呼出
役人達が出仕する時間になるのを待って、季姫は女嬬の装束に着替えると、蔵人所に向かった。
目当ての人物、以葛を見つけて季姫が声を掛けると、うれしそうにやや表情を崩した。
「井都女、俺に会いに来てくれたのか」
「ええ、そうよ。以葛殿に、教えて欲しいことがあるの」
季姫は、満面の笑みを浮かべ、いかにも、以葛に会えて嬉しい、という風情を見せる。季姫の表情とは裏腹のその言葉に、以葛は諦めたように一言呟くと、一瞬で気分を変えたのか、胸を張った。
「だと思ったよ。それほど上の方々に、ご迷惑にならないことだったら、何だっていいぜ。お安いご用だ」
「ありがとう、頼れるわ。実はね、この前教えて頂いた藤非職殿なんだけど……私の主どのに、縁があるらしいの。でも、恋人じゃなかったわ。よくいらっしゃる殿方は別の方。でも、縁の方だから、やっぱり心配で……」
季姫は、困った表情を見せる。その藤非職定国お墨付きの、以葛攻略法である。
「今度は、何だ?」
「もし、もしもよあの日、藤非職殿と、当番を代わられるようなお方とかって、いらっしゃらないかしら?」
随分と、儚い希望を抱く季姫の言葉に、さすがの以葛も、やや呆れた様子で答える。
「仁寿殿まで行って、向こうで代わってたら、俺たちにはわからないぞ」
「それじゃあ、特に親しい方とかは?」
「どうだろうな。別に皆さんと、親しげに話していらっしゃるけど……蔵人には、特別に親しくしているようなお方もないな」
力になれなくて悪いなと、慰める以葛であったが、季姫には、十分な情報である。
以葛の話を元に、季姫は定国が、別の誰かを庇っているというより、益の事件の時、その場に居合わせ、しかも、自身に過失があった可能性もあるのに、誰かに口止めされている、という方向に、心証を動かした。
そこへ、当の定国が現れた。かねてより、畏れ多くも今上からの、出仕を要請する文が届けられており、それに応える形での出仕であった。
「あの方が、藤非職殿だよ」
そう以葛に教えられ、季姫は何気なく、定国の方を見た。その瞬間、季姫の頭の中で、今までの疑問がつながり、一つの仮説を形作った。
「あ、あの方……が?」
「挨拶でもするか?」
声を出すのもやっとな程驚く季姫に、それに気付く様子のない以葛が、違う方向の気を利かせてくれる。しかし季姫は、今この姿で、定国に名乗るわけにはいかない。定国には、自分が女嬬に扮したことを話してあるが、以葛には、自分が高子の女房であると話していないのだ。
どうするべきか悩んだ季姫は、以葛が、自分の素性こそ知らないものの、井都女という名が仮のものであることは、承知しているのだと思いだし、それを使うことにする。
「忘れたの、以葛殿。女嬬の井都女は仮初めだって」
困った顔を見せる季姫に、以葛は少しだけ言い訳して詫びた。
「そうだった。あんまり板についてるんで、忘れてた。すまん」
「でも、心遣いありがとう。また来るわ」
それでも季姫は、以葛が気を利かせてくれたこと自体は嬉しく、心からの礼を言う。
「今度は、本当のあんたで来てくれると嬉しい」
「考えておくわ」
少し、照れた様子で、女嬬の井都女でない姿を知りたいと言われ、季姫は、ほんの少しだけ、くすぐったい心地がした。しかし、その望みを叶えられるのは、本当の意味で事件を解決した後になる。しかも、もし今、季姫の頭にある仮説が正しいとするなら、以葛の前に、季姫が季姫として現れることは、適わないかもしれない。
だから季姫は、ただ微笑んで、曖昧に返事するしかできなかった。
その季姫に、以葛は、後宮に戻る間、自分が定国の気を引いておくと言って、声を掛けに行く。季姫は、不誠実な対応しかできない自分に対する、以葛の過分な気遣いを感謝し、急いで宣耀殿に向かった。
「そこの女、止まれ。どこかで見た顔だが……まだ、何か探っているのか、山井。よもや、今朝の忠告を忘れたとは、言わさぬぞ」
人目につかないよう、後涼殿の近くを通ったことが、仇となった。簀子縁に、二人の人物が立っている。今上と定省王であった。
よりによって、女嬬に扮したところを、定省王に見つかってしまった。
「あれ、君が山井なの?母上のところの。そうだ、顔をよく見せてよ」
今上の言葉に、季姫は恐縮しながら、覚悟を決めて、簀子縁に近付いた。定省王の鋭い視線が、痛いほど刺さる。
「し、失礼いたします」
季姫が顔を上げる。今上は、欄干から身を乗り出さんばかりにして、季姫の顔を見つめた。
「う~ん……なるほどね。定省が言ってたこと、わかった気がする。これから定国が来るんでしょ?山井も一緒にいてもらったら、わかりやすいかも。どうかな?」
「はい、それでよろしいかと存じます。山井、今上の仰せだ。その形では、話にならん。さっさと着替えて、すぐ梅壺に来い。全く、下手に動き回ったりしなければよかったのだ。逃げるなよ。あと、どうなっても知らぬからな」
「畏まりました」
季姫は、間の悪さを悔やみながら、ともかくも宣耀殿に戻った。
宣耀殿に戻ると、簀子縁に貫之の姿があった。
「季姫、どうしたんだい。そんな格好で」
「兄様……今、蔵人所の雑色に話を聞いていたのです。それと、実はこれから、梅壺に行かねばなりません。今上と王侍従殿に呼ばれているのです。多分、藤非職殿もいらっしゃると思います」
季姫は早口で説明すると、御簾を下ろし、急いで着替えを済ませる。
「今上と、王侍従殿?それに藤非職殿?何だって。そんな方々と季姫が……」
「多分、益殿の件です。それと、私が当事者になっている気がします。この際です、兄様もいらっしゃいますか?」
着替えながら季姫は、御簾越しに貫之と話を続けた。できれば貫之には、一緒に来てもらえると心強いのだ。
「僕が?でも、僕は一介の文章生だし」
「ですが、紀君に頼まれていらっしゃるでしょう」
「確かに、そうだけど。王侍従殿はともかく、今上にお会いするなんて……」
貫之自身、嫌がっている様子はない。ただ、今上がおいでになるということで、身分を考え、憚っているのだ。だから季姫は、貫之が今上に見える理由を作った。
「では、こうしましょう。兄様は、紀君からのお遣いだって。これなら、今上にお会いする理由になりませんか」
「季姫が、そこまで言うなら、仕方ないか。とりあえず、梅壺までは、一緒に行くよ。でも、その先は、僕にお許しを頂けなければ、それまでってことで」
紀君には、後で話を合わせてもらえばいいだろうと、判断する。どうせ出産まで、後宮に戻ることはできないのだ。
「それで結構です。ですが、お許しが頂けなかった場合、床下にでも潜んでいて頂けると、嬉しいです」
季姫の無茶振りに、貫之は苦笑いを浮かべる。
ここまで言っておけば、梅壺に着くまでに、何とかお許しを頂けそうな口上を考えなければと、頭をひねってくれるだろうと、季姫は考えたのだ。
貫之との話が終わる頃、季姫は正式な裳と唐衣まで着け終わっていた。季姫は常寧殿を避け、貫之と共に麗景殿を通って承香殿に渡り、清涼殿から藤壺を通り、梅壺へ向かった。
梅壺に、人の気配はない。それでも人目をはばかったのか、身舎の中にまで入るよう、命じられた。
貫之のことは、季姫の幼なじみで、信頼できる相手であることと共に、紀君の縁者で、その遣いとして来たのだと説明する。これから起こることを、決して外に漏らさないことつまりは紀君にも言わないという条件で、廂までならばと、同席が許される。ちょうど、見張り代わりにいいということであった。
季姫は、貫之がいることで、随分と気持ちが違うのだと、心を強く持った。




