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歌洗う姫と物怪の少将  作者: 夜宵氷雨
第3章 火の粉は我が身に降りかかる
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残香

「あの事件だって?」

「なんだってそんなことを……」

「御前で起こったことなんて、恐ろしくて話せねえよ」

「だいたい俺たち、王侍従殿から、固く口止めされてるんだ……っと、それも言っちゃいけなかったか」

 季姫と貫之から、話を聞かせて欲しいと頼まれた近衛の舎人達は、口々に断る。

 それはそうだろう。畏れ多くも今上の御前でその乳兄弟が殺された事件について、しかも大して身分が高そうに見えない人間から、突然、話を聞きたいと言われても、相手に対する警戒心しか生まれない。おまけに、通報した定省王は、彼らへの口止めを怠らなかったようだ。

 そこで貫之は、丁寧に頭を下げ、季姫に頼まれた通りの口上を述べた。

「そこを、何とかお願いします。僕は、文章生の紀貫之といって、紀君の縁者なんです。紀君が事件のことを、大変ご心配されていて……どんな小さなことでもいいから知りたいと、頼まれているんです。このままでは、御身も心配で……」

 紀君のことは季姫が言ってもいいのだが、もし紀君との関係や、自分の素性がわかった時に、多少ややこしくなる可能性がある。

 しかし貫之であれば、本人が紀氏であることには間違いがなく、少なくとも紀君の父とは面識があるのだから、万が一、今日のことが誰かに……例えば、定省王に知られたとしても、さほど、大きな問題にはならないであろうと、判断したのだ。


「おい、紀君っていやあ、確か今上の……」

「ああ。皇后様どころか、女御様や更衣様もいらっしゃらないから、唯一の寵姫だって、話だよな」

「それに、今上のお子を身籠もられて、里下がりされているんだろ。こりゃあ、ひょっとすると……」

「よし、貫之殿と申されたな。そこまで言うなら、この俺が、責任もって教えよう」

「抜け駆けはずるいぞ。一番に駆け付けたのは、俺だ。俺が全部話してやるよ」

「最後まで、あの場に残ったのは俺だ。俺の方が詳しい」

 紀君の名前を出した瞬間、皆が一斉に、自分が話すと言い出した。ここで貫之から紀君に話が行き、自分の名前を覚えてもらえれば、出世できるかもしれないと、皆が皆、考えたのだ。しかも、もし紀君が産む子が男子であれば、紀君は将来の国母かもしれないと、考えを飛躍させている節がある。

 本人に会った季姫の感想としては、紀君は到底、そんなことを今上にねだるような人間ではなかった。そもそも、本人にその気があるのなら、女御は無理でも、今頃は更衣として、一応は正式な妃の位を手に入れているはずだ。そして、女御どころか更衣ですらない紀君が国母となる日は来ないであろうと、季姫は小町に叩き込まれた知識から判断する。

 そもそも、今上には、近衛に属する舎人の一個人を出世させる力はなく、おそらくは、基経にでも取り入る方が、よほど話が早い。

 しかし季姫は、そんな様子はおくびにも出さず、時に恐がり、時に舎人達の活躍を絶賛しながら、話を聞く。

「そういえば、侍従って言うんだっけ。何か、匂いがしたぞ」

 何か気付いたことはないかと、事件の日の行動を、順を追って確認していた時であった。近衛の一人が、その場にあった残り香を思い出した。

「それ、今上や王侍従殿のものじゃないのか。あのくらいの御方なら、普通使うだろ」

「違う違う。お二人からは、違う匂いがした。でもその場に、もう一つ、別の匂いがあったんだ」

「俺は、何も気付かなかったけどな」

 最初に発言した一人を除いて、他の近衛達は、何も気付かなかったと否定する。

「俺もだ。なんだ、侍従ってどんな匂いだっけ」

「何つうか、どこか心寂しい、秋風の香り、ってやつらしい」

 その説明に、笑いが起こる。そして一層、残り香の存在が怪しくなってしまう。

「何だよそれ、意味わかんねえ」

「お前、本当にそんな匂いしたのか」

 しかし、残り香に気付いた近衛は、動かぬ証拠と共に、胸を張って断言した。

「間違いねえ。最近通ってる女の主殿が、同じ香り使ってるとかで、お下がりがあったんだ。今のも、彼女の受け売りだ」

「なるほど。なら、間違いねえな」

 その言葉に、他の近衛達も一斉に、納得したのだった。


 その日の夕刻。宣耀殿に戻っていた季姫に、来客があった。

「山井、話がある」

 冷たく、感情の籠もらない声は、定省王のものであった。季姫は、偶然に遭遇したのではなく、わざわざ自分を訪ねた定省王の真意を計りかねながらも、これ以上逃げ回っても仕方ないと覚悟を決め、その呼びかけに、素直に応じることにした。

「私にご用とは、なんでしょう。王侍従殿」

 御簾を上げて簀子縁に出ると、定省王はその外に立っていた。てっきり、校書殿の時のように、殿舎に上がっているものとばかり思っていた季姫は、少しだけ驚く。

 定省王は手招きをして季姫を端近まで呼ぶと、周囲に漏れ聞こえない程の小声で、淡々と、季姫の来歴を語りだした。

「常寧殿の山井。そなたの養父は、染殿に仕える、太皇太后宮少進藤原枝良。染殿の縁で、太后殿に仕えている。母は、かの小野小町殿の姪御で、内教坊の妓女小野麻名子。だが、枝良殿以外に、麻名子殿が男性を通わせたことはなく、麻名子殿に実の子はいなかった。何か、間違いがあるか」

 流れるように、自身の来歴を目の前で述べる定省王に、季姫は少々、呆れる思いがした。わずか一日で、よく調べたものだと感心しながらも、嘆息混じりに、その内容を肯定する。

「いいえ、その通りです。ですがそんなこと、よくお調べになられましたね」

「必要があったのでな。隠していたなら、申し訳ない」

 季姫は、益の事件に絡んで、定省王が今上の前で、自分の名を出したことを思い出す。しかしあの会話を聞いていたことが知られてはいけないと、何にも気付いていない振りをする。

「必要、ですか?隠すつもりはありませんから、それは、お気になさらなくて構いません。私が実の父母を知らず、父はもちろん、母とも血のつながりがないことは、周知の事実です。あえて、自分から話すことはしませんし、その必要もないと考えていますが……誰かに聞かれれば、素直に答えています」

「そなたは、実の父母について、何も知らぬのか」

 定省王の問いに、季姫はますますその真意がわからなくなる。益の件と、自分の実の父母が、何かつながりがあるとでもいうのだろうか。しかし、定省王の口から益の名が出ていない以上、季姫は尋ねたい衝動を抑えなければいけない。

 そして、聞かれたことに対してだけ、素直に答えることにする。

「はい。物心ついた時には、内教坊におり、母を……小野麻名子を実の母と思っていました。そして自分もいつかは、母のように舞を習って、皆の前で舞うのだと。母が父と恋人になって、その時に自分は、初めて母の子ではないと知りました。母が父に、私のことを頼んでくれていたからです」

「実の父母を、知りたいと思ったことはないのか」

「どんな事情があって私を手放したのか、どうして母に預けたのか、気にならないといえば、嘘になります」

「では、調べたり探したりしたことはあるのか」

「いいえ。手がかりがありませんし……それに私は、母が育ててくれたことと、父が引き取ってくれたことに、感謝しています。父は常々、山本大臣に恥じぬ生き方をすべきという、心から尊敬できる人です。父の北の方は、父と母とのことは、父と自分が知り合う前のことだからと、実の娘のように可愛がってくださいます。その上、小野小町という偉大な祖母もおります。これ以上、何を望むことがあるというのでしょうか」

 季姫の口調が力強く、はっきりしたものになる。自分では気付かず、無意識のうちであったが、それは、季姫の父母への思いが、明確に表れるものであった。

「そうか……では、もし実の父母がわかったらどうする」

「そうですね……どうして自分を手放したのか、事情くらいは尋ねると思いますけど……私は今のままで充分だと考えていますから、特にどうするということは、ないと思います」

「わかった。邪魔したな」

 季姫の返事に定省王は、それ以上、何かを尋ねたり追求することはなく、何やら思案顔で、その場を立ち去った。

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