定国
季姫が、三条から弁の君への遣いを頼まれたのは、それから数日後のことである。ようやく、東三条殿に話が通ったのである。
季姫は、内裏を出るついでにと里下がりを願い出た。小町を訪ね、自分の出生について、相談してみようと思ったのだ。
左京三条三坊一町にある、東三条殿。後に、南側の二町も占めることになる邸宅だが、この時はまだ、一町のみの、貴族の邸宅としてはごく普通の規模の邸であった。
高藤の使う寝殿に、その妻で宇治郡司の娘宮道列子の住む北の対、それに子供達が使う西の対と東の対、それに加えて、東北の対が作られている。高藤と列子の間には、長男の定国の下に、女子と男子が一人ずつあるというから、そのために対屋の増やしたのだろう。
華美ではないが、よく手入れされた庭が客人達の目を楽しませる、随所に趣味の良さを感じさせる邸宅である。
「あなたが山井殿。お話は、三条殿から承っております」
季姫が、指示された通りに北の対を訪ねると、人の良さそうな、やや年配の女性が出迎えてくれた。三条の従姉、弁の君である。
「無理を言って、申し訳ありません」
「いえ。太后様の思し召しとあれば、お気になさいますな。それに当家にお客人とは珍しい。御方様は、申し分ないお人柄なのですが……宇治のご出身ゆえ、お身内がお近くにいらっしゃいませぬ。それで、あなたのことを話したら、是非お会いしたいと仰っておいでです。もちろん、先に若君にお会いできるよう、話してあるゆえ、ご安心くださいませ」
弁の君どころか、北の方までが、歓待してくれるという話に、季姫は却って申し訳ない思いで一杯になる。何せ季姫は、この家の嫡男である定国が、益の事件に関わっているのではないかという、家族や女房達にとっては、有り難くもないどころか、迷惑この上ない疑いのために、訪問したのだ。
しかし、さすがにその詳細までは、伝わっていないらしい。おそらく、表向きは三条の、しかし実は高子の用ということだけが伝わっており、もしかすると、朗報だと勘違いされているのかもしれない。
弁の君の案内で、東の対の定国を訪ねる。御簾が下ろされた身舎の向こうに、人の気配がある。既に三条から、話がしてあったのだろう。
弁の君は、東の対の女房達に、人払いを指示した。
「お初にお目にかかります。常寧殿のお方にお仕えする、山井と申します」
女房達の気配が無くなると、季姫は、やや緊張した面持ちで、口上を述べた。季姫が顔を上げると、御簾の向こうで、息を呑む気配がする。
「三条から、話は聞いている。藤原高藤が長男、定国と申す。物忌であったゆえ、お待たせして申し訳ない」
御簾越しに、相手の緊張が伝わる。穏やかで真面目な、いかにも誠実そうな声であった。
「突然の申し出、こちらこそ無礼をお許しください」
「して、ご用件は?正直、あまり堅苦しいのは苦手でね。挨拶はこのくらいでいいかと」
定国が、姿勢を崩す気配がした。それで季姫は、高子の使者という公式な立場ではなく、あくまで、弁の君を訪ねた一人の女房という立場に戻ることにする。
「では、藤非職殿。無礼を承知で、単刀直入にお聞きします。十日の日は、御前に伺候されていましか。いえ、益殿の事件の折、その場にいらっしゃいましたか」
「やっぱり、その話か。太后様が僕なんかにご用だなんて、おかしいと思ったんだ。母上や弁の君は、何やら勘違いしてるみたいだけど、多分、そうじゃないかと思ってたよ」
季姫の問いに、定国が苦笑する。
「それでは、お答え頂けるのですか」
この時季姫は、何度か定省王に、今自分が発したのと、同じようなことを言われたことを思い出す。相手が、何かをごまかすために話をそらしてきたり、なかなか質問の答えが返ってこなかったりすることは、かなりの苛立ちを覚える。
次からは、どうしても隠さなければいけないこと以外、素直に答えようと、思った。
「確かにその日、僕は内裏に出仕したし、御前に伺候する当番だった。僕の所に来たってことは、そこまで調べてるんだよね?」
「蔵人所で、確認しました」
「そうか……じゃあ、まさか秦以葛が?」
定国が、驚きの声をあげる。以葛への信頼は厚いらしい。確かに当初、季姫が話を聞こうとしたところ、かなり邪険に扱われたような気がする。
「ええ。最初は、全く教えてくれる気配はありませんでしたが……少々、小細工をさせて頂きました」
一応、以葛の名誉のために、『全く』を強調しておく。以葛が情報を教えてくれることになったのは、彼がいい加減だからではなく、こちらが策を弄したからなのだ。
「小細工?」
「はい。とある後宮にお仕えするお方が、親しい殿方が御前にいらっしゃったどうか気にされていると、女嬬に扮して、困った顔で相談してみました」
季姫は、すました顔で素直に答えた。素直に答えたのは、こちらが手の内を見せれば、定国もある程度、話してくれるかもしれないという、計算があってのことである。
「なるほどね、あいつは、そういう、主の所為で困ってる女性に弱いんだよね。僕たち、そんなに以葛のこと困らせてるのかなあ。そんなつもりは、ないんだけどね。でも、それだけ?」
「お酒の差し入れを、一甕ほど」
「それは、気をよくしただろうね。自分は大して飲めないくせに、部下達に振る舞って、みんなが喜ぶのを見るのが嬉しいって、変わった奴だから」
季姫は知らず知らずのうちに、以葛のツボを二つも押さえていたらしい。道理で、最後には、随分と好意的になっていたわけである。
同時に、定国から聞く以葛の人柄に、季姫はますます好感を持った。
「それで、どうなのですか?」
手の内を明かした季姫は、次はそちらの番だとばかりに、定国を問い詰める。
「確かにあの日、伺候はしたよ。でも益のことは、僕からは何も言えない。ごめんね」
定国は、言葉を選びながら答えたものの、結局、肝心なことは言わず、ただ、言えないことを謝る。
「それは、その場にいらっしゃらなかった、ということですか」
「ごめん。はいとも、いいえとも言えないんだ」
その答えに季姫は、定国はおそらく、あの場にいたのだろうと推測する。いなかったのならいなかったと、言えばいいのだ。それができないということは、あの場にいて、益の事件に関わっている可能性が高い、と考えられる。
しかし、もしその場にいなかったけれど、何らかの事情があって言えない可能性もある。例えば、自分の代わりに伺候した蔵人がいて、庇っている場合などである。
どうして定国は、知らないでも、言いたくないでもなく、言えない、なのか。だれかが、定国に口止めしている可能性もあると、思い至る。
「それは、どなたかに、口止めされていると……」
「ごめんね。本当にこれ以上、何も話せないんだ」
いずれにせよ季姫は、定国の話を、すぐ高子に伝えるのは危険だと判断する。
幸い、里下がりの日にちをもらっているから、もう少しだけ、調べる時間が作れるかもしれない。




