相撲
「今上は、どうされたいのですか」
定省王が、今上の意思を確認する。
「とりあえず、定国は別に何もしてないでしょ。ただ、益が殴り掛かったのを、避けただけだったし」
今上には、定国を咎める意思は全くない、ということである。
「では藤非職殿は、ちょうど事件の折、今上の命で、硯箱でも取りに行っていたということで、いかがでしょうか」
「あ、それいいね。忘れないように、書いておかなきゃ」
皆で口裏を合わせるために書き留めようと、今上が筆を持つ。
「そんなこと、御宸筆でしたためでどうするのです。そうだな、この中なら……貫之と言ったな、そなたが書け」
今上から慌てて筆を取り上げた定省王が、貫之に筆を渡した。この中で、今のところ、最も内裏に縁がないのが、貫之である。貫之の字ならば、万が一、誰かにここで書いたもの見られたとしても、誰が書いたものなのか、特定するのが難しいはずである。
「じゃあ、まず定国ね。朕のお願いで、硯箱」
「畏まりました」
定省王から筆を渡された貫之は、『藤』と『硯箱』の三文字だけを書く。
「じゃあ次、なんで益は殴られたか?とか」
「そうですね、さすがにあれを、どこかにぶつけたとかは、ごまかせません」
亡くなった時の益の顔は、明らかに人の手で殴られたとわかるほど腫れ上がっており、相当ひどいものだったらしい。
「どうしたらいいと思う?理由は言えないけど、朕が殴ったのは事実だし、それが原因ってことでもいいよ」
問題は、定国と季姫、二人のために、何故益が、畏れ多くも今上に殴られたのか、公表できないことである。今上が、それをよしとしないのだ。
「しかし、今上、それでは……今上ばかりに、皆の目が向いてしまいます。益殿の後頭部にも、地面で打った痕があるということですし」
「ですから私は、出家でも何でもする覚悟です。双子だと知れたらなおのこと」
定国が、元は自分のせいだから出家すると言うが、今上は、それを認めようとはしない。
「だから、それは駄目だって。だいたい、山井のことはどうするの」
「そ、それは……」
季姫のことを持ち出され、定国は言葉を詰まらせる。例え、昨日まで赤の他人であったとしても、姉妹だとわかった以上、定国には、季姫を守りたいという思いがあるのだろう。
それは、季姫も同じであった。麻名子のことも、小町のことも、枝良のことも、そして枝良の妻子のことも、大切な家族には変わりない。しかし、実際に、自分と血の繋がった家族が目の前にいるというのは、また違う喜びがある。
「私一人くらい、何とかなります。父とは縁を切り、小野の邸に引きこもって、歌占でも何でも……」
小町なら、都人からなんと言われようと、気にもしないだろう。後宮から下がり、父とも離れれば、素性がわかっても、誰に迷惑をかけることもない。
そうして小町の側で、歌占でもしながらひっそり暮らすのも、悪くないかもしれない。
「それは認めん。第一、歌占は、小町殿の名声あってのものだろう。小町殿は今、おいくつになられるというのだ。これから先、山井はずっと一人で過ごす気か。そもそも、女官や女房が、和歌に優れて歌占ができることと、生業としての歌占は違う。有力な後ろ盾のない巫など、遊び女も同然ではないか」
季姫の考えを聞いた定省王は、定国よりも貫之よりも早く、強く反対した。季姫は何故か、胸が熱くなり、鼓動が早まるのを感じた。
今上が、周囲を見渡しながら、思案を巡らせる。
「困ったねえ……どうしたら……そうだ、定省。定省って、亡き在五中将と、殿上の間で相撲したことがあったよね。それで何だっけ、椅子の手すり折っちゃったんだよね」
在五中将とは、在原業平である。在原氏の五男であり、右近衛権中将であったことから、在五中将と呼び習わされている。若き日に、今上の母である入内前の高子と、浮き名を流した張本人である。
「そんなこともありましたが……それが、どうされました?」
「それだよ、それ。朕と益が、相撲取ったことにすればいいんだよ」
今上が、いい考えだとばかりに、満面の笑みを浮かべる。
「相撲ですか、なるほど……ですが、今上は、相撲の趣味はをお持ちではあられませぬな……ここに来て、突然、というのも何やら不自然……ならば、私と在五中将殿の相撲を思い出された今上が、益殿から相撲を、習われようとした。ところが、益殿が、力加減を誤ってしまい、その拍子に、今上の拳が、益殿の顔に当たってしまった。そこへ私が参内したものの、益殿はそのまま、相撲を続けようとして足下を誤り、地面に落ちた、と」
定省王は、日頃の今上様子から、不自然にならないよう、そしてあくまで、益に過失があったのだとする内容を、作り上げる。
「完璧だね、さすが定省。でも、君が参内したのは、益が倒れてからってことでいいよ。貫之だっけ、ちゃんと書いてくれた?」
「はい、このように」
そう言って貫之は、『在』『王』『椅子』『源』『相撲』『誤』『落』の九文字を見せた。
「う~ん、拳が当たったっていうのは……まあいいか。じゃあ、それで近衛達に説明して、あと、母上と紀君だっけ?朕のこと、気にしてくれてるのって。そういえば、全子にも言わないとね。その三人は、山井に任せていいかな?」
今上の頼みに、季姫は深く頭を下げた。




