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歌洗う姫と物怪の少将  作者: 夜宵氷雨
第6章 在るべき場所へ戻るには
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養女

 翌日、後宮に戻った季姫が常寧殿に伺候すると、来客があった。基経である。三条に手招され、季姫は、基経にかなり近い位置に控えることになった。

 ふわりと鼻の先を、覚えのある黒方が香る。淑子のものである。基経の衣からは、黒方とは異なる香りが、はっきりと匂う。だから季姫は、基経はここに来る前、温明殿の淑子の元を訪ねたのだろうと、予測する。

「太后、此度の責任、いかがされるおつもりかな」

 案の定、益の死の『真相』を聞きつけ、高子に文句を言いに来たらしい。それにしては、少し遅い気もしたが、基経ほどの人物になれば、よほどのことがなければ、その日すぐ、身軽に動けるということもないから、こんなものかと、季姫は気にしないことにした。

「今上に、咎はございませぬ」

「誰が何をなさった、ではなく、今上の御前で、このような事故が起きたことこそ、問題だと申し上げているのです」

 定省王が、今上に咎がないようにという意図もあって、作り上げた真相ではあったが、そもそも、基経には、何の効果も発揮していない。

「では、今上の御前には、誰も伺候しない方がよいと仰せか」

「そうは言っておりません。しかし、先日の馬の一件も、今上からは、まだ何のお言葉も頂いておりませぬな……物事には、向き不向きがございますゆえ」

 基経の言葉に、高子が激昂する。基経は暗に、今上が帝位に向いていないと、言っている。近くで会話を聞いていた季姫は、そう思った。基経の目的は、これだ。ならば、今回の事件をどう取り繕っても、基経には何の効果もない。

 だからこそ高子は、『作られた真相』を聞いてもなお、何とかしようとしたのだ。

「あ、兄上。今、何と」

「ん?馬の件で、今上から……」

「その後じゃ」

 声を震わせて問い詰める高子に、基経は余裕のある表情で答える。

「物事には、向き不向きがございますゆえ、と」

「それは、どういう意味じゃ」

「これは異なことを。相撲に向いている者もいれば、騎馬に向く者も降りますゆえ、今上には心やすく、その御位にあって頂きたいと、こう申し上げたまで」

 しかし基経は、さらりとした様子で、明らかに先の言葉とは、違う意味のことを言う。その言葉に、高子は返って、不審を募らせた。

「そのお心、いつわりはございませぬな」

「無論、この基経、いついかなる時も、今上の御ために骨身を惜しまぬ覚悟でございます」

 基経の言葉は、ただ乾いた響きと共に、常寧殿を通り過ぎるかのようであった。


 季姫が、定省王に呼ばれて襲芳舎を訪れると、定省王だけなく、今上の姿もあった。

「え~だって、摂政だって、(ぼく)っていうか母上がいろいろ口出すからって、仕事してくれないじゃん。やっぱり譲位した方が、いいと思うんだよね。ほら、定省がいるし」

 今上の言葉に、定省王は呆れた表情を見せ、断固として断る。

「私は、親王宣下も受けてない身ですから」

「じゃあ、譲位の代わりにって、摂政に掛け合ってみようかな。ほら、定省って藤典侍の猶子だし、大丈夫じゃない?」

 今上は、だだをこねる子供のように、定省王に譲位をねだっていた。

「おやめください。そもそも、あの事件を理由にするというなら、近衛に知らせたのは、この私です。今上がそのようなことをなされば、私も一緒に疑われて、おそらくは、寺にでも放り込まれます」

 自ら出家したというならともかく、罪を問われて強制された出家の場合、還俗することはほとんど絶望的である。

「それもそうか、摂政って手強いからね。定省がいなくなったら困るなあ……あ、じゃあさ、式部卿は。それだったら、次が定省って可能性、あるよね。ほら、今一品なのって、式部卿だけだし」

「今上……私には、兄が六人いるんですよ。同母の兄でさえ、二人」

「だって、定省が一番、頭いいじゃん」

「先日も申し上げましたが……そのように憚りのあることを、軽々しく、仰らないでください」

 今上の言葉に、定省王は、深く嘆息した。


「あの……」

 二人の会話に入る機会を失った季姫は、恐る恐る声を掛ける。

「誰だっ」

 定省王が、素早い動きで振り向く。

「あれ、山井じゃん。驚かせないでよね」

 あんな会話を聞かれた後だというのに、季姫の姿を見つけた今上は、のんきに手を振った。

「王侍従殿がお呼びだと聞いて……」

 いくら後宮の外れ、襲芳舎だと言っても、二人が、あまりに危うい話をしていたため、本当に、ここに来てよかったのかと、季姫は、後悔する。

「そうであったな。すまぬ、そなたを待っていたら、今上がいらしたのだ」

「ごめんね、山井?」

 自分が間違ったわけではないと知り、季姫は胸をなで下ろした。

「滅相もございません。それで、お話があるとのことですが」

「うむ。山井、そなた、兵部大輔殿の養女になれ」

 季姫は、定省王の言葉に、耳を疑った。今、よくわからないことを言われた気がする。

「兵部大輔殿って、それは……」

 兵部大輔藤原高藤は、季姫の実の父であることが、わかったばかりの人物である。しかしそれは、内密にしておくはずのことであった。季姫と定国の二人が、忌み嫌われる双子として産まれたことを、隠すためである。その実父の養女になれ、というのは、定省王は、どういうつもりで言っているというのか。

「適当なところで、養女ではなく、実子にしておいてやる」

 挙げ句、堂々と公文書の改竄を宣言され、季姫は頭を抱える。現在の養父、藤原枝良は、高藤に比べれば身分が低い。だが、季姫を実の子同然に遇してくれているし、身分及ばずとも、かの山本大臣藤原緒嗣に恥じない生き方をすべきと、季姫にも教え説いてくれる、尊敬する父なのだ。季姫は、今の境遇に何の不満もない。

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