。それが、藤典侍様の下につくというのは……差し障りがございませんか」
高子は、基経に対しても淑子に対しても、常に警戒を怠らない。だから淑子も、高子に対しては、決して好意的な感情を抱いているとは言えないはずだ。
いくら若狭が一緒だと言っても、季姫は、そんな場所で、自分が上手く立ち回ることができるのか、自信がなかった。
「藤典侍なら、気にしないから大丈夫だよ。さすがに三条くらいの古株だとね、いろいろあると思うけど。ふた月だっけ?そんなの、仕えたうちに入らないって」
「信頼できる者が、若狭の他に、もう一人くらいいてくれると助かるのだ。それに、そなたは、若狭と対等に漢籍の話ができるという。これほど相応しい者はおらぬ」
今上の、少々乱暴とも言える理論はともかく、定省王の言葉に、季姫は、心が動くのを感じた。単なる同情や償いではなく、季姫自身の見て、考えてくれているのだ。
「でもさ、山井を内侍にするには、枝良の身分がちょっとね……」
「だから、いい機会だろう。ああ、少進殿には話してあるゆえ、気にしなくて良い」
その言葉に季姫は、自分の希望を聞かれているのではなく、ほとんど決定した事項を聞かされているのだと悟る。父に、枝良に話が通っているのなら、それはもう、決定してるのと、同じことである。
季姫は、もう一つの懸念事項を確認する。
「王侍従殿。兵部大輔殿は、その……私のことを……」
「ああ。とうに知っておったようだ。北の方が、話されていたらしい」
「では、全てご承知で」
「ああ。東三条殿で知っている女房は、弁の君だけだという」
その返事に季姫は、覚悟を決めた。ただ、やはり即答することは、躊躇われる。
「有り難いお話ですが……少し、考えさせて頂けますか。それに、養女や内侍はともかく、実子というのは……」
「いや、できればその方が都合がいいのだ。実子ならば、堀河殿にも繋がる故な。待つのは構わぬが……推挙するなら、多少の根回しが必要になる。あまり時間はないぞ」
「承知しました。今月中には、お返事いたします」
それが、是という返事であることを、この場にいる誰もが、承知していた。
――いい話だと思うよ
季姫が宣耀殿の曹司に戻ると、待ちかねたように少将が姿を見せる。
「内侍にというのは、有り難いとは思いますけど……」
――ん?どうしたの。何か気になることでも?
「兵部大輔殿の養女にして頂いたとして、どうやったらそこから、実子になれるのかと」
定省王は、文書の改竄など何でもないような顔をしていたが、季姫としては、できれば関わりたくない、というのが本音なのだ。養女なら養女でも、構わない。しかし定省王は、実子の方が、基経との繋がりもできて都合がいいと言う。
――ああ、定省が何か、穏やかじゃないこと、言ってたね
「もし、それで真相が明かされるきっかけになったらと思うと、怖いんです」
――確かにね。季姫は、その問題が何とかなったら、この話、受けるの?
「父に話が行っているのですから、私に選択権はありません」
季姫には、この話を覆すことなど、できないことはわかっている。せめて養女にという話で終わるのであれば、もう少し素直に喜べたかもしれない。
――そうだね……じゃあいっそのこと、最初から養女じゃなくて、実子になっちゃえば?
「しかし、それでは何のために……」
かといって、季姫が高藤の実子だと名乗り出れば、定国とのことが知られてしまう。
――別に、季姫と定国が、一緒に産まれてなければいいんでしょ?
「ですが、私も藤非職殿も、産まれ年は公に届けられています」
季姫の逡巡に、少将は少し考える素振りを見せた。そうして、珍しく、自身のことを話し始める。
――僕にはね、綺麗で優しくて、淑やかな、一つ上の正子っていう母も同じ姉がいたんだ
「少将様の、姉君ですか?それって……」
少将の姉ということは、仁明帝の姉である。比較的最近、その訃報があったはずだ。
――僕と違って長生きで、つい四年前に亡くなったんだよね。僕達の叔父で、前の帝であられた西院帝の皇后だったんだけどね、姉は、大同四年十二月の産まれなんだよね
深草少将、つまり仁明帝の同母姉正子内親王は、叔父に当たる淳和帝に嫁いだ。淳和帝は、その御所から西院帝とも呼ばれる。正子内親王は、淳和帝の崩御後に落飾し、四年前の元慶三年、七十歳を数える年に、崩御している。
「大同四年十一月ですか。少将様は……深草帝は弘仁元年の十月ですよね」
――だから、一年も離れていないんだ。もし姉が、もう一月遅く産まれていたら、僕と、同じ年の産まれになってても、おかしくないんだよね
「では、私が実子というのは……」
――確か、定国が産まれたのって、十一月とか十二月じゃなかったけ?だからさ、季姫がもっと早く、一月とか二月に産まれたことにしちゃえばいいんじゃない?
「そうですね、ではそれで、王侍従殿に相談してみます」
少将の提案に、季姫はようやく晴れやかな笑顔を見せた。




