養女
翌日、後宮に戻った季姫が常寧殿に伺候すると、来客があった。基経である。三条に手招され、季姫は、基経にかなり近い位置に控えることになった。
ふわりと鼻の先を、覚えのある黒方が香る。淑子のものである。基経の衣からは、黒方とは異なる香りが、はっきりと匂う。だから季姫は、基経はここに来る前、温明殿の淑子の元を訪ねたのだろうと、予測する。
「太后、此度の責任、いかがされるおつもりかな」
案の定、益の死の『真相』を聞きつけ、高子に文句を言いに来たらしい。それにしては、少し遅い気もしたが、基経ほどの人物になれば、よほどのことがなければ、その日すぐ、身軽に動けるということもないから、こんなものかと、季姫は気にしないことにした。
「今上に、咎はございませぬ」
「誰が何をなさった、ではなく、今上の御前で、このような事故が起きたことこそ、問題だと申し上げているのです」
定省王が、今上に咎がないようにという意図もあって、作り上げた真相ではあったが、そもそも、基経には、何の効果も発揮していない。
「では、今上の御前には、誰も伺候しない方がよいと仰せか」
「そうは言っておりません。しかし、先日の馬の一件も、今上からは、まだ何のお言葉も頂いておりませぬな……物事には、向き不向きがございますゆえ」
基経の言葉に、高子が激昂する。基経は暗に、今上が帝位に向いていないと、言っている。近くで会話を聞いていた季姫は、そう思った。基経の目的は、これだ。ならば、今回の事件をどう取り繕っても、基経には何の効果もない。
だからこそ高子は、『作られた真相』を聞いてもなお、何とかしようとしたのだ。
「あ、兄上。今、何と」
「ん?馬の件で、今上から……」
「その後じゃ」
声を震わせて問い詰める高子に、基経は余裕のある表情で答える。
「物事には、向き不向きがございますゆえ、と」
「それは、どういう意味じゃ」
「これは異なことを。相撲に向いている者もいれば、騎馬に向く者も降りますゆえ、今上には心やすく、その御位にあって頂きたいと、こう申し上げたまで」
しかし基経は、さらりとした様子で、明らかに先の言葉とは、違う意味のことを言う。その言葉に、高子は返って、不審を募らせた。
「そのお心、いつわりはございませぬな」
「無論、この基経、いついかなる時も、今上の御ために骨身を惜しまぬ覚悟でございます」
基経の言葉は、ただ乾いた響きと共に、常寧殿を通り過ぎるかのようであった。
季姫が、定省王に呼ばれて襲芳舎を訪れると、定省王だけなく、今上の姿もあった。
「え~だって、摂政だって、朕っていうか母上がいろいろ口出すからって、仕事してくれないじゃん。やっぱり譲位した方が、いいと思うんだよね。ほら、定省がいるし」
今上の言葉に、定省王は呆れた表情を見せ、断固として断る。
「私は、親王宣下も受けてない身ですから」
「じゃあ、譲位の代わりにって、摂政に掛け合ってみようかな。ほら、定省って藤典侍の猶子だし、大丈夫じゃない?」
今上は、だだをこねる子供のように、定省王に譲位をねだっていた。
「おやめください。そもそも、あの事件を理由にするというなら、近衛に知らせたのは、この私です。今上がそのようなことをなされば、私も一緒に疑われて、おそらくは、寺にでも放り込まれます」
自ら出家したというならともかく、罪を問われて強制された出家の場合、還俗することはほとんど絶望的である。
「それもそうか、摂政って手強いからね。定省がいなくなったら困るなあ……あ、じゃあさ、式部卿は。それだったら、次が定省って可能性、あるよね。ほら、今一品なのって、式部卿だけだし」
「今上……私には、兄が六人いるんですよ。同母の兄でさえ、二人」
「だって、定省が一番、頭いいじゃん」
「先日も申し上げましたが……そのように憚りのあることを、軽々しく、仰らないでください」
今上の言葉に、定省王は、深く嘆息した。
「あの……」
二人の会話に入る機会を失った季姫は、恐る恐る声を掛ける。
「誰だっ」
定省王が、素早い動きで振り向く。
「あれ、山井じゃん。驚かせないでよね」
あんな会話を聞かれた後だというのに、季姫の姿を見つけた今上は、のんきに手を振った。
「王侍従殿がお呼びだと聞いて……」
いくら後宮の外れ、襲芳舎だと言っても、二人が、あまりに危うい話をしていたため、本当に、ここに来てよかったのかと、季姫は、後悔する。
「そうであったな。すまぬ、そなたを待っていたら、今上がいらしたのだ」
「ごめんね、山井?」
自分が間違ったわけではないと知り、季姫は胸をなで下ろした。
「滅相もございません。それで、お話があるとのことですが」
「うむ。山井、そなた、兵部大輔殿の養女になれ」
季姫は、定省王の言葉に、耳を疑った。今、よくわからないことを言われた気がする。
「兵部大輔殿って、それは……」
兵部大輔藤原高藤は、季姫の実の父であることが、わかったばかりの人物である。しかしそれは、内密にしておくはずのことであった。季姫と定国の二人が、忌み嫌われる双子として産まれたことを、隠すためである。その実父の養女になれ、というのは、定省王は、どういうつもりで言っているというのか。
「適当なところで、養女ではなく、実子にしておいてやる」
挙げ句、堂々と公文書の改竄を宣言され、季姫は頭を抱える。現在の養父、藤原枝良は、高藤に比べれば身分が低い。だが、季姫を実の子同然に遇してくれているし、身分及ばずとも、かの山本大臣藤原緒嗣に恥じない生き方をすべきと、季姫にも教え説いてくれる、尊敬する父なのだ。季姫は、今の境遇に何の不満もない。




